ザ・スニーカー01年10月号 オーラバトラー戦記完結記念 富野由悠季インタビュー

異世界」をつくる!

僕には「剣と魔法の世界」というファンタジーが書けないんです。だから、魔法を使わないファンタジーを作ろうとして「巨大ロボットもの」という手法を使ったわけで、結果的に、今までに見知ってきた中世の民話や寓話、1990年代に作られた多くのファンタジーとは違うものが作れたんじゃないかと思っています。口はばったい言い方をすれば、現代のファンタジーみたいなものが作れたかなと。作りきったとも、描ききったとも思えませんが。
世界というものの根本には、大きな原理原則がある。それを作るのは手間がかかる仕事です。その世界を作っている文化が、何に根ざしているかをわかっていないと作れないし、作ってはいけない。
オーラバトラーの前に、バイストン・ウェルを舞台としたテレビアニメ「聖戦士ダンバイン」を作ったときから気づいていたことですが、人間の暮らしは、気候風土から出発しています。気候風土が人の性質を作り、文化を決めるのです。
だから、まずバイストン・ウェルの気候風土、日の明け暮れの推移、雨が降ったりやんだりするタイミング、四季があるか、一年の中での四季の配分などを考えてみました。考えてはみたけれど、実を言うと、ディテールを書くところがどうしても物語に偏重して、本当の意味で気候風土から生まれた文化を映し出せたかということについては、いい加減になっていますね。

何を信じ、なぜ戦うか

オーラバトラー戦記を書いている間、ずっと伏せていた話があるんです。それは、宗教のこと。バイストン・ウェルを作る上で、もう一つ強く意識していたことなんです。
人間が生きる場所には、必ず宗教というものがある。それがなければ、人間はいくつもの世代をわたっていくことなど、恐ろしくてできないからです。人間は生きていくために、宗教を作らざるをえなかった動物なのです。
だから、バイストン・ウェルをつくるときに、宗教が必要だと思ったけれども、現実のわれわれの宗教のどれにも似たものにしたくはなかった。それで考えていくと、人間の宗教心の根本にあるものは感謝と畏れなんですね。それを、どの宗教にも偏らずに、描ける共通したものがあった。それは、アニミズム。すべての物の中に神を見て。感謝するという考え方ですね。具体的には、フェラリオやコモン人たちに「天と地の精霊に」というような言い方をさせています。
これからの時代はもっと、ありのままの人の生理に密着した文化にならなくてはいけないのではないか、少なくともIT革命だの技術偏重の文化論だのは嘘だということがはっきりするのではないかという気がするんです。
だから若い人たちに、宗教と気候風土というものにすがらざるを得ない人間の心性、心の状態が、暮らしにどういうふうに投影されるかということを考えて欲しい。考えるべき方向性を、みんなで作っていって欲しいと思っています。
今、僕の死ぬまでの課題として考えているのは、日本人のいう宗教というものを解体しながらも新しい何かを示した作品が書ければいいなということ……それはもう大変なことだけれど。

「もう戦争のない時代」に「バトル」で商売する、ということ

最後の9、10、11巻については貫徹したテーマがあります。その回答は11巻の序章に明快に書いたんだけど、「もう戦争のない時代になった」ということ。僕よりふたまわり以上若いあなたたちが、これから先の時代を生きて、仕事をしていく間に、考えなくちゃいけないテーマではないかというつもりで書きました。
「もう戦争という概念は通用しない」と言っても、それは「国家間の」という意味で、違うかたちでの戦争は残るでしょう。それは、現実には、テロもしくはオウム真理教に代表されるようなカルト的なものだろうと思うけれど、両方とも狂気に隣接したものでしかないので、物語としては面白みはありません。
かつてあった戦争というものは、狂気ではなく、あくまでも政治学や外交術の延長上にあるもので、極めて冷静で、場合によっては善意に満ちたものだったりもしたし、なにより「大儀」という言葉が成立するものだった。
エンタテインメントの送り手としては、そんな戦争のなくなった時代に、どのような作品を送り出していけばいいのかと、おおいに悩んでいるんです。
戦争はない、だからといって個的なバトルものに終始していていいのか。個的なバトルの本質的な意味は、狂気でしかない。そんなキレたやつの話を見て、読んで、一般人はうれしいかといえば、そうではないでしょう。映画だからアニメだから小説だからバイオレンスものだから、いいのだ――と思えるかということです。はっきり予言できるのは、20年後のマーケットはそれでよしとは言ってくれないということです。
では穏やかな作品がいいのかというと、それもよくはない。動物というものは不幸なことに、決定的に闘争本能を持たされている。これだけは遺伝子組み替えでもされないかぎり、人間の中から消えないはずです。人間が闘争というものから抜け出すには、あと2、3000年かかるでしょう。だから、エンタテインメントの中に闘争本能を充足させるシーンは、絶対に必要なんです。
ただ、その場合のバトルシーンのありかたが変わるはずだと思っています。国家レベルでなく、狂気でもない戦争の形態というものを、人間は生み出すだけの知恵を持っていると思うんです。そんなエンタテインメントを、いずれ生み出せる気がする。それはきわめてたちが悪いことなんだけど、人間が生まれながらに持たされている闘争本能というものに目をつぶるわけにはいかないのだから、そういう戦争論というのはあるかもしれないということです。これが、次のエンタテインメント、次の1000年というものを考えていったときの、重要なキイワードじゃないのかなって……。僕は今、とんでもないことを言ってるかもしれない(笑)!
それで、できたら僕は、死ぬまでにそういうエンタテインメントを作りたい。だけど僕にはそんな才能ないもんなあ。くやしいなあと思います。

恥とリファイン、そして……

新書で出した「オーラバトラー戦記」を、10年ぶりに読み返して、結果的に全面改稿をしたわけだけれど、基本として作ってあった構造は変えずにすんだという意味では、まあ悪くない作品だったのかもしれないと思えます。でも……とにかく新書版は出来が悪くて、思い上がってもいて、ものすごく恥をかいたということがわかって、それはすごく切ないことでしたね。
今回、少しはリカバリをできる機会をいただけて、本当によかったと思うし、「オーラバトラー戦記という小説は、これだけおもしろいから読んでよ」という意味だけじゃなく、今話したようなことを本当に考えさせられることができて、これからやらなくてはならないことも、かなりはっきりと見えてきたと思っています。
でもそれが、僕には過重が高すぎて、これはやりきれねえよっていうレベルでね……本当につらいのよ。正直、僕は今、才能がほしい、本当に、才能が欲しい。
(2001年7月31日 都内にて収録)