SPA!91年03月06日号 人類は大量殺人を繰り返す。ニュータイプはそれに対するアンチテーゼだった 富野由悠季

―― ここ10ぐらいのマンガやアニメで、本格的に“戦争”を描いたといえるのは、『機動戦士ガンダム』と『風の谷のナウシカ』くらいだったと思えるんです。『ナウシカ』の場合は、大祖国戦争オスマントルコ対東欧の十字軍などの戦争でしたね。これに対して『ガンダム』は宇宙へ植民する人類の姿や、そこでの植民地戦争などの未来形の戦争を提示していたと思うんです。その後、イランのホメイニ革命やアフガン問題、イラン・イラク戦争などの局地戦という新しい形の戦争が続きました。これは監督の予告が当たっていたと感じるのですが。
富野 しかし『ガンダム』のテーマの中の戦争の予言性に関して言えば、ぼくは占い師でもないし、預言者でもないんです。なぜあのような作品にしたかというと、戦争の元は何なんだろうと考えたんです。要するに、“人間の本質は変わってこなかった”ってことなんですよ。われわれは道具の発達で“文明”を築いたとか、“近代化”という言葉の衣装で歴史を語ってきた。しかし、その“近代化”とともに人間の思想そのものも進化してきた、というのは全部ウソだったのではないか? そう感じたからああなったんです。
―― でも、今20代後半ぐらいの世代は、あの作品で戦争を真剣に考えましたよ。また、人間も変わっていけるものなのだ、その形としての“ニュータイプ”という概念も出て、大変わかりやすかったんですが……。
富野 人間は進化する、変わっていける、ぐらいのテーマを作品に持たせておかないと、みんなが希望を持てなくなるでしょう。若い人が見てくれるのに、ペシミストを増やすための作品はつくれません。しかし、ごまかそうとは思っていない。「(人間の)現実はこうだよ」という部分をはっきり出しておいて、でも「(今後人間は)変わっていける」という形も見せておかなければ(作品は)終わらなかったからなんです。
それと『ガンダム』は、商業ベースに乗っていたため、“民族”と“宗教”という問題には触れられないという絶対状況下で作っていたんです。ですから、本当の意味で“戦争”って問題を提示したとは、僕は思えません。その反省のほうが、今は強いですから。『ガンダム』で戦争を考えたっていわれても困ってしまうんですよ。
―― しかし、100万、200万人が死ぬ戦争がまだあるかもしれないって『ガンダム』のなかでも語られていましたよね。
富野 つまり、今こそボーダレス、国境がなくなった地球を想定して考えなくてはならない時なんです。しかしこの100年で西欧諸国がやってきた、植民地支配のツケがめちゃくちゃに出てきている。この支払いをきちんと済ませないと、感情論的に済まないのではないかって気がするんです。
―― それは、現在の湾岸戦争にも通じますよね。ええ。そして現在の状況を考えると、もう一つ重要なのは、アメリカっていうのは一つの国家じゃない、統合民の集まりの国家なんです。これを日本人は誤解しているんじゃないかな。彼らはとにかく新しい自分たちの国をつくりたかった。しかし本当の意味での国家基盤ができてない、純粋なナショナリティがないままに世界の警察官をやろうとしたために、とんでもない間違いをしてきたんじゃないか。つまり、アメリカは正しい意味での“帝国”ではないんです。帝国主義を自覚したうえでの悪業さえもやってはいないから、“アメリカ”としての傷がないんです。ぼくはぞういう国のやることは全く信用できません。むしろ、中東での戦争は、バビロニア時代から続いている争奪劇なんだから、アラブの人たちのほうには、5代10代にわたって考えていく、戦略・戦術論があるのではないかと思えてしようがないんです。500~600年の歴史でみれば、アラブ諸国は西欧諸国に後れをとりました。しかし彼らは、自分たちのアラブ世界が、世界制覇できないなんて思っていないはずです。彼らの“民族の情熱”みたいなものを過小評価してはいけないと思うんです。
―― それでは最後に、今後ボクら人間は何をなしていくべきとお考えでしょうか。
富野 結局、今まで語られてきた人間の進化という思想はウソだったんではないか、と考えると、人類は今度、既成の思想の枠組とは違う形で、再構築するものを見つけ出さなければならない。そんな時代になったと思いますね。