ガンダムA10年04月号 「リーンの翼」刊行記念 富野由悠季インタビュー

―― 小説「リーンの翼」を脱稿されたのはいつごろですか?
富野 2009年の5月に終わりが見えて。最終的には9月ごろになりました。3巻、4巻を書きはじめたのは、OVAリーンの翼」の作業が終わって仕事がなくなってですから、3巻、4巻を書くだけで3年かかりましたね。
―― 小説を書くときは様々な執筆スタイルがあります。富野監督はいかがでしたか?
富野 一気には書くことができませんでした。ずるずるとやっていると4〜5年はかかるだろうし、自分が忘れないうちに書き終えようと思っていました。
―― 「忘れない」というのは、OVAリーンの翼」の内容のことですか?
富野 いえ違います。僕が言った「忘れない」という言葉は、体と意識の問題です。仕事というものは妙なもので、一度離れると復帰しにくくなります。体が仕事に慣れている忘れないうちに、小説を書き終えなくてはならないと自分に課していました。そうしないと作品を書き終えるということは、絶対にないのです。いつの日か完成させるという仕事は、まず完成しません、小説は僕にとってあくまで個人的な作業でしたから、「70歳までに書きあげないと、まずかろう」と思っていました。
―― 70歳という年齢は、富野監督にとって区切りになるんでしょうか?
富野 「長生きが目出たい」というのは、本人だけの喜びにすぎません。まわりの人は迷惑をするだけでしょう。僕は65歳を過ぎたときから「来年、死ぬかもしれない」という可能性を想定の中に入れるようになりました。そう思えれば70歳という締切りです。
―― 角川ノベルス版の「リーンの翼」から27年が経っています。今回、完全版を書くにあたり、27年前の自分と、今の自分の違いを感じましたか。
富野 違っていたら、きっと書けないと思います。あくまで「リーンの翼」の続きを書くわけですから、後戻りするわけにもいかないし、繰り返すわけでもありません。ですから作者の気分は27年前と変わっていません。物語のラインの上で時間が推移しただけのことです。おそらく自分の年齢を意識して、年相応のものを書こうと思ったら、3巻、4巻はもっと辛気臭いものになったでしょう。
―― 今回の3巻以降はOVAの登場人物たちが顔を出しますね。
富野 前の「リーンの翼」では「特攻で死にぞこなった男が年を取っていく中で、何をすればいいか」という話を書いたわけです。ただ、その後の物語を書くと、旧来のファンタジーにおける単なる年代記ものになってしまう。それはイヤだったんで、OVA化の企画があがったときに、「リーンの翼」をベースにした現代の物語を考えたんです。
―― エイサップ鈴木を主人公とした現代の物語ですね。
富野 「地上の世界から来たエイサップたちの物語」と「無国籍艦隊を生み出す物語」というアイデアを先に設定しておいて、小説版では、それまでチャンバラばかりをしていた迫水が、その物語とどこで接点を取れるかを探る物語にしたわけです。
―― 27年前の「リーンの翼」と現代の「リーンの翼」を接続したわけですね。
富野 先ほど作り手の気持ちは27年前と変わらないと言いましたが、書いているのは僕がひとりであって、「27年前とまったく同じ富野じゃないか」と言われるのもシャクなんです。そこで「無国籍艦隊」を小説の中で出すことによって「リアルな現実をファンタジーの世界に貼り付ける」くらいのことはやってみせようと思っていました。それがないと、今年から来年にかけて出版させてもらえるものにならないんじゃないかなと考えたのは事実です。
――「リアルな現実をファンタジーの世界に貼り付ける」という挑戦は、OVAのときから指向していませんか?
富野 OVAの製作、企画のときは出版のことまでは考えていませんでした。あくまでも「今の若い人たちが見るアニメ」ということで「現代の物語」にしたんです。ところが……OVAのファンの方々には嫌な気持ちになるかもしれませんが、OVAの「リーンの翼」を作り終わったとき「『リーンの翼』はこんなちゃちな話じゃないんだよ」と思いました。そこで小説で迫水のホウジョウ建国の歴史を書かざるをえなかったんです。こう言うと小説版「リーンの翼」はOVAの後追いのように聞こえますが、僕としては、今回の小説こそが「リーンの翼」の原資料なんだという気分があります。だからこそ、「歳を取ったから作品が変わる」という進化論だけでは、この仕事はできませんでした。こうやって話していて……「富野は若いな」と改めて自分で思っています(笑)。
―― 富野さんにとって「バイストン・ウェル」とは、どんな世界ですか?
富野 我々が今生きている現在というものは、「バイストン・ウェル」のようにすごくフィクショナルな世界なのかもしれない。これは本作を書いていたときには感じていたことでした。今の我々は、リアリズムで判断する能力を持っていません。この説は社会哲学者のハンナ・アーレントが言っていたことです。本当の意味での知見を行使して判断している人は少ない。そのメタファーになっているのが「無国籍艦隊」なんです。「無国籍艦隊」を荒唐無稽だと言う人がいるかもしれない。けれど、アメリカや日本の軍事費や民主党政権の「子ども手当」に比べたら「無国籍艦隊」なんてかわいいものですよ。いまは金融会社のトレーダーたちが10億単位のボーナスを一年でもらえる時代ですよ。そんなお金が個人にもらえる社会システムは狂ってると思いませんか? もうファンタジーの世界でしょう。そのように考えれば、「無国籍艦隊」のほうがリアルです。「バイストン・ウェル」をリアリズムで書いたからこそ、僕は本作の最後に、僕の価値観では許せないことを書いてます。読んだ方は気づいたかもしれませんが、あんな非科学的な、非リアリズムな展開は、生理的に一番嫌いなことです。でも「無国籍艦隊」のリアリズムの中では許せる結末だと思っています。
―― なるほど、今の社会がファンタジー化しているからこそ、小説のリアリズムが力を持ちうるという話ですね。
富野 「バイストン・ウェル」は「ハリー・ポッター」的な世界ではなくて、自分たちの肌感覚に近いところで描きたいと思っていました。海と陸の間に「バイストン・ウェル」があり、オーラ力という地球上に住んでいる生命体の力が、エネルギーになっている。「バイストン・ウェル」は向こう側にあるのではなく、こちら側にあるんだということを伝えるには、4冊もの分量が必要でした。「オーラバトラー戦記」みたいなものはどれだけ書いても向こう側の世界の話になってしまいます。だけど、今回の「リーンの翼」は、過去の「リーンの翼」もひっくるめて、すべてを「こちら側」に引き寄せることができたと思っています。
―― 富野監督は作家としてリアリズムを追及することで、読者に現実を感じて欲しいと思ってるんですね。
富野 そういうカッコイイ言い方もできますが、要するに僕は今、興味を持っているもの以外はまったく興味が持てない人間なんです。本当に勉強をしなきゃいけないなと思っているんですが、根が勉強がおっくうな人間だから……。今回「リーンの翼」で僕が嫌なことがひとつだけあります。それは僕の20数年分の勉強がすべてわかるようになってしまったんです。本人の総量が見えてしまった。もう少し立派な小説になると思っていたんだけどね(笑)。だから、この小説は読んでほしくない!
―― (笑)。
富野 「オーラバトラー戦記」みたいな物語の構造は「お話」として自分の意識を抜きに書けますが、今回の「リーンの翼」は自分の恥部まで見せてしまったという感覚があります。
―― この作品を脱稿して、「バイストン・ウェル」の物語をもっと書きたいと思いませんか?
富野 「リーンの翼」についてはもうこれ以上、言うことは何もないんです。書きおわってから、一文字も書き足したいと思わないし、自分の考えているすべてのことは作品の中に書いたと思っています。もちろん仕事というのは、自分一人で決めることができないものですから、今後「バイストン・ウェル」の作品に関わることがないとはいえません。ただ、ひとつの区切りとしてはすごくいいタイミングだと思っています。いま、こうして上梓していただいて、手にとって本当にうれしい。これ以上のことは考えたくないですね。当面は次の仕事のマーケットリサーチと企画の書き直しですね。それ以外のことに興味はないです。
―― 富野監督にとって「リーンの翼」は「やりきった作品である」というわけですね。
富野 出来不出来で言えば、気にかかるところもあります。1巻、2巻はリライトであるから、3巻、4巻とは違う印象があるかもしれません。リュクスについてはもっと書いたほうが良かったかもしれない。だけど、人生ってそういうものなのかもしれないとも思えるんです。もはや「リーンの翼」は作品として独立していて僕の手から離れてしまいました。自分自身の評価はあるけれど、あとは読者の評価にゆだねたいんです。
―― 富野監督にとって、そこまで言える作品って、これまでありましたか。
富野 あるわけないじゃない! 「機動戦士ガンダム」が終わったときですら、僕を振り切らせてはくれませんでした。TVシリーズをやって、劇場版でリメイクをさせてもらったけれど、スタジオワークはいち監督が悦に入って済ませられないものなんです。劇場版3部作は商業的にも、作品的にもほめられたことはないですしね。自分自身でもドッタンバッタンとしているうちに終わってしまったんで「ええっ!」と思う気持ちが強いし……。いや、ひとつだけありました。「伝説巨神イデオン 発動篇」です。「発動篇」を作り終わったときは、こういう気分でした。あれだけです、「やった、作れた、これくらいのことはできるのかな」と思えましたね。「リーンの翼」は独自性のある作品になったと思うし、時代性を追うことができた作品になれたかなと思います。せめて、それくらいは悦に入らせてください(笑)。
―― 「リーンの翼」を若い読者も読むと思います。どんなふうに読んでほしいと思いますか?
富野 フィクションの持ちうる固有名詞はすごく力になると思うんです。たとえば、僕が国家の話をするときに、鳩山由紀夫首相の名前を出したとしても、それは半年経ったら通用しないかもしれない。これど僕が「今の日本人はガロウ・ランなんだ」と言えば、普遍性のある問題提起になりうるんです。そういった経験は「機動戦士ガンダム」で味わっています。そういった一端に加わることができれば……ただ、この分厚さ……今の読者に最後まで読んでもらえるだろうか(笑)。
―― このボリュームになるとご自身では予想していましたか?
富野 それぐらいしてますよ(笑)。ただ、書き終わった僕としては文庫本上下巻ぐらいが良かったなとも思います。つまり、何を考えているかというと「リーンの翼」が少年少女文学全集に並んでほしい。それが残された「リーンの翼」の夢ですね。早く古典に仲間入りしてほしい。「ピーターパン」や「かぐや姫」と並んでほしい……ちっとも謙虚じゃないね(笑)。
―― 富野さんは、もう次の企画を進めているんですよね。
富野 まだ企画が通ったわけではないので構想中ですが、先日、企画書を全部書き直しました。
―― 何があったんでしょう?
富野 昨年、アメリカのNASAが宇宙開発計画を縮小したことで、ロケット技術による宇宙開発が伸びないということが証明されてしまいました。50年前の僕はロケット技術に夢を抱いていたんだけれど、今の子どもたちにとっては夢ではなくなったえしまった。「夢の技術」と思えるものに何があるのかと探していたときに「宇宙エレベーター」しかないということに気づいたんです。先日、青木義男先生と対談したときに、そのことを知って、愕然としたわけです。でもおかげで「ガンダム」規模の数万人単位の宇宙移民は「宇宙エレベーター」が開発されていないと実現しないんじゃないかということもわかってきたし、宇宙エレベーターの先端からロケットを発射すれば、地球の自転の遠心力だけで、火星や木星まで到達できる推進力が得られることもわかりました。天体の運動という自然科学が、機械の性能や燃料の燃焼といった工学までも包括するというのは、まさしく21世紀の考え方だと思うし、そこまで考えないといけないのかと痛感したわけです。「機動戦士ガンダム00」でも「宇宙エレベーター」は設定として使われているけど、それとはちょっと違う扱いを考えるようになりました。もう一度、宇宙移民のはじまりから「宇宙エレベーター」で考えてみようと思っているんです。ただ、これはあくまでも技術論であって、お話はこれから。企画の大転換がはじまったばかりで、ようやく本編の設定に入れるところです。子どものためのアニメにする意識を持って取りかかるつもりでいます。「ゆとり教育」を受けてきた世代に向けても楽しめる作品にしたという野心があります。