NT 10年7月号 冲方×富野 第1回 「リーンの翼」がもつ魔力

この10〜15年の日本映画とアニメがつまらない理由

冲方 僕は、自分の作品に反映させられるくらい「リーンの翼」を読み解こうと思ったんですね。ですが、ひとつの発想がほかの発想と半ば合体し、絡み合っているので、うまくくみ出せなかったんです。たとえばリーンの翼という設定はいいな、自分でも使ってみようかなと思うじゃないですか。でも、いざそれを抜こうとしても、そこからオーラ力、バイストン・ウェルの世界、のちのちのオーラバトラーまでつながってついてきてしまう。靴から翼が生えるという神話的な発想に全部がくっついてきて、部分では使えないんですね。それはご自身が意識されていたのか、それとも書いたらこうなったのか、まずそれをお伺いしたいな、と。
富野 それは映画的な発想で物語を構築しているからなんですよ。大学でシナリオの勉強をしたときからたたき込まれたのが、表現されるべきものとテーマとの関連性で、それは密着していなければならないということでした。このテーマだからこの素材を使う、逆にこの素材ならこういうテーマが描けるというふうに、常にいっしょのものとして考えるクセがついてるんです。シナリオを書く場合は、まず箱書きといって、テーマに貫かれた素材の箱を並べていきます。靴から生える翼、生体乗り物のオーラバトラー異世界バイストン・ウェルという。で、そこにはまだ物語もディティールもないんですね。
冲方 それらを箱として認識しているわけですね。
富野 そう。その箱と箱をつなげるために物語をつくっていく。これが映画畑の人間がもっている勘で、キャラクターの関係性も箱で考えている段階ではそれほど見えていない。
冲方 え、そうなんですか?
富野 はい。しかも映画の場合はキャスティングで箱の中身すら変わる場合もある。もちろん現場の状況でも変わっていきます。そこで初めてディティールに入っていく。たとえば、脚本的には晴れていないとまずいけど雨が降っちゃった。スケジュールはもうない。そうなったときに、このセリフを入れれば話的につながるよねっていうのを死ぬ気で考える。そうすることで予定調和でないものが生まれるんです。
冲方 つなぐ必然性がいつ生まれるか分からないシチュエーションに、自分を投げ込むんですね。
富野 そう。この10〜15年の日本映画やアニメがつまらないのは、全部わかったなかで撮っていて、ワケのわからないものがないからです。初めてお会いしたときに、行き当たりばったりで書いてると言ったけど、あれはレトリックじゃなくて、僕程度の人間は物語を全部コントロールする力がないから、まずとことんまで物語を広げて、それをどうにか収拾していくしかない。つまり、構造に戻るんだよね。その組み上げさえうまくいけば、劇は成立する。それが文芸としていいものになっているかどうかが問題で、そんなことは知るかというところで留まっているのが僕だから、「リーンの翼」を書き終わっていちばんイヤだったのが、これは小説じゃないという感覚がすごく強かったことだね。
冲方 それはめざしていた文芸として気に入らなかった? それとも、自分の心に抱いていた劇をうまく構成することができなかったから?
富野 両方です。これ一冊で僕の能力査定ができちゃうくらい、僕の知ってることと知らないことがわかっちゃうのだから小説じゃないでしょ。
冲方 まさにそれを小説と考えている人も多いと思いますが……富野監督は自分がもっている以上のものを作品に引き込みたかったんですね。
富野 クリエイティブな仕事には、その人の能力を超えることがあると思います。僕は、ゴッホの意識の中に強固な美意識や芸術論があったとは思えない。でも反射神経で生み出したものが、ああいう形となって現れる。アーティスティックなアクションというのは、まさにああなるべきだと思っていますから。

オレにも書けるのではと思わせることばの魔力がある

冲方 富野監督の言う“行き当たりばったり”は、僕らが使ってる行き当たりということばとは違う気がします。このシチュエーションの“行き当たりばったり”にほうり込まれて生き残れる若い作家はほぼいないでしょう(笑)。そのくらい厳しい状況に自分を置いたうえで、そこから必然性を招いているというのが、「リーンの翼」を再読した僕の実感です。とにかく、1巻から4巻にかけてのイメージの変転は、論理だけで導けるものではないですよ。
富野 それは僕がアニメの演出家だったからです。先ほど映画の演出の話をしましたが、あれに近い感覚が自分にも備わってるんですね。行き当たりばったりでかなりひどいこともやらされたし、そのひどいものをどうつなげるかという訓練もしてきました。そういうふうにまとめていく作業には、かなりの力業もいるわけで、簡単にできるとは思ってくれるなとは言いたいけど、ただ、「リーンの翼」を読んで間違う人たちがいるだろうということも承知しています。
冲方 間違うというのは、自分にもできると思ってしまうということですね。実際、僕も一瞬思いました。自分もこういうものが書きたいし、書けるんじゃないかって。そう思わせることばの力がこの作品にはあるんです。ことばが数珠つなぎで切れ目なく続いて、シンプルにさえ感じる。だから自分にも書けるんじゃないかと思うんだけど、実はその工程たるやものすごい複雑で、そんじょそこらの作家がまねできるわけがない。
富野 冲方さんからそう評価していただけるのは、とってもうれしい。だって僕は、そういうふうにまねされた事例を20年間見つづけてきた人間だからね(笑)。
冲方 まねするとケガします(笑)。しかも、その物語の中に蓄積された世界の大きさ、箱の数も僕の創造を超えています。これらの箱を組み上げるまではできるとしても、そうやって組み上げたものはいつ崩れるかわからない。先ほど力業と言われましたが、本当にいろんな力が必要なんですよ。いつ崩れるかわからないものを支えつつ、ディティールを積み重ねていくことでさらに重くなっていくわけですからね。それを単行本4冊の分量背負いつづけるというのは、途方もないことなんです。それに耐えられる心根の持ち主でなければ絶対にできません。
富野 もうほかの人には読んでもらわなくてもいいや(笑)。
冲方 いやいやいや(笑)。
富野 なぜ僕にそれができたかというと、僕が「リーンの翼」だけに命を懸けた人間じゃないからなんです。時間つぶしのために書いていたというのは本当だし、自分の中で仕事と設定したからこそ書けた。自分の好きだけではこうは書けないというか、僕には本当に好きなものがないんですね。ノベルスを書くのも好きじゃないし、アニメをつくるのも好きじゃない。映画だって、好きにやれるものじゃないとわかってる。命懸けでやるべきものがないんです。自分が怠惰な人間だということも、この程度の人間の能力しかないということもわかった。めざすべきものがないから、仕事として設定しないと何もできない。そういう自分は情けないと思いつつ、でも「リーンの翼」を書けるのは富野さんだけですよと言われると、そうかもしれないなとも思う。ただ、それは僕の才能ではなくて、映画的に物語をまとめるというアニメの仕事をやりつづけた成果なんですよ。僕と対極にある成果が宮崎駿監督の仕事で、僕はあれをやりたかったのにできなかった。そうはいっても、能力以上のスキルを手に入れることができたのには想像を絶するくらいすばらしいことです。僕の場合、それがスキルで終わってアートの領域にまで踏み込めなかった。それが悔しいんですよね。

リーンの翼」は、アニメ黎明期に培った力あればこそ

冲方 富野さんのお話を聞いていると“仕事をする”という、そのひと言の重みを本当に理解しないといけないんだなと思います。「リーンの翼」の1、2巻は27年前に書かれた旧作がベースになっているわけですけど、何でこんなに古くないんだって驚いたんですよ。古さがないというか、すべてが独自なので作品の中に古くなる要素がないんです。あの時代の流行だとか当時のノリみたいなものが、まるで入ってない。こういうものこそを“仕事”というんだろうなと愕然としました。
富野 その点は僕なりに、少しは気をつけました。どういうふうに気をつけたかというと、僕はオリジナルの新しいアイデアは浮かばない人間だから、ファンタジーならファンタジーの原理原則だけを追いかけるということです。実務的には、はやりことばは絶対に使わない。ただ、そうするとどうしても古めかしくなる。それを古めかしく感じさせないようにするには、みんなが思う原理的な願望を書くんです。たとえば、空を飛ぶ夢は誰もが見るでしょ。だとすれば、靴に翼が生えて空を飛ぶ話は誰も古いとは感じないはずだという、それだけなんです。
冲方 なるほど。
富野 冲方さんの小説が、ああいう文体でああいうページ面だから告白するけど、僕も本になったときにああいうふうな見え方をするようにすごく努力したのね。ゲラを見ながら改行改行改行ってものすごい赤を入れたのよ。で、最終的にできた本を見たら、あのざまです。ホント、イヤになった(笑)。何でこうまでもページ全面活字で埋まってるんだって。
冲方 あははは。ページ面という考え方は初めて聞きました。
富野 今はビジュアル社会だから、そういうところから気にしていかなくちゃいけないんです。なのに、それができないんだ(苦笑)。
冲方 先ほどからアニメの仕事をしていたから「リーンの翼」が書けたとおっしゃっていますが、やはり、それはアニメ自体が黎明期だったからこそ培えた力なんですか?
富野 そうですね。アニメというジャンル自体に予定調和なんかどこにもなくて、とにかくやみくもにやらざるをえなかった。そのときに僕は、現場もろとも個人の名前が消えるのはイヤだと踏ん張ったんです。それは宮崎監督もそうだし、ああいう新興のジャンルのなかで何人かが個人名を残すような仕事ができたのは、当事者それぞれの踏ん張りがあったからだと思います。
冲方 僕もアニメの現場に参加したことがありますが、とても特殊で、そこで踏ん張ることによって、すごく汎用性のある力を身につけることができる場所だなと実感しました。
富野 僕もそう信じて踏ん張ってきました。僕は、アニメの現場なんてものすごく怪しいものだと思っていたので、どうにかして利用してやろうと思ったのね。ほかの人たちはここで仕事をすることで満足していたけど、僕は利用しようと思った。その違いはあったような気がします。
冲方 僕の知り合いにもガンダムにかかわっている方がいますが、富野さんと違うなと思うのは、やり返さないんですよね。ガンダムという枠組の中で自分の表現ができるという喜びは伝わってくるんですが、じゃあその枠組、作品、スタジオに対して何をやり返しているかというと、実はあまりない。そこが富野さんとほかの多くの方の違いなんですよね。
富野 何言ってるの、冲方さんこそ「天地明察」でやり返してるじゃない。ということで、次回は「天地明察」の話をしましょう(笑)。