NHKラジオ第1「渋谷アニメランド」10年5月25日放送分

渋谷アニメランド
ゲスト:富野由悠季 パーソナリティー藤津亮太

藤津:監督、宜しくお願いします。
富野:こちらこそ、宜しくお願い致します。
藤津:皆さんに事前にお寄せ頂いたお便りも、番組の中では紹介していきます。尚、番組のHPも併せてご覧下さい。まずここで富野監督のプロフィールを簡単に紹介したいと思います。(中略)では、昨年なんですけど、ガンダム30周年ということと、スイス・ロカルノ映画祭で名誉豹章を受賞されたという大きなトピックがあるので、その辺りから伺いたいと思うんですけど、ロカルノ映画祭での表彰理由が「ロボットアニメに革命を起こした」という主旨だったと思うんですけれど、ロカルノ行かれての感想みたいなところから伺えればと思うんですけれど。
富野:あの、主旨に関してはちょっと違いまして、長年アニメの仕事をやってきたからご苦労様っていうのが本当の主旨です。ロボットアニメということは付いてませんでした。
藤津:あ、そうですか。一部報道でそういうのがあったので。
富野:功労賞ですから、年をとったらもらえる賞だと思いますが、そうは言っても、日本のアニメ界だって大勢スタッフがいる訳ですから、有り難かったな、という風に思っています。それで実際にロカルノに行って見て分かったことがあります。「ガンダムがこれだけ普及した理由は?」という質問が次にあるはずなんだけれど、今原稿を読んでいます。実はそれに掛かっているんです。どういう事かと言いますと、かなりスイスでもイタリアでもガンダムもそうでしたし、富野由悠季という人の名前も知られていました。ファンがいました。どういう事かと言うと、我々が知らない所でディーラーが勝手に売って儲けた奴がいっぱいいたのが分かったっていうことで、アニメというのはそういう様な歴史をこの40年近く続けてきたっていうのを知りましたので、大変勉強になりました。
藤津:でも、全く知らない地域の人にガンダムは見られている感触は得ることが。
富野:はっきりありました。だから、一応表彰される形の時に、本当に信じられなかったことがあるのは、1000人以上のお客さんがいたと思うんですけど、4000人ぐらい入る後ろの方で、僕が名前を呼ばれた時に「富野さーん!」って(笑)。どう考えても日本人じゃないんですよ。っていう状況を見たときに、今嫌味っぽく言ったようなこと、つまりアニメ関係者が知らない所でも、作品が20年前30年前に売られてたっていうことが分かった。それは実を言うと後で裏づけも取れました。現にそういうファンがいたっていうことも含めて、民間で売れるということはこういう事なんだ、っていう事も知らされましたので、表に出ている以上に、日本のアニメがどういう形で楽しまれていたのか、ってことが実感できて、去年ロカルノに行ったことで、何と言うのかな…4、5年分の勉強をさせてもらった、っていう意味で本当に呼んでいただいて感謝してます。
藤津:刺激を受けた?
富野:いろんな意味で。つまり、東洋の狭いとこでやっている机でやっている仕事ではないものがあったんだ。だから僕の立場で言えば、何と言うのかな、ロボットアニメと言えど手抜きをしないで作っていて良かったな、っていうのは本当の実感を得ました。
藤津:ガンダムが普及した理由と言うのは監督が手抜きをしない、誠実に作った、というようなところが根っこにあって、それがこう広く国内だけでなく国外にも浸透する理由だったんですかね。
富野:だと思います。単純にロボットものとか単純に戦争ものだったら、そんなに効かなかった、と思います。ただ本当にこの十年は違うでしょうけれども、二十年前三十年前の感触で言うと、それこそ去年ロカルノで会ったイタリアの方・三十代のガンダム世代と言われる人がいるという事も知ったし、一昨年北京に行ったときもオンエアされてない筈の中国でもかなり有名だったということは「なんなんだい!」というのはビジネス論で考えると不愉快な部分があるんだけれども、所謂芸能とか文芸とかというジャンルで考えた時に「あ、やはりただ人型のロボットが動いていればどうも良いってもんじゃない」それは本当に実感しました教えられました。
藤津:最近で言うと小説を「リーンの翼」という小説を出されて。これは監督が過去に書かれた作品と小説と新しく作られたOVAのアニメをベースにしたのを合わせて長い一つの…。
富野:いやいや、それだけじゃない。その上にノベルスと新作の要素も入れて書きました。それはさっき言った通りガンダム30周年の壁を乗り越えるために、という事で自分にとってのエクササイズなんですよね。ですから過去のものを取り纏めながら新作も入れて作っていくというノベルスの形態というのは今まで、きっと誰もやったことがないだろうから、やってみた。それでやってみて、一つの形が見えたっていう自惚れは自分の中にはあります。と同時に、その作業をやったお陰でガンダム的な仕事についても自分が耐久力を持てるだろうな、っていうこともやっぱり確認できたんで。作品の表れ方はちょっと違うんだけれども、僕にとっては「リーンの翼」の仕事を実を言うと3年くらいかかっているんですよ。
藤津:またお仕事ですね。物量がありますから。ハードカバー4冊で。
富野:だから丸々殆ど三年かかってますけれども、そういう事をやりながら30周年を乗り越えて、今年になってみてという事での…何て言うかな…次に行くべき方向性ってのは見えてきました。そういう意味で「リーンの翼」も僕にとっては当然一人の人間がやっていることですから、仕事としてこういう機会を手に入れることができて本当に有り難かったな、という風に思ってます。
藤津:仕事を通じてトレーニングすることで先へ行く道を探るということですね。
富野:そうじゃなければ、「普通」という言い方をしますけれども、僕は怠け者ですから、仕事が無ければ何にもしません。そういう人間です。ですから、本当に有り難い仕事がいっぱいあるという風に思っています。


土屋アンナ「MY FATE


藤津:監督にここで伺いたいのは、アニメ版の「リーンの翼」もそうなんですけれど、監督が作られる作品って基本的にはロボットアニメと言われるものが多いですよね。監督としては、ロボットというのはお好きですか? ジャマですか?
富野:ロボットものの作品の専従者、つまり専門の監督になった理由というのは、ロボットものの作品だったら物語を作らせてもらえたんですよ。TVの仕事でありながら。つまり、どういうことかと言うとギャラを貰えながらオリジナルストーリーを作るという訓練をさせてもらえたの。だからロボットものを選んだのであって、ロボットもは基本的にはあんまり好きではありません。だから創作をするための訓練の場として、大学で勉強する様な事をギャラを貰いながら出来るっていう仕事を二十代の後半から三十代、こんなオイシイ仕事ないじゃないですか、って言った時に何で原作つきの仕事をやるというつまんないとこに行くんですか、ていうのが本当のところです。
藤津:ロボットって演出家として見た時に、人型というところに面白い所はありますか? つまり機能としては戦車であろうが戦闘機であろうが良いわけですよね、話の都合的には。
富野:全然違います、ダメです。いい? 作品を観てくれている人が人間なの。観てくれている人ってのは動物なの。人間っていう。人間っていう動物は同類に対して一番シンパシーと共感性を感じるの。そうすると、自動車とか戦車みたいな格好しているものにはあんまり感情移入しないの。ミリタリーおたく以外は。だから、いい? 物語という人に伝える物語を作るときに人型の表現の方が観ている観客は、子供も大人もそちらにシンパシーを感じるんです。だから人型ってのは有効なんです。そういうことです。でしょ?
藤津:分かりました。って事は、そういう意味で言うと、ロボットの顔なんかも結構重要ですよね? 顔が無いよりはあった方が…。
富野:勿論そうです。ところがそこで大問題があったのでガンダムには口が付いていないんです。と言うのはどういう事かと言うと、機械的なものに口までも付けたときに、気持ちが良いか悪いか、みたいなことがあって、口を付けなかったり。それから、三十何年前巨大ロボットものが流行っていた頃に、口が動くロボットも登場するって番組もありましたし、僕もそういう演出もやった事があります。
藤津:ライディーンなんかも口がちゃんとある…。
富野:そうすると、正に人間ていうのは同類のものに対しての審美眼が物凄く高いんです。機械的な顔が喋られるとね「ン……?」という様なね、これは子供でも大人でも。
藤津:なんかおかしくないか? って。
富野:おかしくない。おかしいんです。だからそれをしなかった。どういう事かというと、身体性ってのはつまり体で表すということの表現は、多少機械的なものでも人間っていうのは容認出きる、認められる。だから、結局戦闘シーンなら見得を切る様なポーズが成立するっていうのは、劇表現として体で表してくれるものっていうのは、観ている人が納得する。つまり、嬉しいのか、悲しいのか、やられたのか、突っ込むぞと言うのか。そういうことを実際に人型の機械でやらせてみると、アニメでは、つまり画ではそれを表現する事に関しては実写よりシンパシーを感じることができるので、人型の、つまり小道具というのかな、大道具っていうのはとても便利だな、っていうことがあります。この事が実を言うと映画的とか演劇的にものを表現する時のハウツーというものをいっぱい教えてくれました。だけど、今みたいに見ないで、人型のメカという目で見ていると、演技論とか劇を構成する事を忘れる、という事が起こります。ですから、ロボットアニメという仕事から本来かなりいろんなものを学習することが出きるんだけれども、今言った演劇的とか映画的なものを学習したスタッフってのは、まず誰もいないんじゃないか、という意味では今日現在まで失望してます。
藤津:逆に言うと監督はそこを意識してロボットを演出してきた、という事ですよね。
富野:笑われるかもしれませんけども、僕シェイクスピア劇を演出するのと同じ気分でやってます。って言うとこれはまたウケるんだろうけども、これ本気なんですよ(笑)。
藤津:僕本気だと思って聞いてます。今お芝居の話があったんですけど、多分ロボットは、台詞が多少オーバーでかかる時がありますけどもオフ台詞で。基本的にロボットは喋らないですよね。そこは多分一つ演技、例えば戦闘シーンの流れの中でエモーションなり、なんかを乗っけてく所が演出の勉強になるというところだったと思うんですけど。人間の動きは当然ですけど、だから台詞があるから楽とは当然ならないですよね、当たり前ですが。
富野:うーん、全然楽になりませんし、実を言うと、巨大な人型というのは巨人ですよね。巨人を画面で動かし始めた時に大問題に気が付きました。それはどういう事かというと、映像的に映画的に巨人という登場人物は機械であっても物凄くインパクトがあるんです。そうすると、実を言うと、物語がないとそいつだけ動いていてもちっとも面白くないという事が起こる。ですから、巨人を動かすということを、だからガンダムの時物凄く意識したんですけども、物語がかなり鮮明で強力なものでないと絶対に負けるっていうこともあって、ある部分戦争ものにせざるを得なかった、という部分もあります。そしてあと、巨人の足元にいる子供たちの集団が、完全な集団劇をやれる固まりになっていないと、巨人に負けるということもあって、ガンダムで言えばホワイトベースという軍艦の中にいる子供の劇、子供たちの集団劇というものを物凄く意識して構築した。それがないと巨人の存在・ガンダムという人型の兵器の存在が消えていっちゃって…消えていくんじゃないんだな、えっとね…逆に張り出しちゃって、ただの巨大ロボットもののマンガになるんです。それをマンガにしないために、俗に言う青春群像劇をどう作るかと言うと、物凄く要求されたのがガンダムだったんです。
藤津:逆に言うとガンダムの前、ザンボット3より更に前でも、70年代のロボットアニメいろいろな形で携わっていたと思うんですけど、当時ってロボットアニメが「ロボットプロレス」みたいな言い方で低く見られてた。「ロボットプロレス」という言葉そのものがあんまり良くないなと思うんですけど、要は中身が無くて戦闘シーンがあるだけだ、と言われてたわけですけど、監督はそこに対して不満というか反発みたいなのはありましたか?
富野:違います、反発はありません。歴史です。どういう事かと言うと、僕自身もそういう仕事もやってみて思うのは、巨人が戦闘しているだけでは何回もやってられない。つまり1クール3ヶ月の放送保たない。どうして? 同じ事になってしまう。という事は、じゃあ20数分の呎がある物語というのは何なんだろう。映画的な要素は一体何なんだって言った時に、結局ね、ドラマがなければいけない。それから巨人がいても良い環境を作る、つまり世界観がなければいけないという風になっていった時に、さっき言った巨人の足元にいる青春群像劇というところをきちんとターゲットを作ってあげないと巨人が立てなくなっちゃう。劇空間の中でも立てなくなるということが分かった、っていう事です。それを僕はガンダムの前の5、6年その種の作品もやってきましたから、その部分を補完するためにそうするかって言うと、映画の様に劇を作るしかない、っていう風になってきたという事です。だからその辺も含めてです、こういう事です。オリジナルの創作をするという事を編み出さざるを得ないっていう事は、それは仕事として面白かったし、原作ものをやっているよりはスリリングであったことも含めて、やるべき仕事であった、という風に思ってます。


福山芳樹キングゲイナー・オーバー!」


藤津:ここでお便りを紹介していきたいと思います。丁度、今の歌に相応しい質問が来ているんですが。岐阜県のマサさん、三十代の男性の方ですね。「監督は作詞をする時の井荻麟やコンテの時の斧谷稔など、複数のペンネームを持っていますが、ペンネームを使い分けているのはどういった配慮からでしょうか?」というご質問です。今の「キングゲイナー・オーバー!」も井荻麟さん、監督が書かれてますよね。
富野:社会的な理由があってペンネームを使うようになりました。
藤津:社会的な理由ですか。
富野:はい。全部「富野由悠季」だったら、一緒に仕事やってる奴は皆カッとする。それは、僕自身が、カッとする様な人が先輩にいたからで、それはヤバいなと思ったんで。特に斧谷稔なんて名前を使った時には、基本的に富野だと思わせない事実をズーッと作りました。井荻麟についても気が付くまで左右にいるスタッフにも喋りませんでした。
藤津:僕の記憶だと丁度ガンダムの哀戦士の頃に記者会見か何かで「実は井荻麟は私です」と話された記憶がありますけど、じゃああそこまでは誰にも秘密で。
富野:基本的に全部内緒にしてます。それで、スタッフ間の秘密だけじゃないんです。局と局とで、裏表の番組でオンエアされる様な事があったんで、基本的にペンネームを使わざるを得なくなった、っていう事情もあります。
藤津:昔の70年代初頭の頃に、いっぱいコンテを描かれてた頃ですね。
富野:(笑)局プロに目をつけられたら仕事が来なくなる。
藤津:それは社会的な。
富野:事情です。
藤津:今は元に戻そうとはもう思わないんですね?
富野:それでも「富野由悠季」っていう人は変な人で、固有名詞作るのがかなり上手だと思ってるんです。例えば両方の名前、大好きなのね(笑)。
藤津:井荻麟は何となくですね、某私鉄の駅からとったのかなとか思うんですけど。
富野:だってその駅の隣に住んでるんだから(笑)。
藤津:斧谷稔はどこから来たんですか?
富野:言えません(笑)。秘密です。
藤津:分かりました。


菅野よう子「5/4moon」


藤津:リスナーからの質問を続けて紹介していきたいと思います。茨城県クマノミさんからですね、二十代の男性です。「富野先生こんばんは。富野先生はどのような場面で、どんな場面を演出する時に胸が熱くなるのでしょうか。教えてください」という事なんですが。
富野:自分が演出する作品については、いつも胸が熱くなっていますから、っていう、いやらしい答え方はあります(笑)。当然のことなんですけれども、その時の劇の中で他者・二人の人が共感し得る、そういうシーンがあった時が当然胸が熱くなります。このことは実を言うと、それだけでは胸は熱くなりません。その前提がありまして、対立した時には実を言うと人というのは狂気に奔る。それが収まるのか、どちらかが敗北するのか。だけどどちらかが敗北しあって一方的に勝ったら共感ありませんよね。ではなくて両者が…。
藤津:何らかの心の触れ合い?
富野:そう、共感しあえた時というのがやっぱり共感する訳ですから。絶えずこの「流れがセットになってる」という言い方はちょっと嫌なんだけども、そういうものが上手く組めた時、それはもう「俺は天才だ!」と、かなり月に一度くらい叫んでましたね(笑)。
藤津:やっぱりそういう時はテンションが上がる訳ですよね、やってて。「お、上手くいった」って。
富野:あのね、その場でテンションが上がるってのはね、逆なんですよ。終わった時にテンションが上がるんです。だから、やってる時は辛い辛い辛いの積み重ねだから、余裕ありません。で「天才だ!」と思うのは出来上がった時で「これは絶対これでイケる!」っていう確信を持った時はホントね、二日ぐらいは燃え上がってますね。
藤津:アニメーションで人間をドラマのレベルで描く事も重要ですし、当然ながら画の上でお芝居をさせていくことも重要だと思うんですけれど、監督してはかなり作画で描かれるキャラクターの演技にもね、拘りがありますよね。例えばラフ原画に割と細かく感じの出るポーズを入れてくれと。
富野:だって映画といえアニメといえ、要するに劇な訳です。演劇論というのはつまり身体性・人の身体で表現する事の上に成り立ってる訳だから、当たり前の事でしょ。それだけの事です。
藤津:監督こうお芝居を付けるときに何を一番重要視されて付けるんですか?
富野:そのドラマラインに則った正確な感情表現が出来ているか出来ていないか、それだけです。むしろ僕の欠点というのが、それが上手に出来ないな、っていう部分がある訳です。どういう事かって言うと、良い作品の演出論って言うか演出の技術見ていると、簡単に言っちゃうと、その劇に合った演技のデフォルメーションが極めて正確であるし、おそらく監督とかライターが思ってる以上の演出論があるんです。僕はストーリーライン以上の演技をつけられないという勘の悪さというのがあって、むしろその辺の方が問題なんです。だから、原画をチェックしようが動画をチェックしようが、そんなの当たり前の事で、それが出来ない演出家ってのはむしろおかしいんです。そして今言ってることで「じゃあ俺こういう風にちゃんとチェックしているから良いんだよね」っていう演出家がきっといると思うんだけれど、お前程度の演出が出来ると思うな、という事を作品観ないけれど言っちゃう。どうしてかと言うと、演技論とか演技の構成というのは、アニメを観ているだけで、コミックを買えているだけで、綺麗な線を描いているだけでは絶対に表現出来ない!
藤津:出来ない?
富野:出来ない! マンガ見てるだけで出来たら、それやって見せてよ。まず出来ないです。どうしてかと言うと、演技論って悔しいけれどやっぱね肉体論なんです。まさに身体性って言ってるのはその事。で、それも身体性が性能が良ければ良いかだけでなくて、うるせーよって。今程度のお前らCGで弄ってる様な身体性。何でも出来る身体の表現が、表現が自由に縦横無尽な感情表現をしてるかと言えばそれは嘘! マンガ。演劇論的に身体性ってのはそんなチャチなものじゃないの。という事が今の人たちは分かってる人が、実写の監督でも含めて言いますけど、そんなにいないと思う、今。
藤津:そういう良い芝居を表現するために、何が大事なんですかね? 演出家にせよ、あるいはそういうのって普通生きてる人にも結構重要な考え方の様にも思うんですよね。
富野:あんたね、だから本当に簡単に言える様だったら、ギリシャ古典劇から含めてこの三千年、演劇史が飽きる事無く演劇をやったり、それから映画百年、飽きる事無く、だからそんな簡単には言えません。だから、その物語のその時のキャスティングと背景とテーマと情の表現が正しいというのは実は全部ケースバイケースなのね。だから、何を以ってして演技があり得るのかって言ったら、こういう言い方がひょっとしたら一番正しいのかもしれない。だって歌舞伎の役者って生まれた時から演技をしてて、死ぬまで歌舞伎という舞台でやってて、それでも良い人悪い人、それから「あの時は良かったけれども今年はアイツちょっとダメよね」とかっていうのが要するに演技論な訳。そうすると、5年や10年、アニメを見込んで「演技までやってきましたから私の演出論が正しい」なんて言ってる、と言うよりもアニメの演出家は基本的に演技論言わないもん。だからそんな事も考えないでアニメ作ってる訳だから、それは殆ど観るに耐えないものが出来て当たり前。つまりカッコよくこうやってやってれば、もう演技だと思ってる訳だから。あ、「カッコよくこうやってれば」というのはどういう事かと言いますと、ちょっと斜に構えて、カメラに向かって7:3でちょっと上目遣いにして、って言う。
藤津:僕が睨まれてました(笑)。そうですね、はい。そういうのは演技ではないというわけですね。
富野:演技ではないです。そんなもんじゃないですから。だから、一番穏当な言い方をしておきますと、世間で二十年ぐらい名作と言われている映画とか演劇を観てください。それ以外に教える方法はありません、というのが本当の所です。
藤津:キャストの方、声優さんへのお芝居について、ここで伺ってみたいと思うんですけど。監督割とアフレコの時も、積極的にブースへ行って、中に入って説明されてる方の監督だと思うんですけど。声優さんに演技指導と言うか、演技を伝える時に、どういう事を意識されてやられてますか?
富野:台詞だけの収録という作業は、凄く陰鬱な作業なんですよ。どんなに上手にやって見せていても、おそらくそれは皆形になってる。そうすると俗に言う顔見せという嫌な言い方があるんですけど、つまり実写とか舞台に立ってらっしゃる役者さんの声というのは、やはり陰鬱・内に篭ってないんです。実を言うと形が多少崩れていても、何て言うのかな…言ってしまえば、情感があると言うか、生身の台詞に近い方が。で、実を言うと僕声優って大っ嫌いなんですよ。口先だけでやってるから。だから、お前ら身体を動かせ! っていう事で、殆ど蹴飛ばしに行ってます。それが結果的に演技指導になってしまう、というのがあって、ちょっと困ってます。もっと身体を動かす、という事を自覚的になって欲しいと思ってるんですけども、本当に困った事に声優という職業が若い人たちに認知されてしまったばっかりに、違う方向に行ってるという気がして、それが個人の力では阻止出来ない、っていうのは本当に困ってます。
藤津:逆に言うと声優と一口に言っても当たり前ですけど、啓かれてる方もいらっしゃる訳ですよね、その中に。当たり前ですけど。
富野:(笑)だってこれだけの人がいるわけだから、それはいます(笑)。
藤津:分かりました。


戸田恵子「いまはおやすみ」


藤津:これも井荻麟さんの詩でございますね、はい。
富野:だからこの頃は全く内緒だったの(笑)。
藤津:内緒で書かれて。
富野:そう。
藤津:続いてまたリスナーからのお便りがあるので、行きたいと思います。「富野由悠季さん、藤津亮太さん、はじめまして。私は富野監督の人に何かを訴えかけてくる様な作品が凄く気になります。物語をやろうとする姿勢がどの作品にも感じられて、私は好きです」20代の男性ですね。神奈川県のシバタユウイチさん。先ほども監督言われていましたけど、やっぱりドラマがこの人は凄く気になるということだったんですね。
富野:それで良いと思いますし、そういう風に観て欲しいという風に努力してきました。つまりロボットものをやっていてもね。
藤津:監督が、アニメのメリットってあると思うんですけど。
富野:あります。
藤津:そこでこう表現したいドラマっていうのはどういうものなんでしょうかね?
富野:それは本当にこの20年考えてきて、この2、3年落ち着いた結論があります。特にアニメの性能に関して言うと、実写とか演劇以上に、概念、物事の概念を伝えられる媒体だという風に思う様になりました。で、まさかそんな世情が出てくるとは思わなかったんだろうという風に思いますけれども。どういう事かというと、絵というのは、要するに実を言うと記号的なものですよね。つまり、実写的な生っぽさがないんです。このね、クールな媒体を使って劇を表現する時に、理念とか概念を伝えるのにとても便利な媒体だと思うようになったのはこの数年です。何故こんな事を我々は思いつかなかったのかと言うと、やっぱりディズニーアニメから始まってますので「マンガの絵を動かす物語」がアニメーションだという風に思われてたんで、子供たちが好きなものを描くものでしかないんじゃないのかと思ってたんだけど、今言った通りです。絵のシンボル性を考えた時に、概念、理念、それ、つまり象徴的なものを描くのに、とても有利な媒体なのではないかという風に最近本当に思うようになりました。
藤津:そうすると神話とか寓話みたいなものに近づける表現手段?
富野:て言うか、その様なストラクチャーを持ったものを、かなりクールに伝えうるし、実写以上に飽きさせずに表現できるものだという風に思うようになりました。
藤津:監督自身は逆に、アニメ以外例えば演劇であるとか、実写映画であるとかを、やりと思われた事は? ありますか?
富野:ある時期まではそういう事を渇望もしていましたけれども、実際に自分に本当の意味での力がないから、そういう仕事が来なかった、という事もあります。と同時に、去年具体的に「リング・オブ・ガンダム」の仕事で実を言うとあれは実写を想定して作業を始めていって、スタジオ状況っていうのもチェックしていって、あともう一つ。役者を使う映画というのは何か、ということを実際にやらせてもらったんですよ。そして分かってきた事が、今言った事を補強する事になりました。生身の役者さんを使う映画というのは、やっぱりね、生身のエンターテイメントなんです。ライブにかなり近いんです。そうすると概念を伝えるというとこまで行かなくって、役者が前にあるために、僕はアニメで訓練されちゃった演出家でもあるので、「邪魔だな」と思う様になった。って時に、アニメの持っているというか画の持っている記号性というのはとても大事な事で、今までのアニメの歴史というものが、その部分はきちんと仕事している作家はいないんじゃないのかな、っていう風にも思い始めて。東欧諸国の人形劇から発生しているアニメーションも含めて、まだ極めて個的なものでありすぎる。
藤津:個人の「個」ですね。
富野:そう。個人の「個」です。個的なものでありすぎて、アートという個に、個が入りすぎている。ところがアニメーションってもっとオープンに概念・理念を伝えられる媒体ではないのか、という風に思い始めたので。僕にはこれは出来ませんでしたけれども、この考え方を以ってこれ以後、アニメというモノに手を付けたら、かなり凄いぞ、っていう事で。
藤津:アニメのポテンシャルをもっと。
富野:はい。引き出せると思ってます。だから、どういう事かというと、今、あなたたちが思ってる程度の好みでアニメの仕事やるんだったら止めた方が良い。あんまり良いことはない。だけども、概念・理念・哲学をアニメで伝えよう、っていうもし思えるだけのスーパースターが現れたら、あなたはアニメという媒体でちょっと面白い事が出来ますよ、っていう事で、今突然それにサンプルの作品を一つだけ思いつきました。
藤津:えっ、何でしょうか?
富野:「Yellow Submarine」です。
藤津:あー、はい。The Beatlesの。
富野:そうです。
藤津:非常にグラフィックなアニメーションですよね。
富野:はい、あれを単純にグラフィックだ、っていう、それはまだあの時代ですから、1970年ですから、ただのグラフィックの遊び事に見えます。あれに…。
藤津:思想や。
富野:思想やら、理念とか概念を付け加える事が僕はまだ出来ると思ってます。
藤津:じゃあそこら辺は全然手付かずで、まだ大分残ってる。
富野:だって、まだアニメとかグラフィックというのは、その程度のものだろうという風に思っている人たちの方が殆どだからです。
藤津:じゃあまだまだアニメにはやるべき事が残ってるんですね。
富野:僕は去年、つまり30周年があって、「リング・オブ・ガンダム」の仕事をさせてもらって、つまり「リング・オブ・ガンダム」をやったのは次の作品があるか、ってのを考えるために始めたわけです。あれ以後の方が僕、今ウワーっとやらなくちゃいけないことがいっぱいある、っていうのが分かってきて、とても困ってますもん。
藤津:それではここで3通、お手紙をまとめて紹介したいと思います。1つは、徳島県のハクサンシュさん、三十代の男性。「最近のアニメはどれも面白くなくて、この1、2年辺りは漸く自分のアニメ離れを実感し始めています。いつも面白い作品を作ってくださる富野さんは、新作の予定があるのでしょうか?」。それから、2通目がアムロさん二十代男性。ストレートなPNですけれど。「ガンダムの新作を作る予定はありますか?」。そして3通目も沖縄県のトウドウヒロシさん二十代男性。「新作についてのご予定はあるのでしょうか?」。新作について続きました。
富野:まだ具体的な予定はありません。つまり予算が付かない限り外部に話せないから全く予定にありません。ただ、さっき来たって言った去年の…。
藤津:「リング・オブ・ガンダム」?
富野:やったお陰で、何かやらなくちゃならない事がいっぱい出てきて、っていう事があって。何とか作らせていただきたいなと思ってます。ただ二十代の男性のアムロさんに対して申し訳ないんですが、ガンダムそのものを作る気はあんまりありません。それはもう今、若い人に受け渡したつもりでいます。ただ、ガンダム的な作品を作るつもりはあります。
藤津:それはまぁ、少なくともロボットが出てくる様な。
富野:もちろんそうです。
藤津:あるいは青春群像というか。
富野:もあります。が、さっきいった様な、つまり「概念まで伝えるぞ!」っていう画。出来たらチャンレジさせて頂きたいと思いますが、「概念まで伝えるぞ!」って言った瞬間に、スポンサーが付かなくなる(笑)。今困ってます(笑)。
藤津:いっそのこと、ロボットの名前をその概念の名前にしたら良いんじゃないですか?
富野:(爆笑)。
藤津:では次回作というのはじゃあ、暫く楽しみに待ってると意外な作品が…。
富野:いや、楽しみに待たないでいて下さい。今大事な事思い出した。二十代のアムロさんに作るつもりはありません! アニメというのは、やはり小学生中学生をターゲットにすべきだと思いますので、物凄くそこの部分では集中してます。だから逆に言うと歳を感じるようになってしまって困ってる部分もありますので、その辺はご容赦いただきたいと思います(笑)。
藤津:アムロさん、これを伝わりましたでしょうか(笑)。今日は「渋谷アニメランド」アニメーション監督・原作者の富野由悠季さんにお話を伺ってまいりましたが、そろそろ終わりの時間ですが、最後に監督に、ちょっと答えにくい質問かもしれませんが、沖縄県の二十代の女性、ハマーン様万歳という方からです。
富野:(爆笑)。万歳か。
藤津:「富野監督にとってアニメとは何ですか?」今日のお話の中で少し。
富野:あのね、ずっとこの話をしていたつもりです。自分にとってとても良い仕事だった。この仕事させて頂いたお陰で自分自身が、成長することが出来たっていう自覚があります。そして、何よりも今年までまだこういう風な立場に立たせてもらってるという意味で、時代が追いかけてきてくれる職種なんてそうそう無いんですよ。やっぱりそういうものに出会えたお陰で本当に命拾いをさせてもらえた、という風に思っています。だからこそです。自分自身がまたアニメ戻りが出来て、「実写だ、実写だ」なんて事を言わないで済んでる今の自分の立場を幸せだと思うと同時に、逆に言うと、義務と任務がハッキリしてるらしいというのがあって(笑)。「うわー、やだなー」とも思ってます(笑)。
藤津:ありがとうございました。

Twitter / 藤津亮太

所用で出かけていて自分で「渋谷アニメランド」聞けませんでした。再放送で録音する予定です。TLを遡ってみると、それなりに楽しんでいただけたのかなと。わりとまんべんなくおいしい部分を拾ってあったみたようですね。現場で出た面白い話題は大概出てる感じです。

選曲は今回は僕がやらせてもらいました。これまではゲストの方の取材の上決まっていたのですが、今回はこちらで、と。最新作が小説「リーン」ですから「MY FATE」。アップテンポのものもほしいので「キングゲイナーオーバー」。(続

打合せの時に、自分が見つけた役者さんにはメジャーになってほしいという話があったのと、『ガンダム』がまったくないのも寂しいので「いまはおやすみ」で、と。(続

ほか「愛の輪郭」「月の繭」も候補でしたが、しっとり系ばっかりになので断念。「moon」か「5/4moon」を交通情報にもってこようと。交通情報の時は基本インストという決まりがあるので。当日、「5/4moon」の読み方がわからずちょっとバタバタしました(笑