第28回東京国際映画祭海外向け富野由悠季インタビュー ガバ和訳

富野由悠季監督、74歳のお誕生日おめでとうございます。
外配信向けインタビューを見つけましたので、グーグル先生とエキサイト先生の手を借りてガバガバ和訳しました。
http://otakumode.com/news/562c41a7a1c66b3f299ecf58/Interview-with-Yoshiyuki-Tomino-the-Creator-of-Gundam

東京国際映画祭(以下TIFF)が10月22日から10日間開催される。今年のアニメ特集はガンダムだ。その制作者富野由悠季が、今回の特別企画として、忙しい中海外向け合同インタビューに登場してくれた。

創作の背景にある原動力としてリアリティ

――ガンダムシリーズは今年のTIFFの特徴のひとつです。ガンダムはなぜ他のシリーズと比較して映画化がなされるのか教えていただけますか。
富野 僕は基本的に、メッセージを分かりやすくする為に映画化しています。TVシリーズでは断片的すぎるから、お話を繋げて「そうだったのか」とお客さんをスッキリさせたいんですよね。たとえ棒繋ぎでも、映画化でお客さんは分かりやすくなるし、これが劇場版Zガンダムを作りたかった理由でもあります。
――あなたのガンダム最新作であるTVシリーズのG-レコでは宇宙エレベータを採用しましたが、一方で日本のインタビューのひとつではニュータイプから脱却しようとしているとおっしゃられました。これらの新しいアイディアとチャレンジはどこから発想するのでしょうか。
富野 僕はアニメ、まんが、小説ですら戯作できなかった人間ですので。ですから現実すべてが原動力です。
――現実が原動力?
富野 例えば、宇宙エレベーターなんてバカな事を思いついた奴に、そのバカさ加減を分からせるためです。僕の「これを許す政治システムと国際情勢ってなんだ?」という様な宇宙エレベーターへ反対するカウンターの様な気分もあります。
――カウンターですか。
富野 そうです。僕は実際に宇宙エレベータができるとは思ってません。できたとしても、G-レコで示した様な形でしかないのではないでしょうか。僕は「宇宙エレベータなんて作って何運ぶか考えたことあるか? ないでしょ。宇宙に行くには細長すぎて馬鹿げてる」って言いたいんですよね。

多くの女性ファンがガンダムシリーズは芸術作品と示している

――ガンダムシリーズを作って35年、ファンの変化が起こっているようです。世界情勢の変化やネット環境で世界中の人々がガンダムを見られる様になりました。こう見て欲しいという希望などはありますか?
富野 それは制作者が述べたり望んだりすべきではないと思います。G-レコを作った時、僕は長年やってきて初めてファンと相互に影響しあえたと感じました。ですので迷いなく作れましたし、お互いが別々に視聴していた「現代のファン」です。ファーストガンダムの最初のファンが女性だった事をご存知?
――ガンダムみたいな作品はほとんど男性ファンがターゲットだと思ってたのでびっくりです。
富野 分かってないなぁ。僕は今回も女性ファンを獲得したいと思ってたし、やり方は間違ってなかったと気付きました。
――どういう事でしょう。
富野 芸術でなんかないし、フィルムとアニメは、マニアだけが見て楽しむものではありません。メカファンが好きな様に作っても、芸術性を考える必要性はありませんから。女性ファンが集まるのを目の当たりにして、間違ってなかったと思いました。ガンダムを世界中に知らしめるチャンスだと。もしメカが注目されただけなら、世界に広まっても狭いファンしか獲得できなかったのではないか。そして劇を作る価値はなかったでしょう。時間とお金の無駄です。僕はそうはしたくなかった。
――どうして女性ファンの感触が分かったんですか?
富野 兆候が見えたのは(G-レコ)制作後です。全部終わった後、ブルーレイ売り場に行ってみたんです。そこで何人もの女の子が足を運ぶのを見て驚きました。(G-レコの)開始時は「トミノが15年ぶりにTVシリーズを深夜にやるんだって」なんて言ってた連中だけで、本当に時間のムダだと思ってました。でも制作後にファンの集まり(夜のG-レコ研究会?)に行ったら、40人くらいいる内の15、6人が10代の女性だったんです。
――多いですね。
富野 ガンダムシリーズのプロデューサーと脚本家はこの感覚にあまりにも気付かなさすぎです。露骨にそれを無視する事が許せないんですよね。そういう悪い勘すら持ってないのがほんと許せない。アートってこういうのじゃないでしょ。
――制作者はもっと客の方を向いて考えろと。
富野 そうです。「僕たちがガンダムを作れるんで大丈夫です」なんて考える制作者になる事は許されないわけです。映画に絡めて言うとこういう事です。もしこれ以上制作者が来なければ、ガンダムワールドは拡がらないでしょうね。

ファーストガンダム反戦思想

――ガンダムシリーズで、両陣営の戦争背景を描いた理由はなんでしょうか? また、制作に当たって従軍経験のある人物に取材をされたのでしょうか。
富野 戦後20年経った60年代に育った者なら、少なくとも最低限は戦争の残り香が理解できたのではないでしょうか。それに戦記と呼ばれるものを読んでました。それらが基礎知識ですね。その当時、殆どの戦争記事は一方の視点でした。しかし、双方合わせて数十万人からなる戦場を考えてください。もし双方が互いに正義がなければ、このような戦場は成立できないでしょう。多数の物語は一方の観点に基づいているので、僕は双方の立場を見せる物語があっても良いだろうと感じました。その後、TVシリーズは長く作られる事になりました。たとえロボットアニメであってもです。僕は戦争設定が双方を描くためのたくさんの要素をもたらすと想定していましたから。ガンダムでは、僕は敵味方双方を物語る事を目指していました。特にアニメは通常子供が見るものですから、一方の原則のみを語ってしまったら、必然的に結局、自分で考える事に影響を与えてしまいます。もうひとつ、細心の注意をはらっていたのは、高い位置から戦争状況を俯瞰する事でした。
――ファーストガンダム反戦思想は、あなたが総監督だったからですか。
富野 そうです。絶対的にそうです。
――シャアとアムロの二つの立場を描きましたが、彼らは最初からセットで作られたのですか、それとも別々?
富野 一人のキャラクターだけを作っていたら劇的な戦いは発生しませんので、創作の過程では一緒に作りますね。
――シャアとアムロを比較すると、どちらが重要でしょうか? それともどちらも同等ですか。
富野 うーん、難しい質問ですね。演出と演技を確立させる過程では、シャアはもっと面白かったんですよね。でもアムロを物語の中に置いたら、シャアに対する状況を作らなくちゃいけなくなったんだよね。アムロの場合、あまりにも普通の人にしちゃったから、バランスを見つけるのが本当に大変だった。

先人への敬意とお子たちと未来への遺産

――ファーストには有名な「親父にもぶたれたことがないのに」のシーンがありますよね。重要なシーンと考えていましたか?
富野 もちろんです。それについては非常に意識していましたし、重要さを認識していました。僕が言いたいのは、子供たちに明確に例示する必要があるという感覚です。こういった事は欧米ではあるのですが、例えば過去の中高大では鞭でうつ事が認められていました。現代人の感覚では、「暴力」という言葉の似たような行為に置き換えられているんですよ。
フィクションの中ではこの様な行為は問題ないと考えています。なぜなら人はよく痛みを乗り越えなければならない状況に遭うからです。
――もしシャアがWW1のレッドバロンをインスパイアしたと言ったら、どのようなポイントを挙げますか?
富野 そうです、当時もちろん参考にしました。問題になるのは、レッドバロンの経歴を調べると、どんなに一人のパイロット、兵士が功績をあげても、基本的には戦局に影響はないんですね。
第一次大戦を通して学んだ事があります。この時代には騎士道と呼ばれるものがまだあった事と、プロイセンと同盟国には兵士への深い尊敬があった事です。しかしその尊敬も、戦史の中の内戦期を通して消えてしまいます。僕は、プロイセンとフランス、レッドバロンとイギリスの関係性を組み込んで、何が過去の人々の精神を凶悪にしてしまったのか、この事を考え、描きたかった。
これは日本人をまだ見たことがないキリスト教圏の人に言いたいんだけど。彼らはほんと無頓着。ほとんど嫌いなものでも。こういう言い方があります。ガンダムをロボットアニメとひとくくりにして扱う背景があります。
――最後に、ガンダムシリーズは世界中で多くのファンがいます。彼らにメッセージをいただけますか。
富野 もしガンダムがきっかけで何か考え始めようと思ったなら、すぐにやめましょう。そしてもし答えが見つからないなら、次の世代に託してください。
次の世代のお子たちについて思うのは、ガンダムで何度も示されている事を知る事で、人類の限界に似たなにかを知るでしょうね。僕はその限界を突破してほしいんです。ガンダムはそれを打破するためにシリーズ全体を通して激しく戦っています。あなたにもそう見えたら幸いです。

富野節になってなくてすいません、許してください。何でもはしません。
kaito2198さんのお知恵もお借りしましたが、ガバガバな部分の責は彼にはありません。これだけははっきりと真実を伝えたかった。