富野由悠季監督の「戦後80年」
富野由悠季監督の「戦後80年」
富野由悠季監督、84歳の誕生日、そして日本芸術院会員任命おめでとうございます。
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今年は戦後80年ということで、富野監督にもそういったインタビューが多くなされました。ただ媒体がバラバラなので、一旦まとめてみようと思います。
NHK ニュースウォッチ9 6月17日放送 富野由悠季さん語る“戦争のリアル”
ニュースウォッチ9 6/17放送分
— シャア専用ブログ (@Char_Tweet) 2025年6月17日
富野由悠季監督インタビュー
次回作について
社会的な行動を人類がやめることができるのかがテーマになる https://t.co/ytGVT31dXZ pic.twitter.com/oTZCBiRjH3
ニュースウォッチ9 6/17放送分
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富野由悠季監督インタビュー https://t.co/dCx0jcF1tv pic.twitter.com/abrvD03iWH
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富野由悠季監督インタビュー https://t.co/3w1OOrqLPx pic.twitter.com/vngxjnuaBW
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富野由悠季監督インタビュー https://t.co/ahCzEs4gKE pic.twitter.com/7fITzcw90N
朝日新聞 ガンダムで描いた独裁、現実の今 富野由悠季監督が語る、戦争とフィクション
新しいガンダムを作る気がまだあるかといえば、あります。世界中の人間が一気にニュータイプになるかもしれないという作品が作れたらいいけど、それはアニメの中で考えるしかないことです。
TBSラジオ 荻上チキ・Session 2025年10月24日(金)放送分 【特集】戦後80年。機動戦士「ガンダム」シリーズで知られる富野由悠季・監督にインタビュー
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後日ポッドキャストでロングバージョンを公開予定とのこと。
『いま伝えたい戦後80年 アニメ映画監督 富野由悠季さん 戦争の原因 政治家がつくる』『富野由悠季さん語る“戦争のリアル”』
いま伝えたい戦後80年 アニメ映画監督 富野由悠季さん 戦争の原因 政治家がつくる
共同通信配信の富野監督戦後80年インタビュー記事。現在確認できている配信先は、
熊本日日新聞朝刊8月2日号
中国新聞朝刊8月9日号(片淵監督インタビューとセットなので入手するならこれが一番お得か)
徳島新聞朝刊8月14日号
あわせて他の富野監督の戦後80年インタビューを紹介。
1941年に神奈川県小田原市で生まれた。小さかったので戦争のことはあまり覚えていないが、近くに焼夷弾が落ちた時の音と火事の色をありありと覚えている。一度始めたら戦争は止められない。大切なのは戦争を始めないことだ。
アニメ制作の仕事をする中で、SFの戦記物を創作してきた。宇宙人を「敵」にすることが多かったが、79年の『機動戦士ガンダム』は、「敵」を人間にすると決めた時に、重戦闘機レベルの兵器を登場させるためには、兵器産業が存在する国家間戦争しかありえず、戦争の「原因」をつくり出す必要があると気付き、がくぜんとした。宇宙人なら、地球を乗っ取るために攻めてくるだけでよかったのだが、人間は一人の独裁者だけでは、簡単に戦争は起こせない。『機動戦士ガンダム』の場合、宇宙に浮かぶコロニーに移住して国家をつくった人たちが、地球から棄民扱いを受けた屈辱から、独立戦争を仕掛けたという設定にした。米国の南北戦争をモデルにしたことで、人種の混交も意識した。そして、人型兵器の「ガンダム」に乗った少年たちと、宇宙に移住した人々が戦う物語にした。
戦争が起こる原因を考えるのは難しいと言えるのだが、現実にはロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエル軍のパレスチナ自治区ガザへの攻撃などが続いているのを見ると、国際政治において、政治家が歴史にとらわれて、戦争についての理解が劣化しているのを痛感せざるを得ない。
それぞれの正義に基づき、「今ら勝てる」と開戦してしまって、その中で恨みが増幅し、やめられなくなるのだ。振り上げたおのをそのまま下ろすのが難しいように、武器を一度使ってしまったら、使った者が死ぬまで続く。
戦争中に3歳児だった僕でさえ83歳になり、戦争を知る人は少なくなった。戦後、戦争映画はたくさん作られても、作る側が少しでも戦争を体験していないと、戦争が何なのかをつかみ切れずに、戦闘シーンをゲームとして描くことしか考えられず、アクション映画になってしまう。終戦記念日である8月15日は敗戦記念日と呼ぶべきだった。戦後の80年間のあいだに、メディアは玉砕を命じた軍人や政治家たちの肉声を伝え、そこから戦争の実相を学ぶべきだったのだが、そうはならなかった。戦後生まれの人たちが、戦争について正確に知る必要がある。
NHK ニュースウォッチ9 6月17日放送 富野由悠季さん語る“戦争のリアル”
ニュースウォッチ9 6/17放送分
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富野由悠季監督インタビュー
次回作について
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富野由悠季監督インタビュー https://t.co/ahCzEs4gKE pic.twitter.com/7fITzcw90N
ニッポン放送開局70周年記念 NEXT STAGEへの提言II 12月19日放送分 ゲスト 富野由悠季
ニッポン放送開局70周年記念 NEXT STAGEへの提言Ⅱ 12月19日放送分 ゲスト 富野由悠季
森田 今夜お招きしたのは、今年『機動戦士ガンダム』誕生から45周年、そして10代の若者の間で社会現象を巻き起こしたプラモデル「ガンプラ」の発売から来年45周年を迎えます、『機動戦士ガンダム』の生みの親、アニメーション映画監督で原作者の富野由悠季さんです。富野さん、こんばんは。
富野 こんばんは、よろしくどうぞお願いいたします。と言いながら、ガンプラは僕は作ってません!
森田 そうですよね。
富野 はい。
森田 (笑)。簡単にプロフィールをご紹介いたします。富野さんは1941年、昭和16年、神奈川県の小田原市で生まれてらっしゃいます。日本大学芸術学部映画学科を卒業された後の1964年ですから東京オリンピックの年ですね。虫プロダクションに入社され、『鉄腕アトム』などの演出を担当されました。フリーに転身された後、TVアニメ『海のトリトン』、『無敵超人ザンボット3』などの総監督を経まして、1979年放送の『機動戦士ガンダム』で社会現象を巻き起こしました。また、『ガンダム』シリーズ以外にも、『伝説巨神イデオン』や、『Gのレコンギスタ』などがあります。そして2021年度文化功労者に選ばれています。富野さん、あらためてよろしくお願いいたします。
富野 こちらこそよろしくどうぞお願いいたします。
森田 お年がですから83歳。
富野 83歳になりました。
森田 黒のキャップにモノトーンのシャツでお洒落ですね。
富野 と、いう風に他人から言われてたことはありません。
森田 ありません!?
富野 はい。ありません。
森田 あ、そうですか。
富野 本当にこれは僕自身がこういう立場で、TVアニメで、言ってしまえば名を成した立場だったので、人前に出るときのファッションというのは、本当に『ガンダム』を始める前から気を付けてました。アニメのスタッフ関係者でこれに続いてくれる人が一人以外いなかった(永野護?)。
森田 ほう、一人いました?
富野 一人いました。その人の名前を挙げて良いか多少問題があるんで。ちょっと遠慮させてもらいます。
森田 (笑)
富野 そういう意味で人前に出るファッション、アニメ関係者、まっっっったく持ってなし(笑)!
森田 そうなんですね。
富野 っていうのは、自分たちがある意味謙虚なんですね。裏方の仕事だっていう風に弁え過ぎているんだろうな、っていうのはあります。
森田 はぁ~。富野さんはそうすると自分が前に出るんだと意識はされていたということですか?
富野 やっぱりしました。したのには、ひとつは虫プロにいたおかげで手塚治虫先生を目の前で見ていた、っていう部分があったので。漫画家でこういう風に成り上がった、っていう作家がいる。だから僕にとっては手塚先生ってのは作家であって漫画家だとは毫も思ってない、っていう認識を持ってます。あの方のベレー帽があんまり似合わないんだけれども、人前に出るとピシッと被ってるんだよね~この先生。
森田 トレードマークですもんね。
富野 そう。という意味でのやはりルックスをFIXしていくという律儀さ。それを教えてもらいました。だから漫画家であろうともなんです。テレビまんがの仕事をやっていても、公共の電波を使わせてもらって仕事をやっているんだから、なんです。個人プレーではないと思ってるんです。この考え方を僕の場合にはなんなんだろうかなぁ……。なんとなくやっぱり学生時代からちょっと身についてることではありましたね。
森田 まずこのコーナーは子供のころのお話をお伺いしたいんですが、先程ご紹介したように小田原でお生まれになって、子供のころの記憶というと、戦後のものではないかと。
富野 勿論そうです。戦後のことですから、実を言うと人前に出るということの、一番初めの僕にとっての原風景になっているのは、美空ひばりです。
森田 えっ、美空ひばりさん。
富野 まだ子供のころに、人前に出て歌を歌うときに、ちゃんとリボンを付けて小学校6年とか中一くらいになってもスカートを履いて。歌ってみせるという、公共の前に出るということを。ちょっとだけファンだったんです。嫌でもそれは教えられるじゃないですか。だから小田原という多少田舎っぽいところだったんだけれども、そういうものは教えられるという部分を、なんで周りの同級生はそういうセンスを持てないのか。僕には謎だった。
森田 美空ひばりさんの影響を幼いころに受けていたんですね。
富野 だけど僕が一番影響を受けたのは美空ひばりじゃないんです。ファッションのことで言うと、もう一段上がいるんです。
森田 もう一段上? 当時ですよ?
富野 水の江瀧子です。ターキー。つまり少女歌劇団でタキシードを着てた。
森田 「男装の麗人」と言われた。
富野 そして、あの人には本能的に、それこそ子供の男の子なんだけども、男心をくすぐられた。これは絶対に、地元では口が裂けても言っちゃいけない。恥ずべきことなんだ、っていう自覚もしてました。だからこの話、今日初めてしました(笑)。80超えたから喋れるの。
森田 幼いころ、ラジオなんかお聴きになりました?
富野 いやいや、聴くわけないじゃないですか。東京の電波、小田原。
森田 入らない?
富野 かなりね、聴こえづらいんです。ノイズ音かなり多い(先日の秋葉原国際映画祭のトークから、日大時代?にはラジオを聴いていたもよう)。
森田 幼いこと接したメディアというと、そういう例えば白黒のTVが始まったころ?
富野 いや、TVなんかまだ、中学卒業してからじゃないと僕家では観てないもん。だけども、なぜ水の江瀧子に引っ掛かったかと言うと、親戚が全部東京の人間なんです(富野本家は大島)。だもんで、松竹歌劇団の中央劇場っていう定宿が浅草にあったのは2、3度観に行ってるんです。ただそれのときも既にターキーは引退してるんです。少女歌劇団なんだから本当はタキシード姿を見られるんだけども、ターキー以後のタキシードで似合ってる奴が一人もいない、っていうのを小学校6年のときの記憶が完全にあります。だからスター性の問題とかっていうことも、その時代に中央劇場で教えられた。
森田 小学校6年生でそういうSKDに接してられたんですね。
富野 だって人形町の近くに親戚がいたから。だから人形町から松竹劇場までは頑張れば歩いて行けます、っていう距離でした。そういうところでターキーを見損なっちゃったっていうショックがありながら、他の男装の麗人を見ていったときに、あれ? 申し訳ないんだけども、みんなターキーより落ちる(笑)。っていうこの鑑識眼っていうのを教わったっていうのはかなり大きいです。この話も今日初めてです(爆笑)。
森田 初めてエンタメに触れたような瞬間だったということですよね。
富野 そうです。ですから小学校も5年生6年生くらいになると多少スケベ根性も出てくるから。ラインダンスでネーチャンがみんな足上げてくれる。それだけはこうやって涎垂らして見てたっていう記憶はあります。だけどあるんだけども今言った通りで。ターキーがいなくなってる松竹歌劇団はやっぱりかなり落ちるな、っていう意識は持ちましたね。
森田 そうなんですね。ご家庭ではそういうエンタメは?
富野 一切なし! どちらかと言うと……まぁ~あんまりお堅いとも思えなかったんだけども。
森田 お父様は軍事関係の技術者だったと。
富野 それもあるんだけれども、結局戦争が始まったおかげで、東京の、当時で言えば高校ですけども、専門学校を出て、それの引きで化学の工場、小田原の工場に来たってだけのことです。だから所謂どういう仕事をやってたかと言うと簡単な話、雨合羽を作らせる。陸軍とか海軍に納品する合羽です。
森田 雨の行軍なんかに使うような。
富野 そうです。あれもだから軍需品なんですよ。
森田 そうなんですね。
富野 言われてみればそうでしょ?
森田 確かに。
富野 そういうものを作らせることも始まってるんで、戦後の父の仕事関係のノートが一冊だけ残ってた。小学校も5、6年になると零戦の三面図は分かるわけです。なんで親父のノートの中に零戦の図面があるのかと言ったら、零戦の覆いを作るんで。
森田 あれを雨合羽の素材で。
富野 そう。というようなことをやらされてたんだよね、というようなことも知ってます。ただ、そういう記憶が一緒くたになっているので、僕にとってガンダムというロボットを戦闘機のサイズに落とすということは、あんまり……なんというのかな、特別なことではない。むしろ全長50mだっていう二本足歩行よりは零戦サイズくらいの方が丁度良いだろう。
森田 18mがガンダムですよね。
富野 そう。だから18mとか20mが限界で。パイロット一人乗る戦闘機のサイズなんだって考えたときに、ガンダムっていうMSに乗る、ロボットってのを止めて新しいジャンルにしようと。僕にとっては特別なことではなかった。
森田 それは原風景としてあるから。
富野 あるからです。それのときに、TVアニメ、まんががアニメになり始めてくれたところで「そうか、戦闘機並で、パイロットの物語にしよう」となる。「子供に見せるものなんだから主人公は子供にしなくちゃいけない」という言い方があるんだけれども、この言い方は半分嘘なんです。中学のときにも多少戦記ものは読んでたんで、太平洋戦争の末期、少年兵がいるという存在は十分知ってました。戦車兵の養成として16歳になったら、その学校に行けるとか、それから海軍の場合、戦争末期には戦艦大和にも乗せられてた、という少年兵がいたことも知ってました。ので、なんで子供を主人公するのかという話は僕にとっては全く抗議でもなんでもなくて。だから今でも困ることがあるのは「なんで子供に戦争に参加させたのか」っていう質問があるわけです。当時そうだったんだもん。だから、そういう事実をむしろ知ってほしいってことがあったので、かなり意識的にガンダムにアムロという少年を乗せる、っていうことをやった。それのときに重要なのは、1話でいきなり戦闘機に乗っけるわけです。ってときに、どういう方法があるんだろうか、ってときに、戦闘機を製造している父親の近くにいる、ということがあったら機会があるだろう、というのが目論見で。ということで『ガンダム』を作ったってことがあるんで、僕にとって全部ほとんど体験論。
森田 そうすると割と戦後まもなくに太平洋戦争のこともずいぶん調べられていたんですね?
富野 中学から特に高校ぐらいまではまだ戦記もの読んでましたからね。だからそれは基礎学力なんてもんじゃなくてミリタリーオタクとしての常識です。
森田 そして実際体験された時期でもありますしね。
富野 そういう人たちも近くにはいなかったんですけれども、体育の先生が軍人上がりだったりするんです。特別なことでは一切なかった。だからその部分がいわゆるバックボーンを作ってく上で『ガンダム』の場合、実を言うとなんの苦もなかった。むしろ巨大ロボットものっていう嘘八百を作ってる方が、つまり「一科学者が発明して」とか、「資金もないのに巨大ロボットを製造しちゃいました」って嘘八百より余程自然だった。それだけのことです。
森田 映画を初めてご覧になったのはおいくつぐらい? 覚えてますか?
富野 それは覚えてませんけども、さっき美空ひばりの名前を挙げたおかげで、美空ひばりのかなり初期のものから見ることはしてました。それのときに父親が化学をやってたおかげで写真もやってたわけです。だもんで映画のことも多少知ってたので、美空ひばりが出ている『鞍馬天狗』を観ていたときに、ときどき変なとこで笑うんですよ父親が。「なんでそこで笑ったの?」「いや、ここのカットね、車で撮影しているんだよね」「えっ」「馬に乗ってる画のはずなんだけども、実写で撮影するときには車の上に乗って背景動かさなくちゃいけないだろ? それ可笑しくねぇか?」って笑う。うちの父親、鞍馬天狗を見てなくって、そういうものだけを見ている。技術論を教えられちゃった。
森田 そういう発想でお話になられたんだ、お父様が。
富野 たったそれだけのことしか覚えてないんだけども、そのことでつまり「映画を撮る」ってことの技術論、かなり面倒なことだと分かったから、小学校のときに。そうすると中学高校で映画を観始めるとかってことをしたときに、日活のアクションものとか分かり易いじゃないですか。逆にもっともらしい文芸映画なんか観てるときに「えっ、カメラをここにFIXのまんまで撮ってる」ってことの面倒臭さ、役者をこう動かしてる。中学3年にもなればそれは読み取ります。
森田 撮影する側の立場でもうご覧になってたんですね。
富野 勿論そうです。ですから本能的にそれができるようになって、高校三年間で良い成績もとれてないんで、入れて日大の映画学科、つまりどういうことかと言うと、芸術学部というのが日大しかなかった、当時は。だから滑り込めるのがそこだった。そういう発案なんです。
(CM)
森田 ここからは日大に入られたころのお話をうかがっていこうと思います。
富野 入られたころの話はあまりありませんが、大学四年間を通じてお話できることがあります。一般四年制大学で芸術学部というのは日大にしかなかったんじゃないのかな、という気がしてます。その中で、映画学科ってのは更に特殊な学科でしたので、文芸とか絵画とかっていうのは戦前から当たり前にあったと思う。
森田 美大とか。
富野 映画学科ってとても特殊だったので、一番始めに映画学科のトップの教授という人がいたんです。当然僕はその人の具体的な名前を知りませんでした。在学中に判ったことなんで。サイレント時代から、日本人で初めてチャーリー・チャップリンのスタジオで半年ぐらいいたらしいのね。「チャップリン先生」って平気で言ってました。「え、この先生なんでこんなこと言うんだろうかな」ってのは大学時代に調べて判ったんだけども、間違いなくチャップリンスタジオにいて、どうも半年ぐらいそこで時間を潰していたらしい、ということだけは判るわけ。この人学生の前だけでは「チャップリン先生」って言う構造を見抜いて。だけどこの監督の名前、映画界では知らねぇぞ。つまり戦後作品を撮ってないわけです。こういう人が、こういう席につくのね、っていうことを教えられた。当然その人が2、3度講義をしたことがあるんですけど「しょうもねぇなぁ、こんな話しかできねぇんだ」っていうことと、ある意味チャップリンかぶれの先生だった(笑)。だからチャップリン作品がどのように優れているか、っていう説明を実を言うと聞いたことがない。「チャップリン先生の」(真似)。
森田 その先生のことだけ、作品じゃなくて。
富野 そう。作品論言えよ(机を叩きつつ)! っていうようなことで、映画学科で教えられるようなことってないんだよね。、技術論以外。だから、カメラを使って撮影をするんだ、こういうようなものが必要なんだ、ってことは教えられる。それ全部技術論なんです。作品を作るって創作だろ? もう一か月で分かりました。創作というのは絶対に教えてもらえるもんじゃない。ということが分かっちゃった。それだけのことです。
森田 大学時代に自主的にご自身で作られた作品はあるんですか?
富野 一本だけ8mmでサイレントで半年がかりで撮ったものはあります。それは15、6分のものだったんだけれども、大学四年間通して8mmで10分を越えるものを撮った奴は一人しかいなかった、僕以外に。そちらは逆にお金持ちだったんで、16mmで音付きで音楽付きで、自分が主演やってて。全部お金出してる訳だから。同護会の先輩も使って。「この野郎~」って思って。その格差を教えられたのは、実を言うと一番学習になりましたね。どういうことかと言うと、こういう風に撮った奴の作品って言うと、自主上映で、日芸の江古田祭で公開で見せてくれる。「『勝手にしやがれ』の真似したってしょうがねぇだろう」っていうのを見せられた。創作をするっていうのは本当に厳しいことで、「オリジナルを持てない限り、ゴダールの真似してお前が主役張ってたってしょうがねぇんだよ」っていうことを教えられた。一番の学びでしたね。
森田 そのとき富野さんが作られた作品というのはどういう様なテーマで作られたんですか?
富野 絶対秘密で口が裂けても言えません。喋りません(笑)。少なくとも奴のはゴダールの真似事。俺のはオリジナル路線でやってる。ただ問題なのは、僕の発想も良かったかというと、いやー、ちょっと酷いよねぇ。手狭にしかやってない(笑)。そうすると、例え8mmと言えども、映像作品にするっていうときにクオリティというのを要求されることが本能的に判るわけ。やっぱり役者志望の奴を使わなくちゃいけないとか、この程度で手打ちをしていたらダメだってことが思い知らされる訳。これはやっぱり学習として一番大きいですね。だから本当は間違っても実写に行けるんだったら、ここまで来たなら行っても良いなと思いつつ。僕が大学3年のときに映画五社新規採用一切中止。
森田 そういう時代だったんですか。
富野 だから(大学)4年は2年目ですよ。四年制卒業して映画五社に入れる奴ってのは余程のコネでもない限り入れない。だからなんです。虫プロが拾ってくれたっていうのは本当に万歳で。嘘でも電動紙芝居と言われている様なものでも、ロクに動きもしない『鉄腕アトム』でもね、そこで制作進行でもやらせてくれるんだったらば、フィルムを弄れるんだからまぁ良いか、っていう妥協はできた訳。妥協できたと同時に、僕が江古田祭やってる最中に虫プロが一度だけ四年制の新規採用のための面接試験をやるっていう三行広告を立てたの。それを母親が見つけてくれて。小田原で。「虫プロって会社よく分かんないんだけども、『虫プロ』って会社だから何かまんが映画でもやるんじゃないの」って。江古田の駅から三つ向こうが虫プロなわけ。だもんで、江古田祭の手伝いをやってる間に面接に行けた。それで間違ってそこで採用してくれたのが虫プロだった。それだけのことです。
森田 所謂今でいう就活みたいなことはほとんどないですか?
富野 江古田祭やって忙しかったの、大学4年で。夏休みには江古田祭に向けての出し物があったので、そのテーマを追っかけるために広島と長崎に行かなくちゃ行けなかったの。どうしてかと言うと、当時は原水爆禁止運動が一番盛り上がったときでした。大江健三郎も広島と長崎に行って、そのときのルポを出したのが『ヒロシマ・ノート』なんです。あの『ヒロシマ・ノート』は、僕は卒業をしてから読んだの。愕然としたのは、江古田祭のために傍目に見学したのが、大江健三郎は、作家は、これをこう書くか。この格差。やっぱりプロというもののレベル。本当ね、これは手が届かないよね。相手が大江健三郎な訳。虫プロに入社して一年目のときに「こいつには手が届かない」と思い知らされた。これ過酷ですよ。
(CM)
富野 僕は大学を卒業して虫プロに3月に入りました。卒業式の一か月前に虫プロに行くようになっちゃったのは、なんせ地の利が良い訳ですから。行けちゃった訳です。だけど行ってそれこそ一週間もしないうちに、『鉄腕アトム』って作品のオンエアが地獄だってのが分かった。週一で20何分の全部画が止まってたにしても4、500枚の画を作って新しい話を作んなくちゃいけない。僕が入ったのは一年目が過ぎてる訳です。ということは、『鉄腕アトム』のまんがの原作、殆ど使っちゃってる訳。だって手塚先生が月一で描いている連載の続き物があったりする訳。週ペースで1話ずつなくしてく訳よ。
森田 それで毎週やったらなくなりますよね。
富野 だからホンがないというのが一か月目の事情で分かっちゃった訳。それのときに一応制作進行で入った筈なんだけども、一応建前は演出助手なの。だから制作には関与しなくて良い筈なのが、そういう事情で周りにも人がそんなにいないとなったときには、スケジュール表も書く様なことが起っちゃう訳。そうすると「三か月後のここでストーリーがねぇぞ」と。
森田 どうすんだと(笑)。
富野 という様なことが起こる訳。現にライター6人ぐらいいたんですけども、全部が回り切らなくて。
森田 虫プロって当時何人ぐらいいらしたんですか?
富野 よく分かりません。
森田 出入りしている人もいるし。
富野 勿論それもいたんだけども、当時もう既に200人ぐらいいたんじゃないのかな。アニメーターも全部丸抱えでやってた訳だから。今みたいなリモートが一切ない時代ですから。尚且つ、『鉄腕アトム』の始まった翌年から『ジャングル大帝』っていうオールカラーを始められちゃった訳。そちらに『鉄腕アトム』を一年間メインで支えていたスタッフが殆どゴソッといなくなちゃった。まだ三か月くらいでメインスタッフになっちゃった。
森田 残ってる人は誰ですか(笑)?
富野 はい! 「シナリオライターは?」「『ジャングル大帝』に」「は?」。『鉄腕アトム』をやってくれる落ちこぼれのSF作家みたいになっちゃってる訳。文芸部はある訳、虫プロの中に。そこで一応シナリオは手当する筈なんだけれども、そこに混ざるのは僕な訳(笑)。そういう環境があったから、僕は生まれて初めて『鉄腕アトム』の絵コンテっていうのを二年目の中頃のときで。僕が初演出でやらせてもらった「ロボットフューチャー」(96話)っていう作品が、オリジナルストーリーなんです。シナリオがないんです。僕ぶっつけでコンテを切ったものを半パートだけ、「シナリオがないんだけども、このコンテあるんだけども」って、手塚先生が三日後に見てくれて。「富野くーん、はい。これ後半どうなるの?」「こんな話になる筈です」「うん、それでコンテ切ってくれる」即決でそれがオンエアされました。三か月で行く、そういう環境です。
森田 それ20代前半ですもんね。
富野 ということは、今言った通りの環境だったので、そういうことが出来たんだ。それはとても酷い環境で、本来許されるべき環境ではないんだけども、なんせまんが映画なんですよ。週ペースのまんが映画だから、TV局もなんのクオリティも……つまり担保にしてない訳。時間が埋まりゃ良いんだもの。そういう精神構造でした。
森田 当時はそんなレベルだったんですか。
富野 そういうレベルです。プロデューサーが一応TV局の担当プロデューサーに付く訳です。が、今言った通りです。まんが映画のプロデューサーなの。ですから社内に行って様子見ても、この人こうだよね、っていう様子が分かる。だけどその人が実際に現場に行くと録音監督までやってる訳(笑)。それに音を付ける効果マンは流石にプロな訳。声優さんも一応プロが演っている。プロデューサーとか録音ディレクターが素人な訳。それで『鉄腕アトム』は後ろ二年半をやりました。
森田 あの頃の『鉄腕アトム』なんて殆どのお子さん観てますよ。
富野 観てますけども、そういう環境でやってた。そういう環境でやりながら、自分でもそうは言いながら、馬鹿にしてるのが半分なんだけども、半分はすごいなと思ってたのは、大野松雄さんという効果マンが、アトムの歩く音を作ってる訳。一年半ぐらい経って、実際僕自身が(録音)スタジオに入って半年ぐらい経って、スタジオで聞くたんびに、本当この電子音を大野っていう人が作れた効果マン、なまじのものじゃないな、っていうのは分かった。現に大野さんという方はその後のキャリアを見てもかなり色んな仕事をやってらっしゃる方で。ご自身でもディレクターもやってらっしゃることで、映画を作るという基礎学力というのはなまじのものじゃないな、っていうのを教えられた。
森田 映像だけでなく音というものにもかなり活躍された。
富野 勿論。正直ゾッとしましたね。オンエアが始まった頃の『鉄腕アトム』って僕殆ど観てないんですよ。一、二度は観てはいる。観てはいるときのアトムの足音っていうのはすごいな、というのは分かってはいたんだけども。やっぱりスタジオで聞くとレベルの違い、これをやった、電子音で。その頃の電子音の加工の仕方なんか今みたいなシンセがある様な時代じゃない訳。一番僕がビックリしたのは、「ピコピコピコ」という頭とお尻、ちゃんと区切ってあるんですよ。それを切り貼りでやるテープで繋げている。
森田 それで繋げてやってたんですか。
富野 はい。この長さシャーッって伸ばして「はい、こっからここまでね。え、あそこにも要る? ちょっと待って」。20分待たされる。「はい、付けました」。
森田 そういう編集もして。
富野 当たり前です!
森田 えーっすごい。
富野 全部スイッチングで出来るってレベルじゃない訳。その頃のテープレコーダーも糊付けする両面テープの感触も覚えてるんだけども、あれをね、現場でやられてね。「はい、入りますよ」ってやられるのを見たら。それだけじゃないのよ。「はい風の音が入ります」とか3台くらいのテープレコーダーでちょんちょんちょんとやっていける。やっぱりね、『鉄腕アトム』が終わるまでは土下座です。ありがとうございました。だから何を学んだではなくて、創作をするってのはこういうとこから始めなくちゃいけない。作家としては大江健三郎を抜かなければダメだ。音を作るときには大野さんのあのレベルを超える様なものを比定しなくちゃダメなんだとか、そういうプランニングがね、打ち出せなかったら演出家にはなれないんだ、ってことを全部教えられる訳。それを毎週のスケジュールを追っかけながら二年半やらされたんだもの(笑)。
森田 しかしそれでよくフリーになりましたね。全部自分でそれを背負わなくちゃいけないということになるわけじゃないですか。
富野 ありがたいことに、週ペースで作っていくために、全部が全部自分がやってる訳じゃなくて、班体制になってるために、互い違いにやっている。そういうこともあるんで、ベタベタではないんです。少なくとも今みたいな事情で言ってる環境とは違いますね。現場感覚ってのはものすごい形で、スタジオの空気感というのも嫌でも教えられて。だって徹夜でやらされるんだもん。労働基準法とか関係ないんですもの。そんなことやったら穴があく(笑)。それだけのこと。それを突破するためにはどうすれば良いか、っていうことしか考えていなかったことでの鍛えられ方っていうのは、やっぱり苦にはなりませんでしたね。ただ重要なのは、今の若い方には本当に分からないだろうけども、苦にはならなかったんだけれども、実を言うと本当、苦にするくらい過酷だったんだよ。どういうことかと言うと、演出助手で入社した奴が、3人ぐらい落ちましたもん、一年半ぐらいで。
森田 辞めちゃったんですか。
富野 そりゃ辞めます。生き残りしか『鉄腕アトム』が終わったときにはいない、という構造になる訳。
森田 そういう世界ですね。
富野 そりゃシナリオでもそうだし、ましてアニメーターでもやっぱり何人かいなくなりましたね当然。だからやっぱり耐久力のあるスタッフしか残れない。だけどとても重要なことがあるのは、これを苦役だと思ってもらっちゃ困る、というのが僕が教えられたことで。労働というのを一般論的に言うと苦役だという風に理解されている部分があったり。それから社会学的に言っても労働ってやっぱり苦役だと、それから暮らしを立てるための労働でしかない。という価値論があるんだけれども、僕はそれに関しては基本的に大反対で。そういう所で訓練されることで学習したことの方がはるかに大きかった。この学習量があったおかげで、それ以後の自分の、つまりフリーになってもそれこそ食っていける様になれたということがあるんだよ。それはどういうことなのかと言うと、だからね、それくらいの労働をやって週ペースの仕事をやらされてるとね、今度はフリーになったときに、知らないプロダクションに行って、俺玄関で土下座できたもん。三か所くらいで土下座して「仕事くれないか」って。それのときに一番始めに馬鹿にされる訳。「虫プロだよね?」「はい」「『鉄腕アトム』が終わったとこでお前辞めたんだよね?」「はい」「『鉄腕アトム』やってる奴が演出できるの?」って。これです、他のプロダクションに行くと。「えっ、一生懸命作ってたんだけども、そういう評価かよ」っていうのを、フリーになってから突き付けられる訳、現場で! 「とりあえずじゃあコンテを一本切ってごらん。スケジュールこうだよ」何をやるかと言うと、スケジュール通りにコンテを納品するってことをやる訳。それでまず第一関門突破。その次に「う~ん、『いなかっぺ大将』では使えないけれども、こっちでは使える」、そういう評価を貰う訳。だから作品選ばずにフリーランスに仕事を出してくれるプロダクションに。
森田 なんでもかんでも来た仕事は全て引き受けていく感じだったんですね。
富野 だってそうしなければ食ってけないから。それだけのことです。それだけのことなんだけれども、50過ぎてから分かることがあるのは、やっぱりその下積みの部分とか、土下座して回るという部分を、苦役にしないで、食うためにしょうがないからやる、ってことで、仕事が来たら逆に言うと今度はこっちのものなの。今度はこちらがコンテに対して「お前らにゃクレームつけさせねぇぞ」っていうとこまで行きますもん。その両方を持ち合わせないと、だってフリーには仕事来ないもん。
(CM)
森田 毎回この番組では「NEXT STAGEへの提言」と題して、次の世代の主役たちに向けて伝えたいことをおうかがいしています。
富野 今言った様なこと、鷲掴みで分かれ! っていう言い方しか出来ませんね。鷲掴みで分かれという感触、これ本当に難しいんだけれども、なんとなく分かってる限り、やっぱり身には付いてない、ってことです。だから分かるしかない。この場合の「分かる」とはどういうことかと言うと、自分の身体で今度は再演することができる、というところに行かないと、作り続けるという習慣性が出来ないんですよ。だからやはり鷲掴みで分かった上で作り続ける、つまり忍耐力が要るってところにも行く訳です。だから一般教養論的な意味で言う……なんて言うのかな、教養論という訓示? 僕の場合には喋れない。だから「分かってくれ」と言うしかないし、そして現にこの程度の試行錯誤をしたけれども、酷い言い方をします、『ガンダム』しか作れなかったんです僕は。ということは高が知れてるでしょ?
森田 いやいやいや……。
富野 いやいやじゃないんです。出来る作家は手塚治虫です。
森田 あー……。
富野 プロっていうのはあれだけやれて、ようやくプロなんですよ。プロっていうのはそういうものであるべきだから。この歳になって思えるのは、半分謙遜に聞こえるのかな、謙遜じゃないですよ、やっぱり挫折感しかないですもん。威張ってられない訳。オフレコで言い易い言い方がひとつだけあるのを今思いついたんだけども。
森田 オフレコはね(笑)。
富野 オンマイクでは喋れません。だけどオンマイクでは喋れない例え話があるんですよ、って言うくらいに言葉遣いが出来る様になったんです。なってこれですからね、って話です。
森田 でも挫折ってのは大事なことなのかもしれないですよね。
富野 「失敗は成功の母」だって言いますよね。絶対に若いうちに失敗するってことはしといた方が良い。それに尽きます。ここんところある雑誌でも人生相談みたいなことやってて思うんだけども(アニメージュ連載『富野に訊け!!』)、いちいちいちいちくさくさする相談事や何かをいただいたりするんだけれども、その程度のことだったらいくらでもしろ、って言いますね。やはりそれに耐え忍んでいかないと、死ぬまでのある寿命、というものを全う出来ないだろうな。人生を全うするってやっぱり「死んでいける様に死んでいったのね、あの人は」っていう風な死に方を以ってして初めて人生を全うしたと言える訳で。戦争で殺されてしまうなんて本当にもってのほか、以前の問題でもある。という風に考えていたとき、全うに死んでいけるというのはどれだけ幸せなことなんだ、っていう風に思わなくちゃいけないんだけれども。今この話をしながら僕すごく気にしてることがある訳。「死ぬ」という縁起でもない言葉を使いなさんな、っていう世間の言葉がある訳。僕これが本当に嫌なの! 縁起でもないんじゃないのよ。全うに死ぬって話は悪いことじゃないんだからね。っていう話が、なんでこうまで忌み嫌う様になってしまったんだろうか。やっぱり人類史というものは良い死に方というのをしてないからなんじゃないのかな、という気はします。これがやっぱり教えであって、少なくとも創作を志そうと思ったら今言った様な言葉遣いぐらいは出来る様になっておけ。という言い方はあります。このことがものの考え方とか感じ方をね、かなり歪めてきてるんじゃないのかな。という気はしてますね。この話をするとまたちょっと時間が長くなるので止めます。
森田 そうですね。どうも今日はありがとうございました。
富野 とんでもございません。
森田 最後に、次の世代の主役たちに向けて届けたい一曲をおうかがいしたいんですが。
富野 すごく嫌な曲名を言います。『パタン・パタン』です。シャンソンです。「パタン、パタン~♪」という曲が大好きです。今発音した通りです。これで始まる。邦訳で言うと「聞きなれない嫌な音がする。なんなんだろうか、私の背中に張り付いてきている」。エディット・ピアフの曲です。そんなレコードがかけらるのならかけてみろよ(笑)。
森田 是非。聴いてみたいです。
富野 なので、穏当な曲名を言えば『もえあがれ』です(笑)。
森田 富野さん、どうもありがとうございました。
富野 いろいろとご迷惑をおかけしてすいませんでした。
森田 とんでもございません。楽しかったです。
『機動戦士クロスボーン・ガンダム』連載時コメント
『機動戦士クロスボーン・ガンダム』連載時コメント
富野由悠季監督、83歳の誕生日、『機動戦士クロスボーン・ガンダム』30周年おめでとうございます。
ということで、今年の恒例記事は『クロスボーン・ガンダム』30周年と合わせたこの記事です。
少年エース創刊号予告カット

ガンダムエースの30年年表からも漏れたのがこの予告カット。実は大阪の長谷川先生個展でも展示されていたので、一部のファンは覚えているのでは。
この予告版クロスボーンガンダムのツノが、X-3以降のクロスボーンガンダムのツノの原点とも言える。ポーズが『ゼーロイバー』お披露目のガンダムエース2024年12月号表紙と同じ。
『機動戦士クロスボーン・ガンダム』少年エース連載時コメント
1995年3月
小さなアニメをつくったり、次のノベルズの企画をやったりして大忙しのこの頃です(富野)。
『ガーゼィの翼』あたりだろうか。
1995年4月
3月1日に単行本1巻が発売されます。どうか手に取ってみてください。よろしく。(長谷川)
第2話でX-1が使用した弾頭の解説。
正式名称を「ビームコーティングビュレット」といい、発射後は全体がビーム力場に包まれる大きな威力を持つ弾である。本来は厚い装甲をつらぬくための弾ですが、核爆発までの時間を稼ぐために使われた。
Wikipedia等では間違った記述がなされていることが多い。
1995年5月
私の小説「王の心」第1巻が出ました。血とSEXとバイオレンスの物語です。よろしく。(富野)
1995年6月
白状するが最近登場している変なMS群は、私のデザインによる。感想は編集部まで。(長谷川)
1995年7月
騒然とした世の中で、心の安らぎと癒しを求めるクロスボーン・ガンダムでありたい。(富野)
1995年8月
定期的に言ってる気がしますが、やはり言います。仕事ばっかりで他に何もできないぞ~!(長谷川)
1995年9月
オウム事件の影響を受けるのは残念だが、今回、予定していた宗教色を引っ込めることにした。(富野)
企画書にあったCVスタッフの信教要素、シェリンドンとクスモ・クルス教団の描写が控え目だった(ドレルも?)事情はこういうこと。
1995年10月
クロスボーン・ガンダムのガレージキットを入手しました。ひまを見て組み立ててみます。(長谷川)
1995年11月
僕にはガレージキットがない!ギリ少佐の部隊がでてもGガンにはなりませんからね。(富野)
1995年12月
休載
1996年1月
アシスタント全員をつれて焼肉を食べに行った。特上ロースをたらふく食べてストレス解消。(長谷川)
オリジナルMS大募集。
1996年2月
年越しは一人で寂しい。お友だちが欲しい。でも、仕事があるから、寂しがっていられない…。(富野)
1996年3月
1月号で募集したオリジナルMS。力作ぞろいで選考に頭をなやませている毎日です。(長谷川)
1996年4月
正月に3本仕事が重なり、登場人物が何人もクロスしたまま2か月。今も頭がパニックです。(富野)
オリジナルMS大募集総評
ひとつだけ良いアイデアがあるというMSがかなりあって、何とか採用したいと思っても、全体のバランスが悪いとか、現在のメカデザインの悪い影響だけうけてまとめようとするこざかしさがデザイン全体に現れていたりして点をあげられないケースがいっぱいあったのが残念。僕だけのガンダムを見たかったのだけど、それがなかった。(富野)
世間に500体以上のMSのデザインがある以上、ほかと見わけさせるのは大変だと思う。何か明確なモチーフがあるものを選びました。全体に武装のしすぎ(それもメガ砲を5門も6門もつけたMS)が目立ち、スーパーロボット化が進んでると感じた。(長谷川)
海老川兼武くん(東京都)のエレゴレラが有名だが、フリントの改良型ザンバスターや、X-3のスカルハートとバルカンも実は投稿デザイン。
1996年5月
OVA「妖精姫レーン」1・2巻を見て大笑い、ギャグが好きな方は見てみてください。(長谷川)
1996年7月
編集長に6月号の新MSをダイエーホークスのヘルメットだと言われた。アテナ像だって。(長谷川)
1996年8月
ようやく、ビデオ第一回作品の『ガーゼィの翼』が、完成しつつありまして、自信復活!(富野)
1996年10月
原画のチェックとワープロ打ちで、連日仕事場は蒸し風呂状態です。もう秋なのに…。(富野)
1996年11月
SF大会で、九州の小倉に行ってきました。大盛況で、お世話になった方々に感謝です。(長谷川)
1996年12月
OVA「ガーゼィの翼」の3巻目のコンテを脱稿したのですが、あと2巻ぐらい足りないなあ。(富野)
FLYING HEART 9月1日・9月8日放送分 ゲスト 富野由悠季
FLYING HEART 9月1日放送分 ゲスト 富野由悠季
石井竜也 よろしくお願いいたしします。
富野由悠季 こちらこそよろしくどうぞお願いいたします。
石井 富野監督は「ガンダムの生みの親」というよりも、日本のアニメ界を作ったという、そういう立役者のひとりだなって。
富野 うん、そういう意味では第一世代の人間です。どういう風に食べていこうかと考えて、アニメの仕事しかできないからやったわけね。アニメの仕事をやりながら何を覚えたかというと、「映画的にものを作ることはどういうことか」ということを覚えたわけね。そうすると、「スポンサーの言いなりに作る」とかってことをやってみせるわけね。まだ始めは自己主張がないんです。そういうことろから始まっていく仕事をしました。こんな話してて良いんですか?
石井 良いと思いますよ。やっぱり今これからアニメをやりたんだ、監督なりたいんだ、っていう人も聴いてると思いますし。自分を最初からドシドシ出していっても、世の中って上手くいかないんだな、って。
富野 絶対にいかない、絶対にいかない。だから本当、涙を流してこらえるっていうのは、スポンサーがいてくれるから、我々フリーランスの仕事師が仕事をできたんです。50年近く。そういう意味では本当にありがたいと思ってますんで、スポンサー様様だと思ってますが、が、利用させてもいただきました。
石井 あー、ただただ飼い犬のようにそれをやってもしょうがないですからね。ある程度自分の主張とかあるわけですからね
富野 あるときは嘘ついて『ガンダム』を作るようにしました。どういうことかと言うと、「全長22mのロボットは巨大じゃないだろ、マジンガーZ80mなんだぞ」「巨大なんですよ、それは分かってください。どういうことかと言うと、5階建てのビルと同じ高さは小さいですか?」っていうことでスポンサーを黙らせました。
石井 成程ね。「5階建てのビル」って出してくるところがまた商売人臭いですよね(笑)。
富野 だって商売やってるんだもん(笑)
石井 プロですからね。
富野 はい。そういう口の利き方をして、スポンサーを騙すわけ。
石井 言葉遣いも使い方次第で、プロかアマチュアになっちゃうよ、ということですね。
富野 そういうことです。だから僕の場合はいつも視聴率の取れない番組を作るようになっちゃったんで、ほとんどの僕が「総監督」というかストーリーを握ってると、途中打ち切りになる。ということで、打ち切りになると次の仕事が来ないわけじゃないですか。そうすると生活に困窮するという歴史がずっと続いていた。現在までも。
石井 確か富野監督は虫プロに在籍してたこともありますよね。
富野 勿論。
石井 あのときはおそらく相当火の車でやってたんですよね
富野 火の車ですよ。だけどそれは日本で初めて毎週「テレビまんが」を作んなくちゃいけないわけだから。こんなひどい作品でもオンエアしてくれてたという意味では、命拾いしたし。手塚治虫が原作で手塚治虫のプロダクションでやってるのに、いつの間にか手塚治虫はいなくなるわけですよ。我々で作らなくちゃいけない事態にも追い込まれたりもしてたって時代もあったので。
石井 手塚先生って3人くらいいたんじゃないかって思うんですよね。連載4本くらい持ってたじゃないですか。
富野 そう。
石井 しかも毎週『アトム』もやってるわ。
富野 全然違うものやってるわけ。気の持ち方にものすごく胆力があった。て言うか気力が途切れませんでしたね。
石井 医学の知識とかものすごい。
富野 そういう意味では大変な勉強家だったし、その上で一番びっくりしたのは「この人は本当にやきもち妬きなんだ」ってことを知った一番の局面は、永井豪って漫画家が出てきてて。『ハレンチ学園』みたいなのをやってるときとか、白土三平みたいな漫画家が出て。要するに時代劇をリアルな絵で描き始めたときに、嫉妬するんですよ。それであれと同じものを描くです。
石井 あるドキュメントを見たときに、手塚先生が「何か俺は下手なんだよね絵が」って悩みこんでいた画を見たときに僕はショックだったんですよ。こんな巨匠が「俺の絵は下手だ」って悩み込んでいる。どういうことなんだろうって思って。
富野 そのことは僕も入社して三か月後くらいのミーティングで、ご本人から聞きました。打ち合せしている途中で突然ね、「俺絵描けないんだよね」って。は?
石井 (笑)
富野 本当なんですよ。確かにね、漫画絵しか描いてなくてリアルな絵を描くと下手なんだよねこの人、というのはあった。だからリアルっぽい絵を描くと、何とか白土三平を負かしたいと思ってるわけ。
石井 『アラバスター』とかね。
富野 そう。本当にむきになってやってやるという意味の、なんて言うのかな、敵愾心を持つことが、あの人にとっての創作の原動力みたいになってたな、ってのは身近に見てちょっと驚きました。石井竜也『RIVER』(『機動戦士ガンダムSEED』ED2)
富野 実を言うと僕はあまり考えることをしないでアニメの仕事をやってきちゃったんですよね。というのが一番根本的なとこにある。どういうことかと言うと、スポンサーの言いなりに作るとか、作らせてもらったら無条件でその仕事をやらくっちゃ暮らしていけないからやってたにしか過ぎない、という言い方があるんです。だからアニメの作品のことを自分が関係したもののことをあんまり覚えていない。なんの仕事でもできるようにしようと思う、そうすると、前にやった仕事を全部忘れる。そうしないと『オバQ』のコンテは描けない。ロボットものをやった直後に『オバQ』のコンテを絵が描かなくちゃいけなくなったとき、とても辛いわけです。だから前のものは全部忘れる。『オバQ』みたいな作品はそうなんだけれども、作品を作る肝みたいなものがあるわけです。そういうものをきちんと自分が演出することができるのかな、ってことをやると、「『オバQ』ってなんなのだろうか」から始まる。漫画をこちらに置いておいて、こんな風に藤子不二雄がやっているのだからそれを真似れば良いだけのことなんだけども、真似で済んでられないんですよ。「紙芝居みたいなテレビまんが」だと言われてる時代でも、やはり時間を追って変化するという意味で映画的なんです。映画的なリズム、見せ方というのを考えていかなくちゃいけないときに、オバQのアップを描くのと、巨大ロボットもののロボットのアップを描くのはものすごく抵抗感が違うわけ。抵抗感の違いをどういう風に理解して、オバQのアップが使えるのかというときに、コンテ用紙に描いたときにこんなの画じゃないとも思うわけね。だけど子供たちが見るものなんだからこれで良いらしい。そうすると、オバQのアップをどういう風に動かすのかというのと、巨大ロボットものアップをどういう風に動かすのかっていう意味性が発生するんです。
石井 子供の頃にものすごく秘密が知りたかったことがあるんです。『オバQ』観てて、めくったらどういう風に足がなってるんだろうと思って。それで眠れなくなっちゃったりとか。『あしたのジョー』の髪の毛がどっちを向いてるのかとか。
富野 (笑)
石井 アトムの髪型、どこにくっついてるんだろうとか。シャンプーで親父にやってもらうと、親父は真ん中に付けるんですよ(笑)
富野 (笑)。あれね、まさに髪の毛の位置とかっていうの、本当に不思議に思うんだけれど、実を言うと、オバQの演出もやったからなんだけど、あそこを捲ろうって思わないんです。絶対に。
石井 子供は思いますよ(笑)。
富野 いや、石井さんはそういう風に考えたわけね。僕そういうこと一度も考えてませんでしたよ。瞬間でも考えなかった。
石井 間違ってる?
富野 間違ってるんじゃないんです。アニメの仕事やる人、そんな風にものを考えるとか、感じることは一切しません。絵にあるものをそのまんま受け入れるんです。まんが絵の記号というのがあって、それを迂闊に変えてしまうとアトムに見えなくなる。それだけのことです。
石井 ああ、マークなわけだ。
富野 そうです。一番分かり易いことで言うと、アニメに出てくる登場人物というのはファッションが絶対に変えられないんです。
石井 毎日ね。同じ格好して。
富野 昨日着てたものを続けて着てる、もう一週間着ている、みたいな話に気が付いちゃったら最後、アニメの仕事ってできなくなります。
石井 トリトンが海からバーッって揚がってきて、急に風になびいている。マントとか(笑)
富野 うるせーよ。
石井 なびかねーだろ。
富野 うるせーよ。
石井 すいません(笑)。
富野 うるせーよ。『海のトリトン』やったの私ですからね。
石井 『海のトリトン』は音楽素晴らしいですね。歌えますね。
富野 だけど、仕事師としてメインテーマの曲とBGM、テープ初めて聴かされたとき愕然としましたよ。どうしてかと言うと、あんなタイプの曲って今までアニメで使ってなかったんです。
石井 そうですね。
富野 『海のトリトン』にこの曲合わないんじゃないのかな、って正直はじめ絶望感があったの。
石井 『海のトリトン』はお話も素晴らしかったんですけど、男の子も女の子も観れちゃうっていう、はじめてのユニセックスな漫画だなって今思うんですけどね。
富野 それに関して言うと、『海のトリトン』で僕が初めて経験したことがある。トリトンとピピの関係っていうのは、当然実を言うとセックスのことを考えたわけ。人魚のセックスとトリトンの関係ってのは本当にあるんだろうか、ということが実を言うと、あの演出で生まれて初めて思春期のセックスのことを考えざるを得なかった。それを無視するわけにもいかなくって。それで敵味方の、つまり怪獣をやっつけていくだけの話にしたんだけども、いやこれだけで終わられたらマズいんだよね、っていうことで最後にどんでん返しをやっちゃったということで、原作にないことをやっちゃった。それはどういうことかと言うと、ある民族が根絶やしになった、根絶やしにされたのはトリトン族がいけなかったんだ、ということで、トリトンが今まで追いかけられていたモンスターたちというのは実を言うと恨みを晴らしに来て最後の生き残りのトリトンを殺しに来た、という事実をトリトンが見ちゃった、という。僕自身『トリトン』の仕事で手塚原作にないそういう要素を入れていくことをやったおかげで、その後高畑監督の仕事を手伝わなくちゃいけなくなったときに、『アルプスの少女』が始まるんだけども、ものすごく抵抗感がなく高畑監督のお仕事を手伝わせてもらえるということになってきた、というのがあります。
石井 富野監督の音楽のチョイスが素晴らしいですね。
富野 僕は選んでないんです、一切。音楽ディレクターが別にいるんです。
石井 音楽ディレクターがいるにしても、それをOKと言うのは監督の仕事でしょ?
富野 勿論そうです。初めて『ガンダム』のときに渡辺岳夫先生の素敵なBGMを聴かされたときに、正直げんなりもした。げんなりもしながらも、すごさも分かった。
石井 僕はガンダムの形ってのは、ガンダム世代はみんな車のデザインに入ったりしてると思うんですね。車の形がどんどんガンダムの形になっていくんですよ、日本車が。それが売れたことによってヨーロッパ車が、あれだけにゅるんとした形が好きなヨーロッパ車がガンダムの形してるんです。
富野 そういう目線があるんだ。へぇ~。とても面白い視点なので参考になりました、っていう褒め方しかしてないんだけども、成程ね。言われてみればそうですね。『ガンダム』のときのデザインで僕が一番好きなのは、「一つ目でやってもらわなくちゃ困るんだよね」ってオーダーを出したのは僕なんですよ。それで作られたのがザクなんです。だから僕はザクの方が好きなの。なのにガンプラでザクよりもガンダムの方が売れてるってのは気に入らないわけね。
石井 しょうがないですよね。主人公ですから。
富野 しょうがない。だけどデザイン論的に言えばザクの方が良いんだけどもな、何故なんだろうな、っていうのはもう45年間の疑問です。
石井 ザクは東洋人ですよね。
富野 (笑)
石井 ガンダムは白人ですよね、確実に。
富野 へぇ~。そうだね。そう聞くの初めてだから。
石井 肩幅があって手足が長くって。
富野 白いもんね。
石井 そう考えたらハッキリしてるなって。おそらく日本人が思うところのカッコいいって美学が外国人の、僕らが言う白人、北欧の綺麗な9頭身みたいな人たちを思うようになっちゃってから出来たアニメが『ガンダム』なんですよ。その『ガンダム』に影響された人たちが色んな業界に入られていて。
富野 そうそう。
石井 それで『ガンダム』に影響されてからその美学になっちゃってるから。だからどんどんそういう形になってったんだろうなと。
富野 だからワールドワイドに広がってったんだ、成程ね。へぇ~勉強になりました。
石井 富野監督が目指していたところとは?
富野 基本的にポリシーがあって。子供に対して嘘をつかない。絶対に嘘をついちゃいけない、っていうのはどういうことかと言うと、その場限りの理屈で物語を展開する、ってことだけは絶対にしちゃいけない。ということをやりました。それだけのことです。そうしていったときに、なんとなく「トミノカラー」的なものっていうのは巨大ロボットものでもあるよね、みたいな評価を受けるようになったりして、40何年経つとガンダム第一世代が50代に入ってるわけです。そうするとあらゆるジャンルにファンがいるんですよ。
石井 と言うか文化ですよね。
富野 そういう事態を見たときに、やっぱり嘘をつかないで良かったな、っていう回答を全部視聴者からいただける。という経験が特にこの20年くらい。この場合の20年とはどういうことかと言うと、僕はもう80過ぎてますから、60代70代になってからそういうことを教えられえるんです。本当に命拾いをしたな、っていう風に思ってるので、テレビまんがの仕事をやってきたということを恥じないで済む、という意味ではとてもありがたいなと思ってます。
石井 僕そのお言葉を聞けただけでちょっとウルッときましたよね。今週はありがとうございました。来週もですね。
富野 お呼びいただければ翔んで行きます!
石井氏の番組に富野監督が出演するのは2006年12月10日の『MUSIC ALIVE』以来か。
その際石井氏は「富田監督」「ゼットガンダム」の迷言を残している。
FLYING HEART 9月8日放送分 ゲスト 富野由悠季
石井竜也 少年時代はどんな? ちょうど戦後すぐって感じ?
富野由悠季 戦後すぐじゃないですね。すぐではないけれど、とにかく僕は漫画を本気で読み始めたのが『鉄腕アトム』なんですよ。僕が小学校5年のときに『少年』っていう雑誌に連載が始まったのが『鉄腕アトム』なんです。それでその『鉄腕アトム』の1回目を読んで「ゲッ」と思っちゃって。「こんな近代的な漫画が出てきた」。初めてなんです、ファンになった。漫画家にもファンになったし、作品にもファンになったの手塚治虫が初めてなんです。だから『鉄腕アトム』があったおかげで、それから手塚治虫という漫画家が変なもので、世界名作ものみたいなもの漫画で単行本で描いてくる。貸本屋で借りられたんです。だもんで、ドストエフスキーの作品(『罪と罰』)というのは手塚漫画で教えられた。中学1年2年のとき。そして『鉄腕アトム』もあるんだけれど、ロシア文学の作品というのがこんな風なものがあるんだ、というのも教えられて。『罪と罰』なんて人殺しの話なわけです。そういうのを漫画に描いちゃう、という手塚治虫って何なんだろうか、という風にその瞬間に漫画家って文学者と同じレベルにポンと上がっちゃったのね。
石井 確かにそこは手塚先生のすごい大きな功績ですよね。
富野 そうそう。それでおっかけちゃった中学3年間というのがあって。中学3年まで『少年』って雑誌を僕は買えないので、弟二人いたので弟たちに買わせながら『鉄腕アトム』は高校3年間ずーっとフォローしてた。その上で大学に行って4年経ったら虫プロでしょ(笑)? っていうようなことで「あれ? 俺ってこんなに一本線で幅が狭くって良いんだろうかな」っていうことをちょっとだけ、ブレたんだけれども、ひとつだけ『鉄腕アトム』の仕事をやって「やはりこれで良かったかもしれない」ってのは、日本で初めての仕事だった、っていうことがあったので、地獄の忙しさだったんだけれども、あの『鉄腕アトム』僕の場合は3年間です、『鉄腕アトム』を作るということをやって。その後で端で『ジャングル大帝』が始まったときに、次は『リボンの騎士』をやるってときに、「『リボンの騎士』を手伝わせてもらえるかな」って思ったんだけれども、思ったんだけれどもで重要な話があるの。『リボンの騎士』もそれほど嫌いな作品じゃなかった。先週のお話のモノセックスの話。
石井 ものすごい早い取り扱いですよね。
富野 『リボンの騎士』でいわゆる「少女」というものと、「男と女がいるんだな」ということを教えられたのが『リボンの騎士』なんだよ。それの反映があるから、『海のトリトン』をやるときに「人魚のピピの問題とトリトンのセックスの関係って何なんだ」っていうのを考えたんだけども分かんなかった、っていうので終わっちゃった。だけど、まさに僕にとっては手塚作品があったおかげでこういう風な、つまり手塚以後のアニメ作家ということでトミノみたいな変な奴が出てきた、ということは手塚先生がいたおかげでこういう風になったんだな。今こうやって初めて、こういうストラクチャーで話したの初めてなのね。自分でもびっくりするもん。
石井 僕は逆に富野監督の人間の大きさを感じますよ。
富野 ありがとうございます。だけど、それは僕の問題じゃなくて手塚っていう漫画家が本当に僕にとっては文芸作家でしかない、という意味でのやっぱり巨匠だった。それで実際に虫プロに入ったおかげで先生とも直に話ができるようにもなって。むしろ僕の名前を手塚先生が覚えてくれたのは虫プロを辞めてからなんです。『海のトリトン』をやって手塚原作を全否定した。ということをやった後で、手塚先生に好かれるようになった(笑)。って経緯があるんです。僕は『リボンの騎士』も2本ぐらいコンテだけをやったんだけれども、その後で虫プロ辞めちゃった人間なんですよ。辞めたのにもいろんな理由があるというよりも、『ジャングル大帝』があって『リボンの騎士』をやって、この後手塚原作で虫プロでやってく仕事っていうことが、っていう風にお仕事として見ていったときの虫プロダクションの体制とか、そこに集まったスタッフ、いわゆる想像力がない人の集団なんだ、ってことが判ってきたときに、本能的に「この空気に染まったらフリーでやってくときに食ってけない」っていうのは嗅ぎ分けることができた。事実、虫プロ辞めて3年目くらいのときに別のプロダクションに行って「仕事ください」ってもらいに行ったときに、一番始めに言われたのが「あっ、あんた虫プロ出ね」。つまり虫プロ出の演出家というのは使えない、使いものにならない、っていう。
石井 おお~。
富野 他のプロダクションから見たときの目線があるんですよ。
石井 何だろう、お金使いすぎる、みたいなのがあるのかな。
富野 違います。基本的に演出能力がない。それだけのことです。
石井 そうですか(笑)?
富野 そうです。そういう風に言われて「ヤバいな」と思って「内部で頑張りますのでこちらの仕事やらせてもらえませんか」って話して。ムキになってコンテ切りましたもん。それってどういうことかと言うと、映画的に演出するとはどういうことか、っていうことを悪口を言われたプロダクションに対してムキになってやって。そこの仕事がコンスタントに取れるようになってきたときに「虫プロ出をバカにするんじゃないよ、舐めるんじゃないよ」っていう意味をぶつけるプロダクションが3つくらいあったんです。その4つ目くらいに高畑(勲)監督がいるプロダクションの仕事をもらいに行って。「え? 『アルプスの少女ハイジ』をやれる自身ある?」って言われて。「やります」。無条件です。そのときにいきなり高畑監督が出てきて。「あの、このシナリオ。はい。コンテよろしくね」って。何にも言いませんからね。逆に言うと高畑監督の場合手塚とは全然違うタイプの方で。何にも説明しないんですよね。シナリオ読んで「何か問題あります?」「それなりに形になってるシナリオだと思います」「はい、けっこうです。あとはコンテ上げてきてください。一週間後にコンテください」。それだけなの。
石井 『ハイジ』から日本のアニメーションの形が変わってきたなと僕は思うんですよ。それは何故かって言うと、蝋燭の火を持ってる顔の影が変わったんですよ。『ハイジ』から。
富野 (息をのんで)そういう見方をするんだ。すごいね。
石井 それまでのアニメってのは蝋燭がただ光ってるだけで。顔の影も何もないんですよ。
富野 それともうひとつ。影が動かないの。
石井 『ハイジ』はちゃんと動いたんですよ、おじいちゃんの顔の。
富野 あれは宮崎(駿)監督の仕事です。
石井 すごいですよね。俺あそこから日本のアニメーションは一段上がったと思いましたね。
富野 そう。
石井 例えば新海(誠)監督とかも名作いっぱい出してるじゃないですか。
富野 うん。
石井 ああいうのを観てると、やっぱりすごく現実的なところから出発する話じゃないですか。
富野 はい。
石井 僕らの世代で言うとスポ根ものですよね。
富野 僕の場合スポ根の話で『巨人の星』かなりやってるんです。
石井 そうなんですってね。俺それ聞いてびっくりして。
富野 『巨人の星』のときの総監督ってのは長浜(忠夫)監督って人で。この人がまた変な人なの。どうして変な人なのかと言うと、なまじ人形劇をやっていて、アニメの演出を始めてシリーズの仕切りを任せられたの。そのために映画的に演出をするってことをものすごくムキになって全部説明してくるんです。『巨人の星』は野球の話じゃないですか。「グラウンドの広さの中でもホームベースとベンチの距離から何から含めての歩数まで気にしてるようなコンテを切ろ。梶原(一騎)原作をとにかくきちんとアニメにしなければいけない。だけど星飛雄馬なんだぞ」っていう仕事なので、やっぱりかなり擬人化的にアニメっぽい、漫画っぽい大魔球を投げなければいけない星飛雄馬みたいな、あんなピッチングなんか誰ができるの? ってことを要求するわけ。じゃあ漫画的にやれば良いのかというと、長浜って監督は実写を目指しているんですよ。それこそちゃぶ台返しみたいなことをやったときに「これ四畳半だろ。四畳半の広さを八畳にしてもらっちゃ困るんだよね」っていうようなことをぶつけられるわけ。『鉄腕アトム』の時代にね、八畳の部屋で芝居をするっていう観念なかったんですよ。
石井 未来の話ですからね。
富野 『巨人の星』初めてね、「三畳間と四畳半と八畳の広さ、意識してコンテ切ってくれ」。っていう縛り。だからしょっちゅう直しをくらってました。「富野君、このコンテおかしいから直して。ここでやってってね。一時間経ったら取りに来るからね」っていうような仕事のさせ方をしてもらって。
石井 でもあれがきっかけで『あしたのジョー』が出てきて。
富野 そう。
石井 いろんなスポ根ものが広がっていくわけですよね。
富野 そう。
石井 富野監督が手掛けたものってのは、必ずそこから花が開いていく感じがしますね。話聴いてると。
富野 それは違うの。僕はその当時フリーになって生活をなんとかしなくちゃいけない。いろんな作品をやってただけの話なの。作品を選ばず。だからそういうことをやってたんで、たまたま。まだあの当時は今ほどアニメの本数も多くなかったから。それはこうやって波及効果ありますわな。だからそういう意味ではなんだかんだ言うけど恵まれた環境の中でいろんな人とお付き合いさせてもらって。何より高畑・宮崎みたいなああいう監督、つまり現在まででアカデミーで特別賞もらっちゃうような人と仕事させてもらった。っていうオーラは感じましたもんね。
石井 自分の前に与えられたものをどういう風に料理していったら良いんだ、ってのをたぶん富野監督は常に考えてた人なんじゃないかなと思うんです。
富野 いや、考えたんじゃなくて、そういう人たちに教えられました。だから受け入れるということをどうするかとか、オーダーに対してどう応えるか、っていうことをかなりムキになってやらされた、っていう結果があったんで、やっぱり『ガンダム』みたいなものが作れたんだよね、っていう自覚がありますね。ひとりでは作れません。だからそういう意味では仕事というのは選んじゃいけない。「俺はアーティストだからこれをやります」じゃなくてね。やっぱり「オーダーに対して応えられる、っていうのがプロなんじゃないのかな」っていうのは僕の意見(笑)。
石井 僕もそう思います。僕もラテンでもなんでも歌っちゃいます(笑)。
富野 (笑)
石井 「何でも屋」って言われてますけどね(笑)。ここで曲行きたいんですけど。僕の好きな『海のトリトン』で。きっと『海のトリトン』って言うと「GO! GO! トリトン」を発想する人が多いと思うんですけど。
富野 そうです。
石井 今日はですね、『海のトリトン』のED曲を知ってる人ってもうそろそろいないんですよ。
富野 はい。
石井 僕はこの曲は素晴らしいと思って。
富野 (拍手)
石井 うちの妹が大好きな曲でもあったし。
富野 (笑)
石井 僕もすごくクラシックを感じるというか。
富野 はい。
石井 高い音楽を使ってるなというイメージがあったので。みなさんに聴いていただきたいと思います。
(須藤リカ、南こうせつとかぐや姫「海のトリトン」)
石井 オーケストラとガンダムを流して、観客が観る、そういう形式(シネマコンサート)がひとつのジャンルに。
富野 なりつつありますね。
石井 そういうの考えてると、アニメの世界っていうところを飛び出して、音楽の世界とかファッションとか、車の顔がガンダムになってるとか。そうやってアニメっていうたったひとつの媒体がいろんな媒体に影響を与えてる。これはすごいことだなと僕は思うし。それだけインパクトもあったんだなって気がします。
富野 発祥の地である日本、つまりJapanの持っている、何て言うのかな、意外とワールドワイドに対応できるだけのセンス? みたいなのを持っているという意味での日本人のマインド、っていうのはこれは我々自己卑下する必要ないんじゃないのかな。現に今、音楽の世界でも日本発信というのを持っている。つまり極東から出てるものがこういう風に世界中をぐるっと伝わってくってのは、何かとても素敵な感じがしているな、というのもあるし。だからなんです。ちょっと今嫌なのは、自分がこの歳になっちゃって、「え、俺様は何を発信したら良いのか分かんない」。時代のギャップが(笑)。
石井 もう発信したんですよ!
富野 したいの! これからもしたいの(笑)!
石井 これからもしていただきたいですけども。相当すごいものをしてるんですよもう! 既に!
富野 そうか。
石井 世界中の人は「Mr.Tomino」っていう世界で生きてるんですよ、みんな。
富野 あんまりそういうね、褒めてくれないよ周りは。
石井 それは言わないでしょう、面と向かって(笑)。
富野 (笑)
石井 俺だから言うんですけど。そりゃそうですよ、だって逃げられないもん。
富野 うん、だから僕は逃げるつもりはないんだけれども、誰もそういうの教えてくれないの。
石井 いやいや、監督が作った世界でみんな生きてきたんですよ!
富野 はい、成程ね。分かった分かった、分かった!
石井 是非そんなことは言わないでいただきたい。
富野 だけどこれからも発信したい!
石井 はい、是非もうガンガンやっていただきたいと思いますけども。
富野 だけどガンガンやるだけの体力がなくなってるっていう問題があるわけね。
石井 でも富野監督だったら「そこを横に行って右に行って(酔っぱらいっぽく)」って。
富野 いや、いや。
石井 それで良いんじゃないですか(笑)。
富野 ほんとすごいね。
石井 もっと暗くして、うんうん、ガンダム入れないから……。
富野 (笑)。あなたはトミノじゃないんだから(笑)。
石井 あ、すいません(笑)。そろそろお別れの時間なんですが、二週間に渡って貴重なお話ありがとうございました。
富野 とんでもございません。
石井 これからアニメを志す人間がいっぱいいると思うんですよ。今の若い奴らの夢のひとつだと思うし。そういうものの根っこを作ってくださった。とてつもなく偉業だと僕は思いますよ。
富野 ありがとうございます。
石井 やっぱり木が大きく成長できるのは、根っこが深く地中にあるからこそ、高い木が作れるんですよ。
富野 偉いねぇ。そういうの言えるってスゴいねぇ。
石井 いやいや。
富野 本当大人になったねぇ。
石井 ありがとうございまちゅ(笑)。
富野 (笑)
石井 というわけでございまして、二週間に渡ってゲストは富野由悠季監督でございました。ありがとうございました。
富野 本当にお呼びいただきましてありがとうございます。
石井 これに懲りずまたどこかで。
富野 全然懲りてない(笑)。
君は富野喜幸演出『紅ばら・白ばら』を知っているか
富野由悠季監督、82歳の誕生日、令和5年秋の園遊会招待おめでとうございます。
君は富野喜幸演出『紅ばら・白ばら』を知っているか
富野喜幸演出児童向け作品は『しあわせの王子』だけではない
『富野由悠季の世界』展において、会場外で『しあわせの王子』が上映されていたことは記憶に新しい。
『富野由悠季全仕事』、『富野由悠季の世界』図録にも載っていないが、富野監督の児童向け作品は実はもうひとつある。それが今回紹介する『紅ばら・白ばら』だ。
『紅ばら・白ばら』概要

原作:グリム童話
製作:共立映画社、和光プロダクション
企画:小野国三
製作:江川好雄、高橋澄夫
脚本:大島善助
アニメーション:和光プロ
演出:富野喜幸、野村和夫

制作:佐藤光雄
原画:昆進之助
動画:池田純一、島崎おさむ
美術:新井寅雄
背景:アイプロ
色彩設定:若井喜治
仕上:スタジオ ライフ
撮影:佐藤均、角田秀一、武川昌志
上映時間35分
文部科学省選定、厚生労働省中央児童福祉審議会推薦
『しあわせの王子』同様に教育機関向けにリリースされている。
下記の『しあわせの王子』と見比べるとわかる通り、ほぼ同じ座組なので、ハゼドン以降~1974年?前後に同タイミングで制作されたのではないだろうか。もしかしたら他にも富野喜幸演出児童文学作品があるのかもしれない。メディア関係の方々、ぜひ富野監督に取材してほしい。
実物大νガンダム立像 オープニングセレモニー 富野由悠季監督ビデオメッセージ
実物大νガンダム立像 オープニングセレモニー 富野由悠季監督ビデオメッセージ
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富野監督ビデオメッセージ部分のみ文字起こししました。
富野 こんばんは。福岡の皆さま、それから配信をご覧の皆さま。ガンダムシリーズの原作であり、総監督を一応やってました、富野由悠季です。今回、三井ショッピングパークらららぽーと福岡開催にあたり、実物大のνガンダムが建設されましたので、ご挨拶させていただきます。
ご覧の通りの大きさになったのは、元々が宇宙空間で建築現場の作業用のロボットとして作ったものです。ですからここで作業する操縦者というかパイロットはひょっとしたら2、3日閉じ込められているかもしれない、ということの可能性もあったので、こういう大きさになってしまいました。
映画の『逆襲のシャア』では、地球の汚染を防ぐためにνガンダムが戦ったためにです、結局特攻作戦になってしまって壊されてしまいました。
今回のνガンダム(RX-93ff)というのは、(オリジナルRX-93の)設計図面は残ってた様なので、それから再現をした、という設定で作られましたので、映画版のνガンダムとはちょっと形が違ってる部分はあります。が、それも大人の事情ということではなくてむしろ今回会場に実物大で建っているものは、戦った後の状態になっています。どういうところが戦った後というのは、映画版との違いを見比べてください(笑)(おそらくカラーリングのこと)。ただ、実際に今言った様なことを想像して作られたものが、実物の実際の形としてこういう風に展示されることができる様になった、という意味では、ものを考え想像するということがこういう実体として手に入れることができる。そしてひょっとしたら動くかもしれないという可能性も示している、というものがガンダムシリーズの結果として現れています。具体的に現在只今横浜でやや動くガンダム、というものが展示されているということも含めて、この大きさのものが動くということがどういうことなのか、ということも想像していただけると嬉しいなと思っています。
ともあれです。一番大事なことはです。絵空事であったものがこういう実際の形にすることができた。それで実際の形にしてみたら、「あれ、アニメで見るのと違う印象、ボリュームがある」と感じる様になりました。実際に動かすことをやってみた時に、大変大きな発見もあります。つまり全長が17mとか18mの大きさのものというのが、素早く動かすということがとてもできないんです。それをむしろ動くガンダムっていうのを作る上で判っていった時に、一番知ったことはどういうことかと言いますと、この大きさのものっていうのは優しく動くんだよ、ということを教えられた。だからそういう意味ではガンダムの様なものが兵器として使われるものでは絶対ない、という風な全く違う視点というものも獲得することができたということです。。今ここにある実物大のνガンダムを見るということで、今言った様なことも想像することができるという意味では、本当にやはり作ってもらわなければ分からないことなんです。本当に作ってもらうことができ、尚且つこういう場所があるから展示することもできるんです。そういうことを可能にしてくれた関係者の方々の作業や努力に対して本当に心からお礼を申し上げます。こういう風なものを見て楽しんでいただくと同時にです。三井ショッピングパークららぽーと福岡にいらしていただいた方々には、所謂体感型のアクティビティのイベントというのもありますので、そういうもので体も動かしながら、ものを想像するということも一生懸命考えてくれる様にしてくれるとありがたいなと思います。そしてお子たちはです、そういうことはできると思ってます。ので、こういう環境を提供してくれて本当に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。今日この様な形でご参照くださいまして感謝します。何よりもです、関係者の方には本当に心から御礼申し上げます。ありがとうございました。




