ニッポン放送開局70周年記念 NEXT STAGEへの提言II 12月19日放送分 ゲスト 富野由悠季

ニッポン放送開局70周年記念 NEXT STAGEへの提言Ⅱ 12月19日放送分 ゲスト 富野由悠季

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森田 今夜お招きしたのは、今年『機動戦士ガンダム』誕生から45周年、そして10代の若者の間で社会現象を巻き起こしたプラモデル「ガンプラ」の発売から来年45周年を迎えます、『機動戦士ガンダム』の生みの親、アニメーション映画監督で原作者の富野由悠季さんです。富野さん、こんばんは。
富野 こんばんは、よろしくどうぞお願いいたします。と言いながら、ガンプラは僕は作ってません!
森田 そうですよね。
富野 はい。
森田 (笑)。簡単にプロフィールをご紹介いたします。富野さんは1941年、昭和16年、神奈川県の小田原市で生まれてらっしゃいます。日本大学芸術学部映画学科を卒業された後の1964年ですから東京オリンピックの年ですね。虫プロダクションに入社され、『鉄腕アトム』などの演出を担当されました。フリーに転身された後、TVアニメ『海のトリトン』、『無敵超人ザンボット3』などの総監督を経まして、1979年放送の『機動戦士ガンダム』で社会現象を巻き起こしました。また、『ガンダム』シリーズ以外にも、『伝説巨神イデオン』や、『Gのレコンギスタ』などがあります。そして2021年度文化功労者に選ばれています。富野さん、あらためてよろしくお願いいたします。
富野 こちらこそよろしくどうぞお願いいたします。
森田 お年がですから83歳。
富野 83歳になりました。
森田 黒のキャップにモノトーンのシャツでお洒落ですね。
富野 と、いう風に他人から言われてたことはありません。
森田 ありません!?
富野 はい。ありません。
森田 あ、そうですか。
富野 本当にこれは僕自身がこういう立場で、TVアニメで、言ってしまえば名を成した立場だったので、人前に出るときのファッションというのは、本当に『ガンダム』を始める前から気を付けてました。アニメのスタッフ関係者でこれに続いてくれる人が一人以外いなかった(永野護?)。
森田 ほう、一人いました?
富野 一人いました。その人の名前を挙げて良いか多少問題があるんで。ちょっと遠慮させてもらいます。
森田 (笑)
富野 そういう意味で人前に出るファッション、アニメ関係者、まっっっったく持ってなし(笑)!
森田 そうなんですね。
富野 っていうのは、自分たちがある意味謙虚なんですね。裏方の仕事だっていう風に弁え過ぎているんだろうな、っていうのはあります。
森田 はぁ~。富野さんはそうすると自分が前に出るんだと意識はされていたということですか?
富野 やっぱりしました。したのには、ひとつは虫プロにいたおかげで手塚治虫先生を目の前で見ていた、っていう部分があったので。漫画家でこういう風に成り上がった、っていう作家がいる。だから僕にとっては手塚先生ってのは作家であって漫画家だとは毫も思ってない、っていう認識を持ってます。あの方のベレー帽があんまり似合わないんだけれども、人前に出るとピシッと被ってるんだよね~この先生。
森田 トレードマークですもんね。
富野 そう。という意味でのやはりルックスをFIXしていくという律儀さ。それを教えてもらいました。だから漫画家であろうともなんです。テレビまんがの仕事をやっていても、公共の電波を使わせてもらって仕事をやっているんだから、なんです。個人プレーではないと思ってるんです。この考え方を僕の場合にはなんなんだろうかなぁ……。なんとなくやっぱり学生時代からちょっと身についてることではありましたね。
森田 まずこのコーナーは子供のころのお話をお伺いしたいんですが、先程ご紹介したように小田原でお生まれになって、子供のころの記憶というと、戦後のものではないかと。
富野 勿論そうです。戦後のことですから、実を言うと人前に出るということの、一番初めの僕にとっての原風景になっているのは、美空ひばりです。
森田 えっ、美空ひばりさん。
富野 まだ子供のころに、人前に出て歌を歌うときに、ちゃんとリボンを付けて小学校6年とか中一くらいになってもスカートを履いて。歌ってみせるという、公共の前に出るということを。ちょっとだけファンだったんです。嫌でもそれは教えられるじゃないですか。だから小田原という多少田舎っぽいところだったんだけれども、そういうものは教えられるという部分を、なんで周りの同級生はそういうセンスを持てないのか。僕には謎だった。
森田 美空ひばりさんの影響を幼いころに受けていたんですね。
富野 だけど僕が一番影響を受けたのは美空ひばりじゃないんです。ファッションのことで言うと、もう一段上がいるんです。
森田 もう一段上? 当時ですよ?
富野 水の江瀧子です。ターキー。つまり少女歌劇団でタキシードを着てた。
森田 「男装の麗人」と言われた。
富野 そして、あの人には本能的に、それこそ子供の男の子なんだけども、男心をくすぐられた。これは絶対に、地元では口が裂けても言っちゃいけない。恥ずべきことなんだ、っていう自覚もしてました。だからこの話、今日初めてしました(笑)。80超えたから喋れるの。
森田 幼いころ、ラジオなんかお聴きになりました?
富野 いやいや、聴くわけないじゃないですか。東京の電波、小田原。
森田 入らない?
富野 かなりね、聴こえづらいんです。ノイズ音かなり多い(先日の秋葉原国際映画祭のトークから、日大時代?にはラジオを聴いていたもよう)。
森田 幼いこと接したメディアというと、そういう例えば白黒のTVが始まったころ?
富野 いや、TVなんかまだ、中学卒業してからじゃないと僕家では観てないもん。だけども、なぜ水の江瀧子に引っ掛かったかと言うと、親戚が全部東京の人間なんです(富野本家は大島)。だもんで、松竹歌劇団の中央劇場っていう定宿が浅草にあったのは2、3度観に行ってるんです。ただそれのときも既にターキーは引退してるんです。少女歌劇団なんだから本当はタキシード姿を見られるんだけども、ターキー以後のタキシードで似合ってる奴が一人もいない、っていうのを小学校6年のときの記憶が完全にあります。だからスター性の問題とかっていうことも、その時代に中央劇場で教えられた。
森田 小学校6年生でそういうSKDに接してられたんですね。
富野 だって人形町の近くに親戚がいたから。だから人形町から松竹劇場までは頑張れば歩いて行けます、っていう距離でした。そういうところでターキーを見損なっちゃったっていうショックがありながら、他の男装の麗人を見ていったときに、あれ? 申し訳ないんだけども、みんなターキーより落ちる(笑)。っていうこの鑑識眼っていうのを教わったっていうのはかなり大きいです。この話も今日初めてです(爆笑)。
森田 初めてエンタメに触れたような瞬間だったということですよね。
富野 そうです。ですから小学校も5年生6年生くらいになると多少スケベ根性も出てくるから。ラインダンスでネーチャンがみんな足上げてくれる。それだけはこうやって涎垂らして見てたっていう記憶はあります。だけどあるんだけども今言った通りで。ターキーがいなくなってる松竹歌劇団はやっぱりかなり落ちるな、っていう意識は持ちましたね。
森田 そうなんですね。ご家庭ではそういうエンタメは?
富野 一切なし! どちらかと言うと……まぁ~あんまりお堅いとも思えなかったんだけども。
森田 お父様は軍事関係の技術者だったと。
富野 それもあるんだけれども、結局戦争が始まったおかげで、東京の、当時で言えば高校ですけども、専門学校を出て、それの引きで化学の工場、小田原の工場に来たってだけのことです。だから所謂どういう仕事をやってたかと言うと簡単な話、雨合羽を作らせる。陸軍とか海軍に納品する合羽です。
森田 雨の行軍なんかに使うような。
富野 そうです。あれもだから軍需品なんですよ。
森田 そうなんですね。
富野 言われてみればそうでしょ?
森田 確かに。
富野 そういうものを作らせることも始まってるんで、戦後の父の仕事関係のノートが一冊だけ残ってた。小学校も5、6年になると零戦の三面図は分かるわけです。なんで親父のノートの中に零戦の図面があるのかと言ったら、零戦の覆いを作るんで。
森田 あれを雨合羽の素材で。
富野 そう。というようなことをやらされてたんだよね、というようなことも知ってます。ただ、そういう記憶が一緒くたになっているので、僕にとってガンダムというロボットを戦闘機のサイズに落とすということは、あんまり……なんというのかな、特別なことではない。むしろ全長50mだっていう二本足歩行よりは零戦サイズくらいの方が丁度良いだろう。
森田 18mがガンダムですよね。
富野 そう。だから18mとか20mが限界で。パイロット一人乗る戦闘機のサイズなんだって考えたときに、ガンダムっていうMSに乗る、ロボットってのを止めて新しいジャンルにしようと。僕にとっては特別なことではなかった。
森田 それは原風景としてあるから。
富野 あるからです。それのときに、TVアニメ、まんががアニメになり始めてくれたところで「そうか、戦闘機並で、パイロットの物語にしよう」となる。「子供に見せるものなんだから主人公は子供にしなくちゃいけない」という言い方があるんだけれども、この言い方は半分嘘なんです。中学のときにも多少戦記ものは読んでたんで、太平洋戦争の末期、少年兵がいるという存在は十分知ってました。戦車兵の養成として16歳になったら、その学校に行けるとか、それから海軍の場合、戦争末期には戦艦大和にも乗せられてた、という少年兵がいたことも知ってました。ので、なんで子供を主人公するのかという話は僕にとっては全く抗議でもなんでもなくて。だから今でも困ることがあるのは「なんで子供に戦争に参加させたのか」っていう質問があるわけです。当時そうだったんだもん。だから、そういう事実をむしろ知ってほしいってことがあったので、かなり意識的にガンダムアムロという少年を乗せる、っていうことをやった。それのときに重要なのは、1話でいきなり戦闘機に乗っけるわけです。ってときに、どういう方法があるんだろうか、ってときに、戦闘機を製造している父親の近くにいる、ということがあったら機会があるだろう、というのが目論見で。ということで『ガンダム』を作ったってことがあるんで、僕にとって全部ほとんど体験論。
森田 そうすると割と戦後まもなくに太平洋戦争のこともずいぶん調べられていたんですね?
富野 中学から特に高校ぐらいまではまだ戦記もの読んでましたからね。だからそれは基礎学力なんてもんじゃなくてミリタリーオタクとしての常識です。
森田 そして実際体験された時期でもありますしね。
富野 そういう人たちも近くにはいなかったんですけれども、体育の先生が軍人上がりだったりするんです。特別なことでは一切なかった。だからその部分がいわゆるバックボーンを作ってく上で『ガンダム』の場合、実を言うとなんの苦もなかった。むしろ巨大ロボットものっていう嘘八百を作ってる方が、つまり「一科学者が発明して」とか、「資金もないのに巨大ロボットを製造しちゃいました」って嘘八百より余程自然だった。それだけのことです。
森田 映画を初めてご覧になったのはおいくつぐらい? 覚えてますか?
富野 それは覚えてませんけども、さっき美空ひばりの名前を挙げたおかげで、美空ひばりのかなり初期のものから見ることはしてました。それのときに父親が化学をやってたおかげで写真もやってたわけです。だもんで映画のことも多少知ってたので、美空ひばりが出ている『鞍馬天狗』を観ていたときに、ときどき変なとこで笑うんですよ父親が。「なんでそこで笑ったの?」「いや、ここのカットね、車で撮影しているんだよね」「えっ」「馬に乗ってる画のはずなんだけども、実写で撮影するときには車の上に乗って背景動かさなくちゃいけないだろ? それ可笑しくねぇか?」って笑う。うちの父親、鞍馬天狗を見てなくって、そういうものだけを見ている。技術論を教えられちゃった。
森田 そういう発想でお話になられたんだ、お父様が。
富野 たったそれだけのことしか覚えてないんだけども、そのことでつまり「映画を撮る」ってことの技術論、かなり面倒なことだと分かったから、小学校のときに。そうすると中学高校で映画を観始めるとかってことをしたときに、日活のアクションものとか分かり易いじゃないですか。逆にもっともらしい文芸映画なんか観てるときに「えっ、カメラをここにFIXのまんまで撮ってる」ってことの面倒臭さ、役者をこう動かしてる。中学3年にもなればそれは読み取ります。
森田 撮影する側の立場でもうご覧になってたんですね。
富野 勿論そうです。ですから本能的にそれができるようになって、高校三年間で良い成績もとれてないんで、入れて日大の映画学科、つまりどういうことかと言うと、芸術学部というのが日大しかなかった、当時は。だから滑り込めるのがそこだった。そういう発案なんです。
(CM)
森田 ここからは日大に入られたころのお話をうかがっていこうと思います。
富野 入られたころの話はあまりありませんが、大学四年間を通じてお話できることがあります。一般四年制大学芸術学部というのは日大にしかなかったんじゃないのかな、という気がしてます。その中で、映画学科ってのは更に特殊な学科でしたので、文芸とか絵画とかっていうのは戦前から当たり前にあったと思う。
森田 美大とか。
富野 映画学科ってとても特殊だったので、一番始めに映画学科のトップの教授という人がいたんです。当然僕はその人の具体的な名前を知りませんでした。在学中に判ったことなんで。サイレント時代から、日本人で初めてチャーリー・チャップリンのスタジオで半年ぐらいいたらしいのね。「チャップリン先生」って平気で言ってました。「え、この先生なんでこんなこと言うんだろうかな」ってのは大学時代に調べて判ったんだけども、間違いなくチャップリンスタジオにいて、どうも半年ぐらいそこで時間を潰していたらしい、ということだけは判るわけ。この人学生の前だけでは「チャップリン先生」って言う構造を見抜いて。だけどこの監督の名前、映画界では知らねぇぞ。つまり戦後作品を撮ってないわけです。こういう人が、こういう席につくのね、っていうことを教えられた。当然その人が2、3度講義をしたことがあるんですけど「しょうもねぇなぁ、こんな話しかできねぇんだ」っていうことと、ある意味チャップリンかぶれの先生だった(笑)。だからチャップリン作品がどのように優れているか、っていう説明を実を言うと聞いたことがない。「チャップリン先生の」(真似)。
森田 その先生のことだけ、作品じゃなくて。
富野 そう。作品論言えよ(机を叩きつつ)! っていうようなことで、映画学科で教えられるようなことってないんだよね。、技術論以外。だから、カメラを使って撮影をするんだ、こういうようなものが必要なんだ、ってことは教えられる。それ全部技術論なんです。作品を作るって創作だろ? もう一か月で分かりました。創作というのは絶対に教えてもらえるもんじゃない。ということが分かっちゃった。それだけのことです。
森田 大学時代に自主的にご自身で作られた作品はあるんですか?
富野 一本だけ8mmでサイレントで半年がかりで撮ったものはあります。それは15、6分のものだったんだけれども、大学四年間通して8mmで10分を越えるものを撮った奴は一人しかいなかった、僕以外に。そちらは逆にお金持ちだったんで、16mmで音付きで音楽付きで、自分が主演やってて。全部お金出してる訳だから。同護会の先輩も使って。「この野郎~」って思って。その格差を教えられたのは、実を言うと一番学習になりましたね。どういうことかと言うと、こういう風に撮った奴の作品って言うと、自主上映で、日芸の江古田祭で公開で見せてくれる。「『勝手にしやがれ』の真似したってしょうがねぇだろう」っていうのを見せられた。創作をするっていうのは本当に厳しいことで、「オリジナルを持てない限り、ゴダールの真似してお前が主役張ってたってしょうがねぇんだよ」っていうことを教えられた。一番の学びでしたね。
森田 そのとき富野さんが作られた作品というのはどういう様なテーマで作られたんですか?
富野 絶対秘密で口が裂けても言えません。喋りません(笑)。少なくとも奴のはゴダールの真似事。俺のはオリジナル路線でやってる。ただ問題なのは、僕の発想も良かったかというと、いやー、ちょっと酷いよねぇ。手狭にしかやってない(笑)。そうすると、例え8mmと言えども、映像作品にするっていうときにクオリティというのを要求されることが本能的に判るわけ。やっぱり役者志望の奴を使わなくちゃいけないとか、この程度で手打ちをしていたらダメだってことが思い知らされる訳。これはやっぱり学習として一番大きいですね。だから本当は間違っても実写に行けるんだったら、ここまで来たなら行っても良いなと思いつつ。僕が大学3年のときに映画五社新規採用一切中止。
森田 そういう時代だったんですか。
富野 だから(大学)4年は2年目ですよ。四年制卒業して映画五社に入れる奴ってのは余程のコネでもない限り入れない。だからなんです。虫プロが拾ってくれたっていうのは本当に万歳で。嘘でも電動紙芝居と言われている様なものでも、ロクに動きもしない『鉄腕アトム』でもね、そこで制作進行でもやらせてくれるんだったらば、フィルムを弄れるんだからまぁ良いか、っていう妥協はできた訳。妥協できたと同時に、僕が江古田祭やってる最中に虫プロが一度だけ四年制の新規採用のための面接試験をやるっていう三行広告を立てたの。それを母親が見つけてくれて。小田原で。「虫プロって会社よく分かんないんだけども、『虫プロ』って会社だから何かまんが映画でもやるんじゃないの」って。江古田の駅から三つ向こうが虫プロなわけ。だもんで、江古田祭の手伝いをやってる間に面接に行けた。それで間違ってそこで採用してくれたのが虫プロだった。それだけのことです。
森田 所謂今でいう就活みたいなことはほとんどないですか?
富野 江古田祭やって忙しかったの、大学4年で。夏休みには江古田祭に向けての出し物があったので、そのテーマを追っかけるために広島と長崎に行かなくちゃ行けなかったの。どうしてかと言うと、当時は原水爆禁止運動が一番盛り上がったときでした。大江健三郎も広島と長崎に行って、そのときのルポを出したのが『ヒロシマ・ノート』なんです。あの『ヒロシマ・ノート』は、僕は卒業をしてから読んだの。愕然としたのは、江古田祭のために傍目に見学したのが、大江健三郎は、作家は、これをこう書くか。この格差。やっぱりプロというもののレベル。本当ね、これは手が届かないよね。相手が大江健三郎な訳。虫プロに入社して一年目のときに「こいつには手が届かない」と思い知らされた。これ過酷ですよ。
(CM)
富野 僕は大学を卒業して虫プロに3月に入りました。卒業式の一か月前に虫プロに行くようになっちゃったのは、なんせ地の利が良い訳ですから。行けちゃった訳です。だけど行ってそれこそ一週間もしないうちに、『鉄腕アトム』って作品のオンエアが地獄だってのが分かった。週一で20何分の全部画が止まってたにしても4、500枚の画を作って新しい話を作んなくちゃいけない。僕が入ったのは一年目が過ぎてる訳です。ということは、『鉄腕アトム』のまんがの原作、殆ど使っちゃってる訳。だって手塚先生が月一で描いている連載の続き物があったりする訳。週ペースで1話ずつなくしてく訳よ。
森田 それで毎週やったらなくなりますよね。
富野 だからホンがないというのが一か月目の事情で分かっちゃった訳。それのときに一応制作進行で入った筈なんだけども、一応建前は演出助手なの。だから制作には関与しなくて良い筈なのが、そういう事情で周りにも人がそんなにいないとなったときには、スケジュール表も書く様なことが起っちゃう訳。そうすると「三か月後のここでストーリーがねぇぞ」と。
森田 どうすんだと(笑)。
富野 という様なことが起こる訳。現にライター6人ぐらいいたんですけども、全部が回り切らなくて。
森田 虫プロって当時何人ぐらいいらしたんですか?
富野 よく分かりません。
森田 出入りしている人もいるし。
富野 勿論それもいたんだけども、当時もう既に200人ぐらいいたんじゃないのかな。アニメーターも全部丸抱えでやってた訳だから。今みたいなリモートが一切ない時代ですから。尚且つ、『鉄腕アトム』の始まった翌年から『ジャングル大帝』っていうオールカラーを始められちゃった訳。そちらに『鉄腕アトム』を一年間メインで支えていたスタッフが殆どゴソッといなくなちゃった。まだ三か月くらいでメインスタッフになっちゃった。
森田 残ってる人は誰ですか(笑)?
富野 はい! 「シナリオライターは?」「『ジャングル大帝』に」「は?」。『鉄腕アトム』をやってくれる落ちこぼれのSF作家みたいになっちゃってる訳。文芸部はある訳、虫プロの中に。そこで一応シナリオは手当する筈なんだけれども、そこに混ざるのは僕な訳(笑)。そういう環境があったから、僕は生まれて初めて『鉄腕アトム』の絵コンテっていうのを二年目の中頃のときで。僕が初演出でやらせてもらった「ロボットフューチャー」(96話)っていう作品が、オリジナルストーリーなんです。シナリオがないんです。僕ぶっつけでコンテを切ったものを半パートだけ、「シナリオがないんだけども、このコンテあるんだけども」って、手塚先生が三日後に見てくれて。「富野くーん、はい。これ後半どうなるの?」「こんな話になる筈です」「うん、それでコンテ切ってくれる」即決でそれがオンエアされました。三か月で行く、そういう環境です。
森田 それ20代前半ですもんね。
富野 ということは、今言った通りの環境だったので、そういうことが出来たんだ。それはとても酷い環境で、本来許されるべき環境ではないんだけども、なんせまんが映画なんですよ。週ペースのまんが映画だから、TV局もなんのクオリティも……つまり担保にしてない訳。時間が埋まりゃ良いんだもの。そういう精神構造でした。
森田 当時はそんなレベルだったんですか。
富野 そういうレベルです。プロデューサーが一応TV局の担当プロデューサーに付く訳です。が、今言った通りです。まんが映画のプロデューサーなの。ですから社内に行って様子見ても、この人こうだよね、っていう様子が分かる。だけどその人が実際に現場に行くと録音監督までやってる訳(笑)。それに音を付ける効果マンは流石にプロな訳。声優さんも一応プロが演っている。プロデューサーとか録音ディレクターが素人な訳。それで『鉄腕アトム』は後ろ二年半をやりました。
森田 あの頃の『鉄腕アトム』なんて殆どのお子さん観てますよ。
富野 観てますけども、そういう環境でやってた。そういう環境でやりながら、自分でもそうは言いながら、馬鹿にしてるのが半分なんだけども、半分はすごいなと思ってたのは、大野松雄さんという効果マンが、アトムの歩く音を作ってる訳。一年半ぐらい経って、実際僕自身が(録音)スタジオに入って半年ぐらい経って、スタジオで聞くたんびに、本当この電子音を大野っていう人が作れた効果マン、なまじのものじゃないな、っていうのは分かった。現に大野さんという方はその後のキャリアを見てもかなり色んな仕事をやってらっしゃる方で。ご自身でもディレクターもやってらっしゃることで、映画を作るという基礎学力というのはなまじのものじゃないな、っていうのを教えられた。
森田 映像だけでなく音というものにもかなり活躍された。
富野 勿論。正直ゾッとしましたね。オンエアが始まった頃の『鉄腕アトム』って僕殆ど観てないんですよ。一、二度は観てはいる。観てはいるときのアトムの足音っていうのはすごいな、というのは分かってはいたんだけども。やっぱりスタジオで聞くとレベルの違い、これをやった、電子音で。その頃の電子音の加工の仕方なんか今みたいなシンセがある様な時代じゃない訳。一番僕がビックリしたのは、「ピコピコピコ」という頭とお尻、ちゃんと区切ってあるんですよ。それを切り貼りでやるテープで繋げている。
森田 それで繋げてやってたんですか。
富野 はい。この長さシャーッって伸ばして「はい、こっからここまでね。え、あそこにも要る? ちょっと待って」。20分待たされる。「はい、付けました」。
森田 そういう編集もして。
富野 当たり前です!
森田 えーっすごい。
富野 全部スイッチングで出来るってレベルじゃない訳。その頃のテープレコーダーも糊付けする両面テープの感触も覚えてるんだけども、あれをね、現場でやられてね。「はい、入りますよ」ってやられるのを見たら。それだけじゃないのよ。「はい風の音が入ります」とか3台くらいのテープレコーダーでちょんちょんちょんとやっていける。やっぱりね、『鉄腕アトム』が終わるまでは土下座です。ありがとうございました。だから何を学んだではなくて、創作をするってのはこういうとこから始めなくちゃいけない。作家としては大江健三郎を抜かなければダメだ。音を作るときには大野さんのあのレベルを超える様なものを比定しなくちゃダメなんだとか、そういうプランニングがね、打ち出せなかったら演出家にはなれないんだ、ってことを全部教えられる訳。それを毎週のスケジュールを追っかけながら二年半やらされたんだもの(笑)。
森田 しかしそれでよくフリーになりましたね。全部自分でそれを背負わなくちゃいけないということになるわけじゃないですか。
富野 ありがたいことに、週ペースで作っていくために、全部が全部自分がやってる訳じゃなくて、班体制になってるために、互い違いにやっている。そういうこともあるんで、ベタベタではないんです。少なくとも今みたいな事情で言ってる環境とは違いますね。現場感覚ってのはものすごい形で、スタジオの空気感というのも嫌でも教えられて。だって徹夜でやらされるんだもん。労働基準法とか関係ないんですもの。そんなことやったら穴があく(笑)。それだけのこと。それを突破するためにはどうすれば良いか、っていうことしか考えていなかったことでの鍛えられ方っていうのは、やっぱり苦にはなりませんでしたね。ただ重要なのは、今の若い方には本当に分からないだろうけども、苦にはならなかったんだけれども、実を言うと本当、苦にするくらい過酷だったんだよ。どういうことかと言うと、演出助手で入社した奴が、3人ぐらい落ちましたもん、一年半ぐらいで。
森田 辞めちゃったんですか。
富野 そりゃ辞めます。生き残りしか『鉄腕アトム』が終わったときにはいない、という構造になる訳。
森田 そういう世界ですね。
富野 そりゃシナリオでもそうだし、ましてアニメーターでもやっぱり何人かいなくなりましたね当然。だからやっぱり耐久力のあるスタッフしか残れない。だけどとても重要なことがあるのは、これを苦役だと思ってもらっちゃ困る、というのが僕が教えられたことで。労働というのを一般論的に言うと苦役だという風に理解されている部分があったり。それから社会学的に言っても労働ってやっぱり苦役だと、それから暮らしを立てるための労働でしかない。という価値論があるんだけれども、僕はそれに関しては基本的に大反対で。そういう所で訓練されることで学習したことの方がはるかに大きかった。この学習量があったおかげで、それ以後の自分の、つまりフリーになってもそれこそ食っていける様になれたということがあるんだよ。それはどういうことなのかと言うと、だからね、それくらいの労働をやって週ペースの仕事をやらされてるとね、今度はフリーになったときに、知らないプロダクションに行って、俺玄関で土下座できたもん。三か所くらいで土下座して「仕事くれないか」って。それのときに一番始めに馬鹿にされる訳。「虫プロだよね?」「はい」「『鉄腕アトム』が終わったとこでお前辞めたんだよね?」「はい」「『鉄腕アトム』やってる奴が演出できるの?」って。これです、他のプロダクションに行くと。「えっ、一生懸命作ってたんだけども、そういう評価かよ」っていうのを、フリーになってから突き付けられる訳、現場で! 「とりあえずじゃあコンテを一本切ってごらん。スケジュールこうだよ」何をやるかと言うと、スケジュール通りにコンテを納品するってことをやる訳。それでまず第一関門突破。その次に「う~ん、『いなかっぺ大将』では使えないけれども、こっちでは使える」、そういう評価を貰う訳。だから作品選ばずにフリーランスに仕事を出してくれるプロダクションに。
森田 なんでもかんでも来た仕事は全て引き受けていく感じだったんですね。
富野 だってそうしなければ食ってけないから。それだけのことです。それだけのことなんだけれども、50過ぎてから分かることがあるのは、やっぱりその下積みの部分とか、土下座して回るという部分を、苦役にしないで、食うためにしょうがないからやる、ってことで、仕事が来たら逆に言うと今度はこっちのものなの。今度はこちらがコンテに対して「お前らにゃクレームつけさせねぇぞ」っていうとこまで行きますもん。その両方を持ち合わせないと、だってフリーには仕事来ないもん。
(CM)
森田 毎回この番組では「NEXT STAGEへの提言」と題して、次の世代の主役たちに向けて伝えたいことをおうかがいしています。
富野 今言った様なこと、鷲掴みで分かれ! っていう言い方しか出来ませんね。鷲掴みで分かれという感触、これ本当に難しいんだけれども、なんとなく分かってる限り、やっぱり身には付いてない、ってことです。だから分かるしかない。この場合の「分かる」とはどういうことかと言うと、自分の身体で今度は再演することができる、というところに行かないと、作り続けるという習慣性が出来ないんですよ。だからやはり鷲掴みで分かった上で作り続ける、つまり忍耐力が要るってところにも行く訳です。だから一般教養論的な意味で言う……なんて言うのかな、教養論という訓示? 僕の場合には喋れない。だから「分かってくれ」と言うしかないし、そして現にこの程度の試行錯誤をしたけれども、酷い言い方をします、『ガンダム』しか作れなかったんです僕は。ということは高が知れてるでしょ?
森田 いやいやいや……。
富野 いやいやじゃないんです。出来る作家は手塚治虫です。
森田 あー……。
富野 プロっていうのはあれだけやれて、ようやくプロなんですよ。プロっていうのはそういうものであるべきだから。この歳になって思えるのは、半分謙遜に聞こえるのかな、謙遜じゃないですよ、やっぱり挫折感しかないですもん。威張ってられない訳。オフレコで言い易い言い方がひとつだけあるのを今思いついたんだけども。
森田 オフレコはね(笑)。
富野 オンマイクでは喋れません。だけどオンマイクでは喋れない例え話があるんですよ、って言うくらいに言葉遣いが出来る様になったんです。なってこれですからね、って話です。
森田 でも挫折ってのは大事なことなのかもしれないですよね。
富野 「失敗は成功の母」だって言いますよね。絶対に若いうちに失敗するってことはしといた方が良い。それに尽きます。ここんところある雑誌でも人生相談みたいなことやってて思うんだけども(アニメージュ連載『富野に訊け!!』)、いちいちいちいちくさくさする相談事や何かをいただいたりするんだけれども、その程度のことだったらいくらでもしろ、って言いますね。やはりそれに耐え忍んでいかないと、死ぬまでのある寿命、というものを全う出来ないだろうな。人生を全うするってやっぱり「死んでいける様に死んでいったのね、あの人は」っていう風な死に方を以ってして初めて人生を全うしたと言える訳で。戦争で殺されてしまうなんて本当にもってのほか、以前の問題でもある。という風に考えていたとき、全うに死んでいけるというのはどれだけ幸せなことなんだ、っていう風に思わなくちゃいけないんだけれども。今この話をしながら僕すごく気にしてることがある訳。「死ぬ」という縁起でもない言葉を使いなさんな、っていう世間の言葉がある訳。僕これが本当に嫌なの! 縁起でもないんじゃないのよ。全うに死ぬって話は悪いことじゃないんだからね。っていう話が、なんでこうまで忌み嫌う様になってしまったんだろうか。やっぱり人類史というものは良い死に方というのをしてないからなんじゃないのかな、という気はします。これがやっぱり教えであって、少なくとも創作を志そうと思ったら今言った様な言葉遣いぐらいは出来る様になっておけ。という言い方はあります。このことがものの考え方とか感じ方をね、かなり歪めてきてるんじゃないのかな。という気はしてますね。この話をするとまたちょっと時間が長くなるので止めます。
森田 そうですね。どうも今日はありがとうございました。
富野 とんでもございません。
森田 最後に、次の世代の主役たちに向けて届けたい一曲をおうかがいしたいんですが。
富野 すごく嫌な曲名を言います。『パタン・パタン』です。シャンソンです。「パタン、パタン~♪」という曲が大好きです。今発音した通りです。これで始まる。邦訳で言うと「聞きなれない嫌な音がする。なんなんだろうか、私の背中に張り付いてきている」。エディット・ピアフの曲です。そんなレコードがかけらるのならかけてみろよ(笑)。
森田 是非。聴いてみたいです。
富野 なので、穏当な曲名を言えば『もえあがれ』です(笑)。
森田 富野さん、どうもありがとうございました。
富野 いろいろとご迷惑をおかけしてすいませんでした。
森田 とんでもございません。楽しかったです。

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