本の旅人 10年4月号(No.174) 富野由悠季インタビュー

ついでに行った東京駅前の八重洲ブックセンターでゲット。

―― 「リーンの翼」は、舞台設定だけ見ればファンタジーに分類されるでしょう。けれども実際には、その底流に日本の戦後史を織り込むなど、非常に個性的な小説となっています。アニメーション監督である富野監督がこのような小説を執筆した経緯をまず教えてください。
富野 二十五年ほど前、「リーンの翼」というノベルスを角川書店から出させてもらいました。迫水真次郎という特攻兵が、異世界バイストン・ウェルで国興しの戦いに巻き込まれるという内容です。その後、二十一世紀になってから本業であるアニメで「リーンの翼」という作品を監督し、こちらでは現代日本の青年エイサップ鈴木を主人公に、老いた王となった迫水が相まみえる物語を作りました。今回の小説はかつてのノベルス版「リーンの翼」を改訂した一、二巻に加えて、アニメをベースにした「リーンの翼」に迫水の建国話を追加して三、四巻にまとめたものです。
―― つまり、三、四巻は単なるアニメのノベライズではありませんよね。アニメでは扱われなかった、戦後の日本の変転とバイストン・ウェルで王となった迫水の長い人生が丁寧に書かれています。
富野 理由はいくつかあります。まず、アニメ「リーンの翼」を単にノベライズしただけではつまらないというのが一つ。またノベルス版がある以上、それを受けるならエイサップではなく迫水を主人公にして描くべきだろうというテーマがあったのです。問題はそれをどう構成するかでした。単に時系列を追って迫水の半生を書いても長くなるだけです。これは技術上の難点ではなく、劇を構成する上での本質的な問題を含んでいました。そこを突破するアイデアを思いつくまでに一年ほどかかってしまいました。
―― そのアイデアとはどういうものだったのでしょうか?
富野 現在の日本のエイサップ鈴木と、バイストン・ウェルの迫水を交互に語るという方法です。このアイデアで大事なのは、エイサップ側の物語ではほんの数日しか経過していないのに、迫水のほうは五十余年が経過しているという部分にあります。たとえば、長い冒険の旅が実は一夜の夢だったりすることがあるように、あるいは遠い昔から現在までもが回想すると一瞬で思い出せるように、リアルとフィクションはきれいに分かれているのではなく、ある一点に輻輳して存在していると考えました。それを念頭に置いて、時間の流れ方が異なる現代日本バイストン・ウェルを交互に描くスタイルを採用したのです。エイサップが生きる現代日本が「リアル」だとすると異世界バイストン・ウェルは「フィクション」。リアルの中にフィクションを交えることで、迫水の半生を端的に描き出せると考えたのです。
―― 主人公の迫水は元特攻兵で直心陰流という刀の使い手です。若さあふれる戦いぶりでたたえられた迫水は、やがて年を重ね「ホウジョウ」という国の王となり、最終的には地上世界への進撃まで考えるようになります。富野監督は迫水をどのような人間と考えていますか。
富野 晩年の彼は周囲の反感を買っていますが、決して悪意の人間ではありません。むしろ真面目すぎるくらいです。これはおもしろいもので、小説を書いている時は、迫水という男はそれなりに視野の広い、洞察力のある男だというつもりで書いていました。でも書き上げて読み直してみるとそうではなかった。迫水というのはむしろ視野が狭い、猪突猛進する男だったんです。でも、だからこそ迫水はバイストン・ウェルでの白刃戦も生き延びることができたと納得しました。彼は目の前の敵のことと、自分が好きな女のことしか考えられずに死んでしまったよう男です。そういう人物だから、対立するニ部族間の中で王という御輿にのり、その立場を引き受けてその仕事を全うしようとしたのでしょう。個人的には決して好ましい人物ではないんですが、よくわかる人物になっていると思いました。……少しくやしいのは、そういう部分が読み直してみてようやくわかったということです。それなりにキャリアを積んでいるのだから、これぐらい自覚的に劇を構成することができてもいいのに、と思いますが、ひどいものです。
―― 富野監督はこれまでに多数のアニメ作品も監督されてきましたが、アニメを作る時と小説を書く時で、その発想方法は違うのでしょうか?
富野 いえ、違いません。僕にとっては小説を書くということも、アニメで物語を演出することも同じ考え方でやっています。大事なのは物語の構造を確定すること。構造とは、作品の中心にある背骨のようなもので、細部をそこに寄せていくことで作品がひとつのまとまりを見せるようになるものです。「リーンの翼」の場合は「生き物=生命体についての物語であること」。第三巻の冒頭、再びバイストン・ウェルに帰還した迫水が気を失った状態で鳥のさえずりを「雌とやりたい、やりたい」というふうに聞くシーンを思いついた瞬間に、これで「リーンの翼」は構造を手に入れたと思いました。
―― 第三巻では迫水が国造りをするエピソード描きつつ、一方で地上世界では朝鮮戦争東京オリンピックなど時代が移り変わっていく様子が対比されます。全編を通じて非常に印象的な部分ですよね。
富野 これはTVアニメ出身という僕の弱点といっていいでしょう。今回のバイストン・ウェルなり「機動戦士ガンダム」の宇宙世紀なり、物語を作るにはそういう“マンガっぽい”大仕掛けが必要になってしまうんです。ましてやドキュメント作家のように事実を積み重ねていく作業は苦手です。今回も歴史に即した部分は書くのが大変でした。僕は正確な固有名詞じゃなくて、モビルスーツといった、でっちあげた架空の名詞で作品を埋め尽くすことしか知らない人間ですから。もっともそういう“マンガっぽさ”にも効用はあって、そういう設定を使うと、今回のように戦後を点描するなどして、本質的なことを端的に表現できるのではないかとも自惚れていますけど。
―― 「リーンの翼」を書き終えて、手応えはいかがですか?
富野 そこのところは複雑ですね。お仕事がひとつ終わったなという感覚程度のものしかなくて、むしろ読み直してみると、自分の浅薄さが出ているという気持ちのほうが強く迫ってきます。集団作業のアニメと違って、個人作業の小説のほうがそういう部分を晒している感覚は強いですね。ただ、誤解してほしくないんは、この感覚は、僕程度の人間であっても不得手な内容であっても、仕事であればこれだけ頑張れるということの証明であるとも思っています。
―― 仕事とおもうからこそ自分にプレッシャーをかけられるわけですね。
富野 そうです。僕はこの小説がなければ哲学や社会の成り立ち、歴史につて勉強することはなかったでしょう。現代というものを理解しようとするとことなく死んでいったと思います。だから三年近く「リーンの翼」にかかわって、ようやく大学に入学したばかりのような知るべきことを知れた気分になっています。昔、大学に通っていた時は、こんなことなんて考えもしなかったからです。だからもし作家志望の人がいて「リーンの翼」を読むなら「こんなもんじゃない」って反発して、自分を磨いてほしいと思います。
―― 「機動戦士ガンダム」のノベライズをはじめ、数々の小説を書かれてきましたが、今回は久々の長編小説でした。
富野 いや、久しぶりもなにも、僕にとっては今回が初めての「小説」体験といっていいと思います。それ以前のノベライズ仕事とはまったく性質が違います。僕の作品の中で「リーンの翼」以外に「小説」と呼べるものがあるとするなら、最初に書いた「機動戦士ガンダム」ぐらいしかないでしょう。あれには「小説」に必要な「動かしがたい固有なもの」が含まれていました。そういう意味では「リーンの翼」はそれ以来の「小説」といえるかもしれません。
―― すると「リーンの翼」は第二の処女作ですね。
富野 ああ、そうかもしれません。
―― 今後、またバイストン・ウェルを舞台に小説を書かれる予定はありますか。
富野 いえ、あとに残っているのは些末な事象のことだけに思います。書こうという衝動が湧いてきません。もしこの世界に興味があるなら、みなさん、どうぞ書いていただいて結構ですよ。ガンダム・シリーズと同じです(笑)。