ザ・スニーカー00年06月号 スニーカー文庫版「∀ガンダム」完結記念インタビュー たかが“ノベライズ”にかけた富野由悠季の想い

「∀」成立の背景にあったもの

∀ガンダム』のノベライズを佐藤茂さんに任せた理由ですが、それは二つあります。一つは体力的にテレビシリーズのアニメを制作しながら小説を書けない、そう言う年齢になってしまったということです。もう一つは自分自身が思ったことなんですけど、僕程度の文章力しか持たない人間が小説なんか書いちゃいけないな、ということです。これが一番大きい理由。
確かに今までいくつかの小説を書いてきましたが、書くということが僕にとっては、とても苦しかった。そしてもう一つ、自分が書いた小説が売れているのかな? という大きな疑問があったんです。それで僕ていどの人間が書いちゃいけないと決めたときに、『∀ガンダム』のノベライズを任せられる僕以上の能力を持った人を捜したわけです。
捜す基準は、才能があるかないか、それだけでした。口はばった言い方をすると、アニメのノベライズを手がける人の、最低限のガイドラインを作りたかったんです。そんなこともあって、最初スニーカー編集部から紹介された3人の作家さんをお断りしました。その後、97年の第9回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した佐藤さんの作品を読んで、失礼ながら『最低限このレベルだ』と思いました。原作になるアニメを自分なりに咀嚼して、さらにその上に、佐藤さんなりの『∀ガンダム』を表現できる作家性を発揮することができるのだという意味です。
挿絵を萩尾望都さんにお願いしたのも同じような理由です。実はアニメのキャラクターデザインを安田朗さんにお願いして判ったことなんですが、ものすごく周囲の反応が悪かったんですよ。『今風』なんて言葉で定型化されたキャラに、どうしてこだわるんでしょうか。だから僕はキャリアのある、才能のある人の絵を見せつけたかったんです。
萩尾さんの絵と佐藤さんの文章、このふたつを合わせて『アニメ発のノベライズは“このていどのもの”なんかじゃない』、そんな“匂い”も感じ取って欲しかったのです。
――もし富野さん自身が『∀ガンダム』のノベライズをしていたら、どんな作品になったと思いますか?
富野 それは明快です。アニメをそのまま文章に書き起こします。『∀ガンダム』は僕にとって、過去の作品とは全然違う位置にあるんです。『Vガンダム』までの作品って、まず“ロボットありき”で、だからテレビで1年間放映された話の中には、半分くらい物語とは関係のない部分が含まれてるものです。
でも『∀ガンダム』にはそんなものありません。それに『Vガンダム』までの僕は、各話のストーリーも一人で作っている感じでしたが、『∀ガンダム』では物語の始まりと終わり、それにヤマ場は決めたけど、各話の中身はシナリオライターにお願いしました。
だから僕がもし『∀ガンダム』のノベライズを手がけたとしても、アニメとは違うものは書けないし、アニメに含まれなかった部分もないので、TVをなぞりますね。
佐藤さんに『∀ガンダム』のノベライズをお願いした時も、始まりと終わりとヤマ場はこんな感じ、とお話しただけです。その上で佐藤さんに、僕の話したプロットの中から「コレとコレを取るよ」とチョイスして、小説版を書いてもらいました。だから小説版『∀ガンダム』は、アニメの原作ではなく独自の小説になっています。そういう物を、僕の方で求めました。

言葉だけで世界を構築する能力

富野 以前から思っていたのですが、アニメのノベライズといわれているものの多くが、ただストーリーを並べているだけに過ぎないか、別物を書いてしまう傾向があります。
活字を並べて、ある世界を構築するという作業は、本当はすごく難しく、アニメがもとにあるからといって、それをただなぞってすむものではありません。
文章を表現するという技術は、かなりレベルの高いところにあるんだということが、自分で小説を書くことで判ってきました。
ただ何となく文章が書ける、何となく小説みたいなものが書ける、と思っているレベルでは、アニメのノベライズといえども書いてはいけないものだと思うようになりました。
――文章だけを使って世界を構築するのは簡単じゃないよ、ということでしょうか。
富野 文章というのは読んだ人の認識に直に触れるものですけど、映像は感覚的に感知されるだけのものです。だから読者の認識にしっかり届くような文章なり論理なりを持っていないと、小説は書けません。
映像は視覚から物事を感動させるわけですが、これはしっかり考えて内容を認識するよりも易しいかもしれません。もっとも、視覚だけで物語の内容を判らせていくための設計図を描くことは、とんでもなく面倒な作業なんですけどね。
単純に絵を4枚並べた時、そこからどんな物語を感じ取るかは見た人の受け取り方次第です。映像で意味を伝える手法、映像言語とでもいうものは、例えばその4枚の絵を見た時に、10人中8人とか9人が、同じ物語を思い浮かべてくれる、そういう絵の並び方なんです。
文章も、限られた“言葉”という情報を並べていくという意味では同じなんですけど、言葉は認識に貼りついてくる。
例えばここに僕の写真があったとしても、それを見ただけじゃ、どこにでもいうオヤジにしか見えないでしょう。でも『富野由悠季』という名前がポツンと書いて置かれていたら、それを読んだ人は僕という個人を認識します。だから、言葉というのは、その単語に込められた意味を忘れて使ってはいけないんです。
僕はどちらもやってみて、視覚から物語の内容を伝える方が面白いと思ったから、やっぱり小説家にはなれないなぁと思いました。
文章をいじくり回していると、全部心の中で作業しなくちゃならなくなっていくんですけど、僕はそれをやったおかげで、自閉症っぽくなったというのをすごく感じます。
もともと僕にとっては、文章を書く小説を書くという行為が、あくまでも映像を作るためのトレーニングでしかなかったんです。言わば、小説がアニメの企画書になっちゃっているんですね。
最初の『機動戦士ガンダム』の小説版を朝日ソノラマさんに書かせてもらったときから、それは感じていました。はっきりと言葉にできないけれど、自分の小説には、小説としての“艶”が見えないなと思います。
ただ状況を並べるだけじゃない、文章で表現された世界がギシギシと固いものじゃない小説というのは、“艶”が求められる媒体なのだと思います。文章に“艶”、表現に“艶”。そして、そういう“艶”を出すためには、言葉の持つ意味をしっかり理解して、使いこなせる人じゃないと出せません。だから、文章に“艶”がない人はシナリオライターにはなれても、小説家にはなれません。とても厳しい言い方ですけどね。
映像で言えば、『∀ガンダム』はその点うまくいったと思います。
1話を見た時、例えばそれがキエルなら、「もしもし」ってこっちが声をかけないと、彼女は向こうに用事があって、テクテク歩いて行ってしまう、そう感じられる存在になっています。そしてそう思える世界こそが本当のフィクションワールドなんじゃないでしょうか。
そういう映像世界を生み出せたのも今までのように一人で全ての物語を作ろうとするのではなく、僕は舞台を整える仕事に徹して、シナリオライターをはじめとするスタッフの仕事を信頼し、任せたからでしょう。
――それが『∀ガンダム』で行き着いた、富野さんなりの創作方法論ということなんでしょうか。
富野 今回初めてやったことなので、まだ僕の方法論と言うには早いと思います。ただ、テレビで放映するには、悪くないものができたんじゃないでしょうか。

多くの才能が集結して初めてできた「∀」

――『∀ガンダム』で固まった方法論について、もう少し詳しく聞かせてくれませんか?
富野 『Vガンダム』の頃は、各話を面白く見せること以外、何もできなかったんです。何をするにも考えるうちに煮詰まってきて、ドツボにはまっていく感触しかなかった。
それで考えたんです。僕は作家性がない、テレビアニメの総監督しかできない人間なんだから、それ以外の余計な仕事は一切やめないとな、と。それが今回の、佐藤さんにノベライズを任すようなシフトを組むことにもつながったし、監督以外の仕事を他のスタッフに任せるスタイルにもつながった。そしてその方が、一人で威張り散らしているよりいい結果をもたらしたように思えます。
フィールドワークとかスタジオワークって言葉があるんですけど、ひとつの作品全部を個人の発想/個人の表現だけで作ることは、スタンリー・キューブリックのような天才以外にはできないんです。
そして僕は、そういう力がないって見極めたから、『∀ガンダム』ではいろんな人の力を借りました。それがメカ・デザインのシド・ミードさんだし、キャラクター・デザインの安田朗さんもそうです。そういう人たちの中に、佐藤さんも萩尾さんも入ってきています。
ちなみにロボット物アニメの仕事で、今いったような名前の人たちを取り込むことができた作品ってまったくないでしょう? アニメ界のそうそうたるメンバーが集結した作品は一杯ありますけどね。
――アニメとは違う分野の人を集めたのには、理由があるんですか?
富野 作品を作る、一つのフィクションワールドを作る、もっと平たく言って“物”を作るというのは、本来、違うジャンルの人たちを集結しないと大きく広がらないんです。いわば異種格闘技戦です。
映画の世界を例に取ると判りやすいですけれど、例えば映画を一本撮影するには、美術監督とか衣装デザイナーとか、メイクアップアーティストや役者さんが必要ですよね。でも彼らは必ずしも映画が専門じゃない。いろんな仕事をして、いろんな経験をつんでるから、発想も広がるし技術も向上するんです。
――ひとつのジャンルに固執しているようじゃダメってことですか。
富野 『機動戦士ガンダム』というものが、まさにロボットアニメというジャンルにおいてそうでしょう。
20年間も、断続的だったとはいえ続いてきたんですから、それはそれでスゴイ部分はあるんですが、「でもそれはしょせん、ロボット物アニメのひとつでしかないんだよ」というところに落としておかなくちゃいけなかったんです。商売になるというだけで『ガンダム』というマーケットを維持しつづけた結果、ある世代に『ガンダム』という価値観を押し付けてしまった。そこには本来「ロボットアニメのひとつ」という程度の価値しかなかったのにね。そんな空気を、『ガンダム』の中から改善しなくちゃいけないっていうのも『∀ガンダム』を作る時に思ったことでした。だから最初から『ガンダム』らしい『∀ガンダム』を作るつもりはなかったんです。とにかく、物語を作ることに集中したかったので、俗にいうメカ展開への気配りにまで手が回らなかったのです。
商売という意味からいえば、ものすごいハイリスクなことをしたという自覚はあります。ありますけど、やっぱりやってよかったなということだけは言えます。
ただスポンサーあっての仕事だからそれこそ「作品創りとは何なのか」というポリシーを持っている人でもない限り、この次にロボット物アニメの仕事を貰えるかどうかは判らないので怖いですよ。
来年の暮らしをどうしようかって思うこともあるけれど、でもやっぱり『∀ガンダム』を作ったことを後悔してないです。むしろ『Vガンダム』の時みたいに、スポンサーの都合だけが優先するという現象を見て、気持ちが悪かったことに比べたらずっとイイ。当時はそういうスポンサー優先の制作体制に殺されてしまうと、本気で思ってました。
それに僕は『∀ガンダム』を機に、この手のアニメの作り方も変って行くと思ってます。これまでの、アニメファンが好きそうなものを並べるだけの作り方っていうのは、そろそろ止める時代が来たんだと気付いて。もうちょっと気持ちのいい、物語が物語として実感できる作品、同業者だけで固まって作るんじゃない作品を作っていこう、というふうになっていくと思っています。<3月某日サンライズにて>

富野由悠季全著作リスト 富野コメント

機動戦士ガンダム

それまで、テレビアニメ発のロボット物小説というものがなかったので、そういった物もあり得るんだということを示したかったんです。自分的にはその目的を達した1巻だけが僕の小説で、2巻/3巻はあまり確固たる評価を持ってません。

機動戦士Ζガンダム

機動戦士ガンダム』の小説版でテレビアニメ発のロボット物小説がビジネスになると認められたので、今度は編集側に僕の思っている通りの構成と分量をやらせてもらいました。それがこの作品です。

機動戦士Vガンダム

テレビアニメの方が、完全にモチャの宣伝になってしまったので、その意趣返しを小説版でやったようなものですね。せつない抵抗と言われればそれまでですが、個人的には『V』の小説版、かなり好きなんですよ。

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア(ベルチルとハイスト)

逆襲のシャア』は角川書店版と徳間書店版のふたつがあるんですけど、実はよく憶えていないんですよ。仕事上のつきあいが広がって、どちらも断れなくなってしまった。仕事が分散してしまったものだから『逆襲のシャア』という作品に対しては、固まった印象が残ってないんで、困ってます。

機動戦士ガンダムF91

これは完全なビジネスでした。新しいガンダムをやるんならこうでしょう? という商業戦略上に生まれた作品です。この時期は小説を、商売と割り切って書いてました。

ガイア・ギア

これはもう、僕ってヘタだなプロじゃないなー、という自分を発見した、振り返りたくもない作品です。『閃光のハサウェイ』で小説の作法を少しは憶えたかな? と思ってたんですけど、おごりのなれの果てですね。

伝説巨神イデオン

イデオンに関しては鮮明に憶えてます。3巻で完結させるスタイルを確立させたこととか、ロボット物小説をビジネスとして離陸させた作品だったんじゃないかとか、自分なりの自惚れはあります。それに「ガンダムより実写になるね」と評価してくれた人がいたのが嬉しかったですね。

ファウ・ファウ物語

小説は、自分の中で余暇に書くものだと覚悟して書いた作品です。けれど頑張ってもファンタジー作家になれない自分に気付いてしまった作品です。だからファンの方には申し訳ないことをしたな、という懺悔の気持ちがものすごくあります。

機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ

人の話を書きたい、と思った時に、ガンダムのレギュラーキャラの中で、ブライトとハサウェイが残っていたから、ちょうどいいと思って書いたんですよ。実はこの作品ではじめて、小説の書き方、作法を勉強したという思いがあります。

オーラバトラー戦記

これは全部を一度書きなおしてみたい、と思うくらい、執着してます。ちょうど僕が、商売として小説家になれるかな? と思っていた時期とリンクしているので。もう一度だけ、あの時の匂いを思い出せるんじゃないかと想像してるので、死ぬまでにまとめてみたいです。物語としては破綻してるんですけど、でも全体をリファインすることで『オーラバトラー戦記』を再生させようと考えていることは確かです。

リーンの翼 バイストン・ウェル物語より

これは『オーラバトラー戦記』を作るベースになりました。また『イデオン』の次に書いた作品で、全然違う物語の切り口を見つけようと思って書いたものでもあります。ちょっと恥ずかしいところがあるんで見返したくはありませんが、僕にとって、とても大切な作品です。

ガーゼィの翼

この時期、僕は病気を患ってまして、これはリハビリのための仕事でした。現実の世界をたぐりよせるための命綱。だから作品として鬱屈とした物になってしまったんですが、書かせていただいたことに感謝しています。

王の心

これも『ガーゼィの翼』と同じです。病気を患っているのに、病気じゃないんじゃないか? と錯覚して書いてしまった。これを読むと、もしかしたらうつの最たるものがコレじゃないのかって匂いがするはずです。こういうものに手を出しちゃいけないって思えて悔しいですよ。若い人には読むことを薦められないですが、本能的に好きですね。

アベニールをさがして

これはジュブナイル系の作品を目指そうとしてました。そういうのも書けるんじゃないかと。でもこれもやっぱり病気の時期に書いてたから、どこか病んでいる。ただ、精神が不調な時にはとんでもないアイディアを産むことがあるんです。実は『アベニール』で考えたい他アイディアの一部は、『∀』を膨らませる要素にもなってるんです。

シーマ・シーマ

時期的には『逆襲のシャア』の後。今までとは違う切り口で書いてみたいというのもあったんですが、うまくできませんでした。やっぱり『逆襲のシャア』でその時期溜め込んでた物全てを出し切った後でしたから。

破嵐万丈

この作品を書いて、ひとつだけ判ったことがあります。個人で手がけるんじゃなくて、チームでやるべきものを、自分が作家になれるかもしれないってことで抱え込んでしまうと、肝心の作品そのものがつまらなくなる。これは、そんな理由で損をした作品でしたね。

だから僕は…

この作品に関してはノーコメントです。全部がプライベートなものですから。今この作品の2作目に相当する『∀の癒し』を書いているところです。

密会

ファースト・ガンダムのダイジェスト版なのですが、ニュータイプ的な感覚の表現を恋愛感情そのものに置いて、普通にわかるものにしました。ヒロインの前身を追加しながら物語を圧縮できて、好きなものになりました。