NT14年9月号 富野由悠季インタビュー

富野インタビュー

――「Gのレコンギスタ」は「∀ガンダム」以来15年ぶりのテレビシリーズになります。
富野 新しくやるからには完全に脱ガンダムをしなければいけない。モビルスーツを登場させながら脱ガンダムするという挑戦ができるのは世界中に僕だけしかいないわけで、難渋もしたけどどうにかできたと思っています。こんなにモビルスーツが出て、タイトルにもガンダムってついてるのに脱ガンダムなんて信じられないだろうけど、なめんじゃねぇよ(笑)。
――なぜ脱ガンダムをしなければならないのですか?
富野 「ユニコーン」までのガンダムシリーズの全系譜は知らないけど、すべてがファーストの延長線上でつくられていることは想像がつきます。どんな偉そうなこと言っても、何をやっても、結局、ニュータイプとは……みたいなことに行き着くわけで、そういう部分を深く深く触っていっても、20世紀の現代文学と同じように自己撞着に陥る物語にしかならない。それは「Ζガンダム」をつくっているときにすでに気がついていて、「∀ガンダム」で確信したので、その以後のガンダムに僕はまったく興味をもてなかったんです。物語の各論のなか、主義主張を展開して、コアな客がかってに納得しておしまいというのは、文学ならいざ知らずアニメという媒体を使ってする表現ではないだろうと考えました。アニメというのはもう少し外を向いている表現媒体で、そのエンタメ性を考えたら、「進撃の巨人」ではなく「ワンピース」や「アンパンマン」の方が真っ当なんです。ガンダムはいいにつけ悪いにつけ高度成長してしまった。この場合の高度成長というのは日本の高度成長と感覚的にぴったり当てはまります。経済が高度成長して果たして世の中は豊かになったのか? そのあげくに安倍政権が生まれ、今のような世の中になってしまう。それが人のつくる社会というものでしょう。そこになんの夢と希望がある? それがガンダムという作品だったんじゃないかと考えたのです。アニメってそういういものじゃないだろう「ドラえもん」的に継続していく作品もあるわけで、それらはガンダムのような高度成長のスタイルをとってるわけではない。そういうことを「∀ガンダム」で確かめてしまったから、それ以後ガンダムをつくる気がまったく起こらなかったのです。なのに他人は一生懸命つくっている。どうしてかというと、それがビジネス、大人の仕事だからです。そういう大人の仕事をやめようと思ったんです。それが脱ガンダムという言い方になっています。
――ということは、「G-レコ」はガンダムというよりも「ワンピース」的な世界なんですか?
富野 ただ、オリジナルとして興すんだから「ワンピース」のようなマンガにするわけでにはいかない。それでガンダムワールドを使うしかなかったわけだし、僕には使う権利もある。が、脱ガンダムするのにガンダムワールドを使うのは一見矛盾していると見えるけど、それに成功したかもしれないと思っています。なぜそんなことができるのかというと、アニメだから。こういう切り口を今までのアニメ制作者やSFのつくり手はもってなかったけど、アニメの性能ってとんでもなく広いという証明にもなっていると思います。
――それはガンダムをつくった富野監督にしかもてなかった切り口のような気がします。
富野 でも、これを実現するには、ひとりの作者が考えるだけじゃだめ。「ユニコーン」に関して評論家の宇野常寛さんが指摘してるけど(ブログ注:ダ・ヴィンチ寄稿等のことかと思われる)、あれは結局作家がガンダムをいじり回してるだけと教えてくれました。「G-レコ」に関しても最初の2年、シナリオを5、6話書いた段階ではガンダムを引きずっていて、にっちもさっちもいかなくなって、もうやめる! ってとこまで行きました。ただ、そのときに「Gのレコンギスタ」というタイトルだけは決められた。これはガンダム復権、いわば国土回復運動なんだと決められました。だとしたら、今までのガンダムを継承しては実現できない。復権するには全否定か逆征服をしなければいけないと考えました。
――そのためには何が必要だったんですか?
富野 ガンダムはリアルロボットものと言われているじゃない。その“リアル”の部分をもう一度考えようと思って、手を付けたのが宇宙エレベーターです。僕は宇宙エレベーターが実現可能だとは思わない全否定の人間なんです。なのに宇宙エレベーターに触ったのは、実際にリアルだと思われている技術開発が正気のさたじゃないということを証明するためなんです。宇宙エレベーターだけではありません。技術開発者なんてほとんどみんな正気じゃない。なぜかというと特異な才能をもった人だけが発見者や発明者になりうるから。発見だけならそれほど社会に害はないけど、発明というのは新しい技術を手に入れて、それを社会に下ろしていくことで、そこには強い倫理観が必要になってくる。その覚悟をもった発明者がいるのだろうか。わかりやすい例を挙げれば、ノーベルはダイナマイトを発明したとき、これが戦争に使われるなんて思ってもみなかったんですよ。ノーベルは、こんなにも破壊力がある火薬が安全で扱いやすくなったら戦争なんてなくなるだろうと本気で考えていたんです。この技術開発者の倫理観は、科学技術が他人に渡ると絶無になってしまう。ノーベルの予言は10年もたたずに打ち破られ、ダイナマイトは戦場で使われるようになった。つまり、技術者が善意で発明したものでも、それが一般の手に渡った瞬間、とんでもない使われ方をしてしまう。そういう事例はは、ダイナマイト以降にもいっぱいあって、それが技術開発というものが抱える大きな問題点なんです。僕はそういう話をアニメから地続きでしたいんですよ。でも、ガンダムではそれができるようでできなかった。
――なぜできなかったんですか?
富野 スペースコロニーというのはあまいrにも夢物語の設定過ぎるんです。ガンダムは物語の底支えがあったから、今までのロボットものに比べたらなんとなくリアルなんじゃないのというふうに受け入れられ、モビルスーツのデザイン性の高さで市民権も得られた。ここまではまさに「ワンピース」的な支持のされ方で、観念的なんですね。もう少しリアルに落とさないと僕のやりたいことはできないし。リアルに落とすことで脱ガンダムできるんじゃないかと思った。だって、「G-レコ」のインタビューってだけで、こういう話がバーッとできるんだから。
――つまり、宇宙エレベーターを設定に組み込むことで、脱ガンダムの世界観を構築することができたわけですね。
富野 そう。「G-レコ」では宇宙エレベーターキャピタル・タワーという巨大な構造物として描いています。そういうものを映像化することで、これはアニメだからできることで現実には不可能なんだと訴えたいのです。地上100mほどの高さのワイヤーを行き来するゴンドラの試作品の実験を見学しながら、宇宙エレベーターでは、ゴンドラを連結させて列車のような形の交通機関として成立させなければ、宇宙エレベーター規模の巨大な建造物は建設できないということを実感したからです。「G-レコ」ではクラウンという直径60mの王冠型の車両がいくつも連結してワイヤーを昇降していきます。ガンダムワールドを使えば宇宙エレベーター交通機関なんだということを簡単に表現することができるんです。では、現実にそういう交通機関が実現可能だろうかといえば、宇宙エレベーターをつくるためには静止軌道上に衛星を打ち上げ、そこからワイヤーを下ろしながら、バランスをとるために上にもワイヤーを伸ばしていきます。地上から静止軌道までが約3万6千kmです。この距離をワイヤー一本で繋ぐんですよ。さらに上方には倍以上の長さのワイヤーを伸ばす。それが宇宙エレベーターなんです。こうやって地球儀にヒモをくっつけてみると、どれほどの長さかわかるでしょ。こんな物量を使ってエレベーターのゴンドラ一台を動かすには、交通機関として成立できる意味がなければ、投資さえできません。
――確かにこれは相当な距離ですね。
富野 それをコンピュータ上の画像だとか理論上の数字だけで実現可能だと考えるのが科学者や技術者なの、実際、宇宙エレベーター協会の集まりで、静止軌道からのワイヤーがたわまずに直線で地球まで垂れ下がるのかという疑問を投げても、きちんと反論できる人はいないからね。地球は秒速500mで自転しながら秒速30kmで公転してるんですよ。ものすごい速度で動いている地球とワイヤー一本で安定的につながっていられるなんてありえないでしょ? 加えて太陽や月だってあって、重力場の揺らぎもあるわけで、その全部を計算していけるのか? キャピタル・タワーには人工衛星が145個ついています。先端まで行くのに5日くらいかかるから駅的なものがなければいけないので。これだって大嘘で、ガンダムワールドでなければ浮かんでいられない。ミノフスキー理論といったうその部分がないとこんな巨大な構造物が維持できるわけない。ということは現実に引き戻すと、宇宙エレベーターなんて不可能なんですよ。だからもう、そういう話はやめようよということを「G-レコ」を使えばスパッとできるんです。
――技術の進化が諸刃の剣だということは、監督が一貫して訴えづつけているテーマでもありますよね。
富野 ごく最近驚いたことがあって、新しいウィンドウズではあるメールが再現できなかったんですよ。で、XPで試したら出てきた。なぜかと思ったら、そのメールはテキスト形式だったのね。これは大問題でしょ。今や住民票とか戸籍謄本とか公文書が全部データ化されてるわけでしょ? それがハードが替わったせいで再現できなくなったら、訴訟問題ですよ。公文書まで全部マイクロソフト支配下に置かれることになるわけで、こんなの許されることじゃない。技術が社会と接点をもったとき、もっと言うとインフラになったなら、一社の都合でどうこうできるものではなくなる。そういうことを理解したうえで技術開発をしているのだろうか。技術の進化が果たして利点だけなのかというのは、われわれは身をもって何度も体験してるじゃないか。そろそろ気づけよって話です。「G-レコ」では技術の進化をタブーにしています。それはなぜかというと……ってこの話ができる。「G-レコ」抜きでこんな話をしようものなら、富野さんは年寄りだからで終わっちゃうでしょ?
――宇宙エレベーターによってリアルな技術開発との接点ができて、「G-レコ」から現実への回路が生まれたわけですね。
富野 こういうものを作品の中にちりばめておいて、10歳くらいの子供の頭に少しでも引っかかれば、10年後の未来につながるかもしれない。でも、「ユニコーン」までのガンダムだと絶対にそれは起こらない。リアルロボットものではなく、「G-レコ」の世界のリアルをきちんとつくり上げてるからこそ生まれるものなんです。フォトン・バッテリーというこれも嘘八百の設定をつくることでエネルギー論も語れます。フォトン・バッテリーは光を圧縮し、ため込むバッテリーで、そういうものがないかぎり宇宙開発なんてできないんだよということを逆説的に語っているわけです。そういう種を劇中に埋め込みながら、それを10〜12歳くらいの子に見てもらえる作品にするために、終末戦争もののような陰々滅々した物語ではなく、ベルリとアイーダの単純な冒険譚にしました。そして、それをさらにエンタメにするために韓国ドラマお得意の設定まで使ってみせる。ベルリとアイーダは実は姉弟で、別々な場所で育てられた2人が出会うところから物語を始める。主人公が年上のヒロインを好きになっちゃうけど、実は姉ちゃんだった……というベタな展開に、さらに記憶喪失までも乗せちゃう。ラライヤの設定がそれです。アニメだって芸能なんだから文句あるかって(笑)。
――つまり、物語に関しては王道のエンタメをやろうということですね。
富野 そうです。月の裏側にはトワサンガっていうスペースコロニーがあって、地球では禁制化されている旧来の技術を保有し、フォトン・バッテリーを地球へと供給している。フォトン・バッテリー自体は金星の衛星にくっついたリングワールド、ビーナス・グロゥブで製造されています。1年に一度、トワサンガから宇宙船でフォトン・バッテリーを運んでくるんだけど、その宇宙船のデザインはかなりおもしろい。今話したような切り口だからおバカなデザインで、従来のガンダム系の宇宙船とはまるで違う。しかも色はピンクや赤や真黄色だからね(笑)。リアルロボットものからの離脱を含めて考えていくと、こういう宇宙船が登場してもいいくらいの物語の強度が必要で、そのためにはベルリとアイーダの冒険譚にしなくてはいけない。これはコンテをやって初めて気がついたんだけど、「G-レコ」ってロードピクチャーなんですよ。地球から月、そして金星へと主人公たちがほぼ一直線に旅をして帰ってくる物語。ただのロードピクチャーだからこそ楽しくつくらなければいけない。そういう意味では大事なところを触れたなと思うし、アニメとしてのエンタメにできると思う。
――ほかに細かな設定等で、「G-レコ」だからやれたみたいなものはありますか?
富野 これはパッと見じゃ気づかないと思うけど、かなり重要な点。パイロットスーツのファスナーがお尻を通過して腰まで伸びてます。なぜか? 今回のモビルスーツ、すべてにトイレがついてるんです。実際、トイレがなければモビルスーツなんて使えないんですよ。宇宙空間という特別な場所にいて、下手したら2、3日閉じ込められちゃう場合もあるんだから。それは20年前から気になっていたんだけど、宇宙服がそこまで開くのはまずい。アニメでそこまで見せる必要はないんじゃないかという大人のもっともらしい理屈に負けて決断できなかったんです。でも、やってみたら芝居がおもしろいんだよね。そういうシーンを子供が見て、なんだこれって引っかかってくれるかもしれないでしょ?
――「G-レコ」ではテクノロジーが禁制化、神聖化されて宗教になっています。そこにはどういう思いを込められているのですか?
富野 僕自身は日常生活を便利にしていくためにこれ以上の技術の進歩は必要ないと思っています。ただ、技術をタブー化し、規制するためには理念だけでは無理だと思うんです。宗教レベルに引き上げなければ、それは不可能でしょう。宇宙エレベーターを運用するのがキャピタル・タワー公社のようなものだとガンダムワールドになっちゃうので、スコード教という宗教を設定して、それがキャピタル・タワーの後ろ盾になっていて、宗教という権威が宇宙エレベーターという技術を維持しているというつくりにしたほうが、物語世界を広くつくれるんですね。そして、スコード教を設定に入れ込むことで宗教の話もしやすくなる。正面切って宗教を語るとものすごくめんどうくさいことが起こるけど、キャピタル・タワーを維持してきたスコード教というのはねというロジックにしておくと、「G-レコ」から宗教を語ることができる。
――「G-レコ」の設定がすべて現実の諸問題を語る材料になりうるというのは、すごいなと驚きます。フォトン・バッテリーというものの正体も、どういうふうに製造されているかもわからないけど、それで便利に暮らせれば問題ないというのも、かつての原子力発電に対する庶民の感覚ともリンクしますよね。
富野 そういうふうにぼんやりとでもかんじてくれればいいんです。実際に光子のエネルギーが使えるかどうかなんて、そんなことは知ったこっちゃない。本来、無限エネルギーなんてありえないし、そういう技術の裏に張りついた危険性を語るためにも、それを代弁する設定が必要だということです。安田朗君がG-セルフをデザインする際、アイコンとしてもフォトン・バッテリーはとてもいいと言ってくれたことにも背中を押されました。G-セルフが積んでるくらいのフォトン・バッテリーがあれば、各家庭は1、2か月生活を維持できるというような配給論もわかるし、フォトン・バッテリーの出し入れで表現できるから、すごく便利なんですよ。そしてフォトン・バッテリーがどれほどスゴいかを示すものとして、ビーナス・グロゥブに月を建設しているというシーンもできれば入れたいと思ってる。月の大きさの中にフォトン・エネルギーをため込む。その巨大なエネルギーをどう使うか……地球を隣の若い銀河に飛ばしちゃうんです。
――とてつもない話ですね(笑)。フォトン・バッテリーを製造しているビーナス・グロゥブというリングワールドもすごいです。
富野 直径100kmのリングで、中は水深150mの海があります。なぜ海があるかというと、そのくらい地球に似た自然環境じゃないと人間は宇宙空間では暮らせないんですよ。それを今までのSFは無視してきた。だから、このくらいのスケールは僕にとっては最低基準。同時にロードピクチャーの冒険譚だとしたら、行き先にこのくらいのボリュームのものがなかったら意味がない。この設定はガンダムワールドの延長では出てこない。ここまで嘘八百をつくためには完全にガンダムワールドから離れなければならなかった。ガンダムだってSFなんだから地続きでここまで行けるんじゃないかというのは大嘘で、ガンダムにとらわれた瞬間、つくり手はリアルな地平しか想像できなくなるんです。
――ここまでやっちゃうとリアルロボットものじゃなくなっちゃうという……。
富野 そう。だからこれは思いつかない。僕自身、月の裏側に行くところまでは簡単にできた。でも、そこから先に行くのに1年くらいかかりましたね。そして、ここまで行けたときに初めて、「G-レコ」は大丈夫だという手ごたえをつかんだ。そうなったらもう、フォトン・バッテリーを月の大きさにしちゃえっていうところまで簡単に行ける。じゃあその目的は? 出口はどこだって考えたら、地球そのものを動かしちゃおうっていうところまでの飛躍ができる。そういう出口を設定できないと自己撞着、自己閉塞に陥るんです。ただ、フォトン・バッテリーを月の大きさにまでするには、「G-レコ」の世界でもあと400、500年はかかるだろう。その間に地球そのものを動かす方法をその時代の人たちが考えてくれればいいんです。今の自分では考えつかないという謙虚さはなければいけないんでしょうね。理系の人間には、その謙虚さがないと感じるときがあります。われわれの頭の中にあるリアリズムの想像力なんか高が知れてるんだから、そこで細かいディテールを追求していくのはもうやめよう。今回は、種をまくという仕事に徹した。それが「Gのレコンギスタ」という作品なんです。
――そういう世界観をつくり上げるのに、これだけの年月がかかったということですね。監督は現場を離れている間、いろんな人たちに会い、話を聞いてきた。そういうものがすべて、この「G-レコ」には詰まってる気がします。
富野 そうですね。よっぽどの天才でないかぎり、想像力には限界があるんです。僕は凡俗でしかないし、愚民の一員なんだから、いろんな人の考えを知り、そこから何かを見つけていくしかないということで、とにかく、ようやくここまでたどり着きました。2クールという呎でこの世界を表現すると、帯に短したすきに長しの部分が間違いなく露見するでしょう。そういう欠陥もわかっています。でも「G-レコ」は種をまくことが大事なんだという覚悟を決めれば、これでいいのかなと思っています。

月サイズのバッテリーは19話で言及。

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