ザ・スニーカー95年春号 富野由悠季インタビュー

――富野さんは、アニメーションの演出をなさっていて、さらに小説の分野でもご活躍中ですが、シナリオと小説というものを分けてお考えなのでしょうか。
富野 僕は演出をする行為とシナリオの事、小説の事は、ほとんどイコールだと思ってます。それぞれの媒体の得な部分と損な部分、不自由な部分と不自由ではない部分というのがあるので、それを使い分けるという意味では、シナリオと小説を書く事と、演出をする行為は違うと思っていますが、概念的には、僕の中でこの三つの仕事は一つのものだと思っています。
僕の中でシナリオも小説も同じようなものだととらえているのは、基本的に僕が演出サイド、つまり、視覚媒体を通じて物を表現するという訓練をしてきた人間だからだと思います。小説にしてもシナリオにしても、その表現のためのアイディアなりコンセプトなりを手に入れるものだという想いが強すぎるのです。そういう事が、小説もシナリオも一緒だと言わせてしまっているんですが……。
――富野さんが演出されたアニメ作品『聖戦士ダンバイン』や小説『リーンの翼』などのバイストン・ウェルを舞台にした作品や、特に今回の新刊『王の心』にも言えると思いますが、人の持つ“情”や“念”のようなものがキーになっていると感じるのですが。
富野 言ってしまえば、新しい物語空間を創ろうと思っていたわけです、初めは。でもそのうちにだんだん考えが変ってきました。
いわゆる“ロボットもの”の演出をやっている時に感じていた不足感の中に、人の“情”の部分とか生身の“情”の部分にどうしてもさわりきれないというのがありました。ロボットという物体やキャラクターとか背景の精神構造が物語の表現として邪魔をするんです。簡単に言えば、ロボットを出しておけば済んでしまうような。
そのような“ロボットもの”という枷というか、枠の中で書けなかった、自分が一番書きたかったものを書ける劇空間を、今回やっと手に入れたという感じがしています。
――富野さん自身は、そういう“情”や“念”、“気”などについて、どのようにお考えなのでしょうか。
そういう物語が多くなってきた事には、たぶん、僕自身が“念”や“気”のようなものが大事であるという事を、基本的に信じているのと、実はどこかで信じていない、という二つの考えを持っているからだと思います。僕自身信じていないから、信じたいと思って書き続けているという事ですね。でも、今回この『王の心』を書いていて、そういう事が信じられるようになってきたと思っています。
“念”や“気”というのは、ある部分宗教的な心にもつながってくる事もあるのだろうけど、それがどうも旧来言われているような宗教論ではない形で、現実世界を支配している部分や、覆っている部分があるのではないか。大仰に言ってしまえば、新しいエネルギーシステムにまで関与するレベルでの、人間の“気”や“念”の力はあるのではないかという事を、今感じて、そう信じはじめています。
――今回『王の心』では、主人公とも言えるキャラクターが、死んでしまうところからはじまりますが……。
富野 構造そのものを「語り」にしたかったのです。物語の構造自体が、“霊”や“気”であるとか、宇宙を支配している絶対的な力とかを、存在しているのだよという事を、『王の心』の構造で語らせているつもりです。
“死がはじまり”という状況は、読者それぞれのとらえ方はあると思います。これが一つの輪廻転生のありようなんだというふうにとらえて見ていくのか、たんに霊界は存在するというふうにとらえて見ていくのか。いろいろな解釈があってもいいのですが、『王の心』で示したこの世界のあり方、どうせ死ぬんだから、生きている間は好きにやればいいんじゃないかと言えてしまうほど、生きるという事は簡単な事ではないし、無責任にやっていい事ではないのではないかという事を、この物語では、一番最初に主人公を殺してしまう部分からはじめてみたわけです。
――富野さんの作品を読ませていただいていつも思うのは、キャラクターの名前がとてもユニークであるという事なのですが。
富野 名前をつけるのは大変ですよ。ファースト・ガンダムアムロという名前を見つけるまで、それこそ五十音表とのにらめっこで、二、三カ月かかりましたもの。それで今は、こういう物語にしたいという時に、その物語世界の原典を探すようにしています。
ところが今回、本当に人間というのは名前に縛られている動物なのだろうか。そうでない部分が絶対にあるはずで、第三者が名前をつけようがつけまいが、その存在というものはあるのではないかと思って、主要な人物以外の名前をつけなかったという事をやっているのですが、かなり存在として鮮明に浮き出てきたんです。これはうれしかったですね。名なしのゴンベエじゃない、存在として確固としたものであったんじゃないか。そういう存在が世界を支えているんだという感じが出せたんじゃないかという手応えを感じています。
――富野さんが生み出した様々な作品を見て、少なからず影響を受けたという人はたくさんいると思いますが……。
富野 僕は昔からいろいろなアニメ作品にかかわりましたが、過去の作品の責任をとているヒマがない。次のものを見つけたいと必死なのです。だけど、一つひとつの作品で残したものがあって、それを次世代の人が受け止めてくれているその人たちが、それをスプリングボードにするのか、全否定をするのか、どっちでもいいんです。ただそういう部分でつながっていく人の関係というのは、まさに『王の心』の中で、死んでしまった王が、今度は自分の血縁たちを見ていくという構造と、基本的に同じではないかと思っています。
だから、読んでくれたみなさん方が、この物語をどうとらえてくれてもかまいません。少なくとも僕は、たんに霊界から現世の構造を見るというほど切り取るつもりは全くないし、そういうふうに切り取ってしまうと、人の関係は正しく見る事はできないと思っています。
――『王の心』という物語の、著者としての手応えというものはいかがでしょうか。
富野 やっと自分の書きたかった劇空間を手に入れる事ができたという実感があります。そして劇中に出てくる人物に、やっぱりその実在、実態みたいなものを手に入れられた事の、アニメで得た感覚と、まるで違う意味で手に入れられた事の充実感みたいなものもあります。
こんな事を言うと怒られていまうかもしれませんが、僕は自分の事を小説家だと言ってはいけないと思っているのですが、今回は初めて小説家冥利につきる部分に触れたと思っています。「こんなレベルで」って読んだ人は思うかもしれないけれど、僕にはそう思えたし、それで気持ちよかった。
この“気持ちよさ”というのが、今回僕の書きたかった人の行為というもの。その人の行為というものを表すキーワードの一つとして今回表していきたかったものだった。それを自分が感じられた事は、目論見がうまくいったのかもしれないと自負しています。
――“気持ちよさ”ですか?
富野 今回実際に書いていった時に、僕自身が一番気をつけたのは、一つの肉体を持った、特に知恵を持った人間の“知恵”の部分と“俗”な部分。『王の心』に関して言うと、“動物的な心”と言っていいと思います。動物として持たされている一番根源的なものを、いつも知恵で隠しながら、堂々と生きていかなければいけない。
それから、今度は“知恵”の裏打ちになっている“欲”みたいなもの。そういうものを持った人間というのは、一体どういうものなのか。それを物語作家として書いてみる事を試してみたのです。
それをやっていくためには、“人の行為”そのものに対して集中していくしかない。じゃ、その“人の行為”って何だろうと考えた時に、結局そこにあるのは、“欲”と“打算”と“気持ちよさ”という、このキーワードだけじゃないのかなと思えてきたのです。
それともう一つ、“恐れ”というのがあると思います。未来に対する“恐れ”というのが人間の今日の行動をつき動かしているのではないだろうか。そういう人の姿というのを、一枚の舞台の上で描く事ができないかというのが、僕にとっての一番のテーマだったわけです。
それは少なくともロボットが出てきて埋め合わせてくれる劇空間ではないし、何でもかんでもファンタジーの中の、自分でつくった物語の倫理規定なり、メカニズムの中だけで落としていくというほど都合よくつくれるものじゃなくて、いつも死ぬという事に表される“恐れ”というものと、生きる事の“気持ちよさ”という部分が、あまり使いたくない言葉だけど“人の魂”にとってどう関わりあうのかという問題を見つけるための発端が、今回書けたんじゃないかと思います。
そういった意味で、僕自身の、つまりクリエーターとしての可能性を考えた時に、もしかしたら自分の中にあるものを全て出しきったんじゃないのかなという恐れはあります。だから、ちょっと困ってはいるけれども、物書き冥利に尽きるという意味で、とてもうれしいと感じる部分があるのです。それは、もしかしたら、僕はもう書けないかもしれない。そう思えるほどに、『王の心』を書き終えた今、恐怖感と同時に、充実感でいっぱいです。
――そうおっしゃらずにこれからもたくさんの作品を書いていただきたいと思います。では最後に、ザ・スニーカーの読者に一言お願いします。
富野 この物語はスニーカー文庫とは少し違うかもしれませんが、読む事で、今のコンピューターで言うバージョンアップとか、新しいウィンドウを開くみたいな感じかな。ひょっとしたら新しいウィンドウが開けるかもしれないと思っているし、こういう違う窓ものぞいてほしいとも思いますから、とにかくだまされたと思って、手にとってほしいと思います。
――どうもありがとうございました。楽しみにしてます。