ニュータイプ98年6月号付録 まるごと富野

富野由悠季とは

一生懸命大人になりたいと思ってるけど
ちっとも大人になれなくて困ってる
そんな、かなりバカなおじさんなんだよね

海のトリトン

まず、「トリトン」でいえば、キャラ設定を虫プロのアニメーターに見せたときに「こんな絵でやるなら、やらないでほしい」と言われてます。それと手塚マンガを虫プロから出た僕らでアニメにしなければならないというプレッシャーとキャリアがないという部分を含めて、怖かったということはありました。ですが、そういうプレッシャーを承知しながら、かなり強引につくらざるを得なかったし「虫プロでヌクヌクしているからお前らはダメなんだ、俺は手塚原作を利用してこういうふうにしてみせるぜ、お前らもふんばれよ」という、フリーとしての目的意識はありました。
反骨精神というもので、そういうものがなければああいう最終回にはなりません。トリトンやピピといったキャラ、劇中のセリフにもそれは反映されていて、いまの「ブレンパワード」にも同じことが言える状況ですが、作品は現実の自分のポジションとは無関係ではないということですね。理念だけの話っていうのはやっぱりないと確信しています。

  • 富野「好きなキャラはトリトンでしかないですね」

無敵超人ザンボット3

ゼロからの立ち上げなので気負いはあったし、そのとっかかりとして「ロボットもので見過ごされていたものを全部見過ごさないようにつくる」と決めたのを覚えています。第1話でチラッと語っていますが「ロボットが国道を歩くには道路交通法を守らなければならないか?」ということ。これが作品全部のコンセプトになっています。それともうひとつの挑戦は、人間爆弾というタブーに触れたことです。これは本当に当時も辛かったし、いまでも辛い記憶なんですが、戦闘ものってみんな喜んで見ているけど「本当は喜んで見ていられることではないんだよ」ということをロボットものできちんとやってみせるっていう覚悟でやりました。ですから当然ひんしゅくをかいましたけど、彼らに対して「戦闘ものとかで商売やっちゃあいけないんじゃないか」ってことを言いたかったのです。だけど実際につくってみて、自分が暮らしていくために、次もロボットものをつくらなくちゃいけないっていう、決定的に矛盾した立場にいる。自分自身が股裂き状態になる作品でもあるのです。

  • 富野「キングビアルは僕のメカニックフィーリングにいちばん近い」

無敵鋼人ダイターン3

ザンボット3」の次に自分が演出家として、どういう方向で仕事をやっていくかと考えたときに、戦闘シーン自体も単純に映画的悪書院ととらえてつくっていくしかないんだろう、と。そういう論理で破嵐万丈っていうキャラクターをつくったとき、全部ユーモアでやってやる。エンターテインメントっていうのは本来、こういうレベルで攻めるしかないんじゃないかっていう実験でした。1話完結で、ギャグじゃなくてユーモアを演出していくんだっていうことで、誰にも任せられなかった。だから辛かったけど、いい仕事をさせてもらいました。

機動戦士ガンダム

僕にとって「ガンダム」っていうのは、「ザンボット3」と「ダイターン3」でやったことの論理的な帰結でしかなかった。だから、むしろそこでのフラストレーションっていうのは、ユーモアが入る余地っていうのをつくれなかったことで、その部分での失敗感っていうのはかなりあります。逆にいうと「ガンダム」で人情話ができるのかなって、すごく気にしたつくりになっている。
そのことでいちばん象徴的だったのはどんなシーンかっていうと、マチルダとウッディ大尉の結婚式のイメージ・シーンなんですよ。僕はシリアスものっていうか「ガンダム」みたいな物語をつくっているときに、ああいうシーンは拒否してたんです。「ダイターン3」まではね。でも、はずしたくなかったし、入れてみたらそれでよかったってわかった。それでそういうことを「ガンダム」ではすごく気をつけたんだけど、それがその後20年も言われつづけるような作品になってしまった。そういう意味では僕の骨格にあたる作品じゃないのかな。
ただ、現在の「ガンダム」ファンにぜひわかってほしいことは、「ガンダム」っていうのはプラモデルのファンが育てたものじゃないんだよ、ということ。最初にアフレコのスタジオに来てくれた中高生の女の子たちの支持からはじまった作品であって、プラモデルのガンダム人気とは関係のない作品だったんです。だからあの子たちがまた来てくれるような作品をつくることが、いちばん大事なことなんだろうと思っています。そういう基本的な部分に触らなければ、映画的な興業のエンターテインメントっていうのは成功しないんじゃないかなって思っているんですよね。

伝説巨神イデオン

イデオン」っていうのは最初にイデオンとソロシップの絵があって、この2つの組み合わせで何かをつくれって社命を聞いたときに、もうクライシスをやるかドタバタをやるのかのどっちかしかないと思ったから。それでクライシスをやることにしたのは、「ガンダム」でちょっと疲れていたからでしょうね。シリアス路線のほうが、つくるのに楽なんです(笑)。
ただ自分が「ガンダム」までやってきて、その先の物語の袋小路を一度見ておかないと、戯作者になれないんじゃないかって思ったことはありますね。物語をつくるっていうのは一度究極のものを見て、そこから戻ったところでこんどはみんなに見てもらえるものを考えるっていうことだと思うんです。で、僕にはそのつくり方がまだわからなかったんで、「イデオン」で実験させてもらったというのが本当の心です。

  • ガンダム」でやっとことを意図的に壊すため、キレました
  • 富野「ハルルが本当に好きで。僕の理想の女なんですよ」
  • 富野「二本足のメカが好きで、その究極のデザインがアディゴ。溺愛しています」

戦闘メカ ザブングル

ガンダム」、「イデオン」とやった後で、ユーモアとギャグを自分の中にもう一度取り戻さないとっていうことで、本当に一生懸命やった作品なんです。労働量を惜しみなく投入してね。そういう意味で「ザブングル」っていうのは“肉体的に”大事な作品なんですよ。それこそ身も心もトレーニングさせてもらったから、作品全体としては好きなんです。だから僕にとっては、目標とすべき作品です。ああいう表現をきちんとつくっていくことがエンターテイナーじゃないのか、映像の演出家というものじゃないのか、というふうに思っています。

  • 富野「ガソリン臭いメカ、ウォーカー・マシンが好きです」
  • こういうわかりやすいジャパニメーションがもっとあっていいはず

聖戦士ダンバイン

ダンバイン:というのはメカのリアリズムとか「ザブングル」の土臭さみたいなものを追いかけてきたあとに、意識的にそれらとは違うものをめざして進めた方向なんです。それで自分でもよくわからなくなってしまった。でもね、バイストン・ウェルという世界は気に入ってるんです。ファンタジー・ワールドに入って、嘘八百でなんでもできると思っていたけど、その実、天井が張られているっていう感覚があって、プレッシャーがすごい。それは普遍化できる観念じゃないからで、僕の頭の中にある、沈殿物のような世界の物語なんです。

  • 富野「僕にとっての『ダンバイン』のメカといえばドロ」
  • 頭だけでつくりはじめると、こうなってしまうという見本なんです

重戦記エルガイム

エルガイム」は自分としては投げ出した作品です。というのも「ダンバイン」でロボットものとして個人がやれることは全部やってしまっていたから。そこで新しい才能を探すしかなかったわけだし、それが経験者のやるべき仕事でもあると思っていました。ただ思い知らされたのは、作品というのはどういう形であれ制作者の体臭が臭うもので、それがない限り作品として成立しないってことです。「エルガイム」は僕も永野君も作品を中心に分裂する方向でしか作業していなかったから、当然作品としての臭いなんてつけようがなかったのです。申し訳ないんだけれども「エルガイム」は、それ以上でもそれ以下でもありません。
ただ「エルガイム」をやっておいてよかった点があって、それは永野君の採用はやっぱり間違っていなかったということです。ペンタゴナ・ワールドを彼に預けたことが、こちらの予定していた10年後の姿ではなかったけれど「ファイブスター物語」という形で化けて、そして15年という時間をおいて「ブレンパワード」っていう形で帰結した。それは、とてもうれしいことですね。

機動戦士Ζガンダム

Ζガンダム」の話があったときに、日本サンライズは1年だけやるつもりだったようですが、「Ζガンダム」に手をつけたら最後、ずっと「ガンダム」が続くってことを予感してました。で、本当にそうなってしまった。僕も「エルガイム」までぶっ続けでやったことの疲れが出たこともあって、こういうものをつくるほうが、新作をつくるよりも楽だったのでしょうね。それでもカミーユみたいな人物設定をしてがんばってはみたんですが、フォウ・ムラサメの話以上に厚みのある物語はつくれなかったっていうことはあります。

  • 自分が戯作者としてどんな物語が書けるかに挑んだ作品です

機動戦士ガンダムΖΖ

「ΖΖ」はもう自分の習いしょうでつくっていくしかないってことで、それなら違うタッチの「ガンダム」を見せようと思いやったんです。
ジュドーというキャラは、カミーユが心的なモーメントとしては内向してしまったのですが、個のありようとしては根ざすところは同じです。要はそれをポジティブにするか、ネガティブにするかの違いだけで。だからカミーユがちょっと踏ん張ったら、ジュドーになるんだよね。
こんなふうにいうと、2人が裏表でだぶって見えるかもしれないけど、人とはそういうものだと思ってます。

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

ニュータイプに対する結論を「逆襲のシャア」で出そうとしてみて、できずにシャアとアムロの物語で落としどころをつけたというだけのことです。
つくり手として辛かったのはガンダムガンプラ好きの男の子に受けていて、そういう客に対して「少しはわかれよ」ということばしか吐けなかった、そういう物語しか描けなかった自分がすごく悔しいのです。シャアがロリコンだったのかもという部分をおもしろがったのも、かなりヤバかったですね。ロリコンが自分の中にあると一瞬でも認めると、男というのは脆弱になる感じはありますから。社会を動かすダイナミズムには絶対連動しない衝動だからです。男がこわもてであるなら女さえどうとでも利用するし、そのときに利用されない女も出てくる。男はそれさえも張り倒す胆力をもった男かどうかという物語。それがおもしろさであるというのは、この年齢になってわかることです。

機動戦士ガンダムF91

ガンダム」というシリーズを続けることを自分自身が自堕落にやっていくなら、もう一度シリーズ立ち上げるくらいのことをやってみようかな、と考えたのです。それが端的に失敗したのは、結局“サラリーマン化したディレクターが考えるつくり方なんてこんなもんだ”というワクから、一歩もはみ出ていなかったからなんです。「F91」の中に一年間のシリーズを支えるだけのポテンシャルがなかった事実がそれを教えてくれていますから、僕にとっては忘れられない作品になっていますが、ファンには申し訳ないと思っています。

機動戦士Vガンダム

「ΖΖ」以降、「Vガンダム」までの「ガンダム」っていうのは、それを商品にしようとするならもうできないんだ……っていうことを示すためにつくっていたところがあるんです。それはつくり手が、個人としての衝動とかモチベーションをはっきりもてないところでつくった作品というのは、絶対にビットしないと。つくり手の極めてビビットなところを見て、好きになるわけですから。
でもそういう心根でつくっていても本当に作品が可愛くなるときがあるし、「Vガンダム」が「ガンダム」に近いとしたら、そのためなのかもしれません。

ブレンパワード

なぜいま、新作なのか?

最後のオリジナルから15年が経って、僕自身がもう死ぬことも射程距離に入れて生きていかなくちゃいけないとしたときに、じゃあ自分がやってきた仕事は何だったのかと考えた。TVのファースト・ガンダムを支持してくれたようなファンの心に自分自身が触らなければ、演出家として死んでいくことができないんじゃないかと恐れたんです。
僕はもう少しマメな性格だったらモデラーになっていた人間ですから、ガンプラといわれる現象がなんなのかっていうことをかなり知っているつもりです。ですからガンプラを提供することだけで自分の気がすんでしまう、そんな人間になることを恐がったのです。僕自身が「ガンダム」シリーズで20年食べさせてもらいながら、ここ数年、本当にそれでいいのかって思い悩んでいた。この15年間、やっぱり自分は死んでいたのかもしれないというところまでキチンと反省しないと、また、この15年間と同じようにフェードアウトして、いつの間にか死んでいる人間になっちゃう。それは嫌だなと、ここしばらくのガンダムであらためて教えられたんです。
この15年の中での家電製品を含めての物の投入ってのが、人間の感性をどういうふうにしていくのかをリアルタイムで我々は見てきた、便利になりすぎてしまって、そういう物を使う人間の感性、対応能力ってやつがひどく鈍ってきていると感じる。心の問題とか、社会の成員としての自己の問題を考えることをないがしろにしてきた時代です。だからみんな「Ζガンダム」のカミーユみたいになっちゃった。けど人間ってのは、そんなもんじゃないんだよってことを、せめてアニメのフィクションの中でやってあげなくちゃいけないんじゃないと考え、これをテーマにしました。
だからケアをしなくちゃならないんです。便利さを仕かけてしまった我々の世代が、もう死んでいくんだから知らないよ、と言っちゃあいけない。死んでいくからこそ、とっかかりになるようなことばくらいは残しておく必要があるってときに、僕の場合は新作をつくるってところに踏み込むしかなかったのです。若い人たちにゴメンナサイって謝るってことも大事だけど、仕事ができるうちに富野の場合はこうした、それが正しい正しくない、視聴率が取れる取れないは関係ない。少なくとも、大人のことばとして個の体臭が見えるものを知ってほしいと思っての作品です。

WOWOWだから、できた!!

キャスティングは意図的にそうしました。これは声優への悪口ではなく、声優を育てて飯を食おうとしているシステムに対するあてつけです。細分化して役者を捕らえてどうするって話で、いまの流れでは声優は育ちません。現場でも声優の声に慣れている人間しかいなくて、気に入ってはいないがどうしたらいいかわからなかった。つまり現場の人間も現在の声優でしかやっちゃいけないもんだと思っていたらしいんです。でも今回のキャスティングで、アフレコがすごく楽になった。キャスト全員がキャラをわかっているわけでもないのに、はじめからわかっているパズルをはめていくような感覚があって、役者さんに任せっきりにしてます。この気持ちのよさをわかってほしい。
WOWOWとのコンタクトがあったのが去年の10月ごろ、制式に決定したのがことしの1月末のことです。今回、スクランブルがかかっている局から発信することで、とても助かっています。地上波でやっていたら、毎回発進シーンが必要というロボットもののスタイルを求められたでしょう。こういうパターンを要求しない、違うチャンネルが発生しているということは象徴的に時代性を表していて、それに乗れた自分の立場にものすごく感謝しています。

新たなる時代へ……

(メッセージについて)それは作品を見てくださいとしか言えません。お金を払って見てください。それがどういうことかというと、予定調和がまったくない物語なんです。じゃあ、予定調和がない物語が気持ち悪いかっていうと、きっとおもしろい物語になると思うんです。その部分を見てもらいたい。どの辺がおもしろいかって聞かれると、こういう作り方って前例がないからわからないんですが、映画1本見て、「ブレンパワード」見れば、WOWOWに視聴料を払ってもいいと思うくらい、おもしろさがあると思ってます。僕にとって、ファースト・ガンダムでやったみたいな青春群像劇にしたいと思っていますし、子供が主人公になる必要がないので、ちょっとだけ大人っぽい話になってるかもしれない。普通に映画を観てくれる人をターゲットにしちゃいましたが、ティーンエイジャーから20代が不用意に見てもいいようなつくり方、つまり子供まかせのロボットものっていうつくり方はしないようにしています。そういう意味ではかなり実験的ですが、アニメでもこういう話ができるっていうのが見どころでしょうし、このようなつくり方を実験させてもらいます、という作品です。

  • 第1話公開試写の発言「去年でアニメは終わった。ことしからはアニメの新しい世紀が始まる」
  • 富野「この作品に対しての姿勢は、初監督だったトリトンのときと同じ」
  • 富野「ユウの性格づけは、キャラのビジュアルが引っ張ってます」
  • 富野「目先の表現を変えるということで生体ロボットにしました」
  • 富野「細身に見えますが、明晰な骨格を持つのがいのまたキャラです」
  • 富野「若い脚本家たちとブレインストーミングを繰り返してつくってます」
  • ブレンパワードの企画は96年2月ごろに監督がつくり上げた企画。デザインも半年後にいのまた、永野両氏に決定。当時はビデオ作品という案もあった

すいません、過去発言との関連付け等は後日。