DIAS02年02月21日号 富野由悠季に福井晴敏がインタビュー

たとえば我々は、「銀河鉄道999」が松本零士の作品であることを知っている。「仮面ライダー」が石ノ森章太郎の手になるものであることも知っているし、ゆでたまごという「キン肉マン」の作者の特異なペンネームも記憶に留めている。しかし「機動戦士ガンダム」の原作者・富野由悠季の名前となると、知る人の数は限られてくる。
音声をリニューアルした劇場版3部作のDVDの総売り上げが約32万枚。人間大のビッグスケール・プラモデルのザクは約20万円もするが、これが飛ぶように売れる。PS2のソフトも新作が出るたびに売れに売れ、「売れない時代」にひたすら加熱し続ける「ガンダム」市場。最初のテレビシリーズの放映から23年、DIAS世代にとっては基礎学力になった観のある「ガンダム」だが、膨大な数の商品に対して、その作り手の存在が取りざたされるケースは極端に少なかったように思う。原作者にして総監督、「ガンダム」の産みの親と言って間違いない富野だが、個人に還元される世間的評価は妥当なものであったのだろうか?
「数年前にサンライズと取り交わした22年前の契約書が出てきたのね。額面は……30万円でした(笑)」
ガンダム」がマンガや小説ではなく、スタッフの集団作業の上に成立した映像作品であることを考慮に入れたとしても、その基本的な世界観、ストーリーラインを提供した原作者に支払われる報酬としてはあまりにも些少な金額だが、当時の常識では至極当然の額面だったと富野は言う。
「そんなに当たると誰も思ってなかったわけです。当たったから、お金のことをぐじゃぐじゃ言ってくるわけだし、僕自身もお金にとらわれたことが当然あるわけ。だから、それこそ今の気分で言えば、100億円はオーバーにしても、30億くらいは損したかもしれないというセリフはあります。
でも、その一点で物事を見てもらっては困るよというのは、僕程度の才能の人間にたまたま発表する機会が与えられたっていうのが幸運なのであって、原作者といえども一スタッフでしかないんです。だって、番組があって、スポンサーがいて、代理店がいて、この額の中で『おまえら、作れ』と言われたときに、これは個人の力ではないでしょう。権利の買い取りは経営論として正しいんです」
過去の偉業にしがみつくだけの者であれば、この達観と余裕は手に入れられなかっただろう。「∀ガンダム」という最新監督作品の劇場版を仕上げ、すでに新作の製作にも突入している富野は、徹底して「現役の監督」であり続ける人だ。初の国産テレビアニメ「鉄腕アトム」の演出助手から始まり、「ガンダム」で実を結んだのキャリアは、自ら「最下等の職業」と語るロボットアニメの監督が、世間の認知を得るまでの挑戦の歴史でもある。
「巨大ロボット物が子供向けのルーチン・ワークだけでいいのかといったときに、それではいくらなんでもつまらないだろう。それに仮にも味方がいて、敵がいて、両者の戦いに巻き込まれる人がいるのに、安易なヒーロー礼賛に終始していられるというのは、子供に見せる番組の姿勢としてどうかという疑問もあった。
それで、初めてロボット物の総監督をした『無敵超人ザンボット3』は、そういう部分を無視しない話にした。全部が子供向けではない物語にしていったんです。でもそれが主流になればいいのかというとそんなことはなくて、次の『無敵鋼人ダイターン3』では、テレビマンガはもっと気楽でいいだろうという部分に立ち返って、ユーモアを作品に取り込む練習をさせてもらいました。
そういうふうにやってきたら、次は正攻法でドラマを作る、言ってしまえばロボット物でも映画ぐらい作れるぞ、というコンセプトの物を作るしかないと思えた。『ガンダム』はそうして生まれてきたのであって、基本はあくまでお仕事なんです」
与えられた状況は、決して良好なものとは言えない。
「カルピス名作劇場が始まったときには落ち込んだもんね。ロボット物やってる限り、高畑、宮崎には絶対勝てねえぞって(笑)」
と富野は振り返る。しかしそれでも最善を尽くし、状況に対する己のスタンスを明確に持ち続けることで、富野は「ガンダム」という偉業を為し遂げた。その強かさ、臨機応変な物作りへの姿勢が、今回「∀ガンダム」という新たな地平を生み出した。
「『ガンダム』でニュータイプというものを扱ってきたんだけど、この考え方が怪しいと思えてきた。しょせんは認識論でしたかないわけで、DNAの解析が全部できると言っている昨今の風潮と同様、“考え落ち”なんじゃないかと気づいたんです。30何億年かけてこういうふうに人を作ったDNAの力が、ここ200~300年で培われたロジックで解析できるわけないでしょう? 個々のデータは解析できても、それが総体になったときにどうなるかという演繹論には絶対に迫れない。それで、『∀』では最初のガンダムから数千年、あるいは1万年経ったかもしれない時代を舞台にして、生物としての原理原則に従った人の姿を描くようにしました」
「どういうことかと言うと、人が気持ちよく生きて、死んでゆくためにはどうすればいいのかと、それだけのことです。歴史的、DNAの進化論的に捉えれば、1万年でもたかが一瞬だな。だから、この程度のことであくせくして、地球がなくなるみたいに思う必要はないんだろうな、というところまでたどり着いたんです。これはニュータイプ論より気持ちがいいし、人はもっと気持ちがいいという部分にこだわって生きたほうがいい」
「死を射程距離に捉える歳になった」富野は、そう考えることで自身、「とても楽になった」と言う。そこには、「Ζガンダム」や「逆襲のシャア」で変わらない人の愚かさを嘆き、怨念をぶつけるように物語を紡いできた男の姿はない。これを新境地と受け取るか、「老い」と受け取るかは評価の分かれるところだが、己の年齢を直視し、変わることのできる率直さは、やはり一代で荒れ地に花を咲かせた者の強かさと認めるべきだろう。現代は、老いや死を忌避しすぎる傾向にあるのだから。
「『∀』で本当にありがたいと思ったのは、60歳のおれがこんなものをやってきてよかったと、たかがロボットアニメをそう思えるまでに作れたということ。この部分に関してだけは威張れます。職人としてのスキルは低い仕事だと承知はしているけど、同期の人たち、一回り上の人たちに対して、恥ずかしくなく『観てください』って言えるもんね。少なくとも最近のスピルバーグやルーカスよりは上等ですよ。負けるかもしれないって思えるのは、完全版の『地獄の黙示録』ぐらい(笑)」
そう語った富野は、インタビューが終わるとすぐに新作の仕事に取りかかっていった。生涯現役の監督にとっては、「ガンダム」を振り返る時間も惜しく、気分は次作一色ということらしい。
文/福井晴敏

02年は富野×福井記事が多いが、その中でもこれは執筆が福井氏本人という異色の記事。
ただし、内容自体は然程目新しくは無い。肝は「気持ちよく生き、死んでいく」の部分か。
最後のスピルバーグ、ルーカスを名指しするリップサービスもある意味目玉。