調査情報NO.497 10年11月-12月号「アニメーションを次のステージに上げた『ガンダム』の監督は何を見ていたのか」富野由悠季インタビュー

食いつなぐために駆け抜けた70年代

——元々は映画志向だったそうですね
「僕の世代観って、完璧に落ちこぼれ世代なんです。僕の2年くらい前までの連中がいわゆる全学連で、映画界で言うと大島渚に代表されるように、戦後の松竹ヌーベルヴァーグに代表されるものを立ち上げました。その直後なので、我々が入る隙がない。でも映画を志向している人間がテレビに行くことは、ものすごく抵抗があったんです。新興の媒体という蔑視もあり、就職試験に受かる学力もなければならない。となれば、僕なんかテレビ漫画の仕事しかできなかったんです。レトリックで言うんじゃなくて、最下層なんですよ。そのテレビ漫画の中でも、東映動画にすら入れなかった学生でした」
——70年代といえば虫プロダクションで『鉄腕アトム』の演出を担当された後に、フリーで活動を始められた時代ですね
「これまで70年代を区切って振り返ったことは、全くなかったんですが、70年代に仕事をした作品タイトルを見ると、時代性をドンピシャリと反映しています。虫プロを辞めてフリーランスで仕事をもらって回らなければいけない局面に立たされた68年には、『巨人の星』が始まっています。それは、テレビアニメの先駆者からしてみると、2番手のプロダクションがレギュラー番組を持つようになったということです。虫プロが落ちてきて、2番手の東京ムービーが出てきて、それで一番の大御所の東映動画が、大資本をバックにしてなんとかやっているという状況の中で、俗に言う弱小プロの林立が始まる時代だったんですね。
ですからその現象が、現代ならベンチャーという言い方になってくるわけです。資本金なんてろくにないのに、テレビ局に何かコネがあれば帯番組がもらえちゃうとかっていう、すさまじい時期に繋がりましてね。言ってしまえば、本当にフリーランスの人がそういう中で仕事を、あちこちでやっていましたから。タイトルの並びを見ると胸が痛くなる時期でもあったというのが実感で、だからこそ僕のような個人業でも食っていけたんです。それで僕自身が、初めてストーリー権のある総監督作品を、72年に『海のトリトン』でやらせてもらった。それからちょっと間を置いて、75年に『勇者ライディーン』と、『ラ・セーヌの星』もお手伝いながらやらせてもらいました」

ザンボット3』から『ガンダム』へと続く道

——さらに日本サンライズで『ザンボット3』を手掛けられていますね
「77年に『無敵超人ザンボット3』から『無敵鋼人ダイターン3』『機動戦士ガンダム』『伝説巨神イデオン』までを、1年ずつダダダッと4年間やらせてもらいました。だから『イデオン』が80年なんですよ。ということは、70年代を最終的に『イデオン』で刈り取っているというのは、偶然じゃないですね。時代に乗っているからこそ、中小企業のおもちゃ屋さんが1社提供で番組1本持っちゃうんですから、凄い時代でしたね」
——クローバー社なんて、大会社ではありませんでした
「だから『街のおもちゃ屋だろ? スポンサーなんてできるの?』というところから始まりましたもの。電波料から製作費まで考えたら、毎週とんでもないお金がかかるわけでしょう? クローバーにしてみても自信がないから、『ザンボット3』は2クールなんですよ。オンエアが終わって『なんか、また次もやりそうだ』って話を聞いた時に、『エーッ、ちゃんと現金が回っていたんだ』って感動しましたもの。
ザンボット3』は少なくとも、赤字じゃなかった。だって『ダイターン3』なんて、1年間ですよ。だからそう聞いた時に、謎だったんですよね。どうしてコレで保つんだろうと。おもちゃのパッケージなんて、そんなに商品数があるわけでもないし、まだ商品のアイテム数が今ほど出ていませんでしたからね」
——当時はおもちゃを売るための広告的な番組と見なされていたロボット物を多く手掛けられた理由は?
「おもちゃを売るための要素、例えば“戦闘シーンやメカの合体シーンを規定時間入れる”、“ヒーローのロボットを巨大に表現する”、といった“お約束”、つまりスポンサーへの仁義を堅持すれば、作品のオリジナリティーや作り手のクリエイティビティーがある程度担保されていたからです」
——正義と悪の価値観の相対化や、異文化間の対立という難解なテーマを盛り込んだ『ザンボット3』の人気のコア層は子どもでしたか?
「子供に人気があったというのは、多少違いますね。小学校五年生ぐらいからで、一番人気があったのが、中学生の女の子でしたから、この頃からファン層の拡大と高年齢化が始まっていますよね。ただ、僕の場合には、その前に『海のトリトン』がありました。『海のトリトン』は小学校の上級生から高校生までの女の子のファンがいて、日本で初めてテレビアニメのファンクラブが千人規模の集会を開いたんです。『ザンボット3』の時に、それの余波も受けている部分もありまして、戦いを描くとこういう残酷な話もあるぞ、という事例として人間爆弾のエピソードも入れました。この時から、アニメといえども、次の世代に何かモノを考えさせるヒントになるものを埋め込めるはうzだと思うようになりました。それで、ロボット物を利用してメッセージを盛り込むことを考えるようになりました」
——『ダイターン3』の洋画的な大人っぽいキャラクターも、あまり子ども向けとは思えませんでした
「いやいや、何本か前後篇物はありましたけれども、一応1話完結で終わらせるというスタイルだけは堅持しました。あと、巨大ロボの合体物であるっていうことも、なるべくきちんとやって見せる。これで基本的にクローバーに対して仁義は切ったつもりです。僕の方で好きにやらせてもらったのは、むしろ『007シリーズ』のような洒落たバラエティーショーを作ったことです。ギャグからシリアスまで、どこまで自分に劇が作れるかとシナリオライターと一緒に勉強しながら制作しました。だから『ダイターン3』は、いろんな意味で、79年に『ガンダム』を作るための伏線になっていました。ここでエクササイズをやった上で今度は映画的な人間ドラマをやるぞというわけです」
——『ガンダム』は、最初から映画的な視点があったということですか?
「スポンサーへの“お約束”のシーンも入れるんだけれでも、そこを抜いていくと映画が作れるという作劇にチャレンジしたんです。クローバーに対しては、『すみません、合体シーンはこれしか入れられないのでごめんね』って感じですね。でも、途中で気付いたクローバーの堪忍袋の緒が切れて、『ガンダム』は打ち切りになったんですよ。名古屋テレビが初めに意思決定したらしいんだけれども、クローバーも同意したっていうのは、『ダイターン3』と違うじゃないかということです。かなり確信犯的なところでもあったんだけれども、僕にしてみれば1年間はオンエアを続けたかったですよ」

2本目が決まらぬまま突入した映画化

——『ガンダム』の映画化は、どういういきさつだったのでしょうか?
「営業論のことはまったく知りません。ただ、作品的に人気があったにもかかわらず、打ち切られて、裏切られたマーケットがある。つまり、マーケットに1度エアポケットができちゃった。それを松竹とバンダイが見ていたという言い方もあるけれども、多少こちらから仕掛けたこともあります。まぁ、僕にとってはものすごく不満もあったんだけれども、まず小屋に掛けることの方が先だからと、OKした部分はありますね。その時に制作側として、映画化してくれるからといって映画会社の言いなりには作らないよと主張したことが、三部作に繋がります。
当時は、テレビアニメを無理やり映画1本分の尺に切り貼りした総集編を映画館に掛けることが行われていましたから、そういった作りにはしたくなかった。それで、こちらでまとめ上げる範囲での1本しか差し上げられないということで、1クール分で1本にまとめたフィルムを松竹に出しました。その、『ガンダム』の1本目を出した時にも、松竹には何も言いませんでした」
——初めから三部作とは決まっていなかったんですね
「決まっていません。だからタイトルの『機動戦士ガンダム』には『I』と付いていないんです」
——IIとIIIは付いていましたけどね
「今の話をみんなで覚えていたいために、いまだに『I』を付けないんです。それで公開して2、3日目に、松竹から『あれ、終わってないよね、話』『はい』『だから次があるんだよね?』『はい』『だったら次の夏休みまでにまとめられる?』『まとめられる』って。で、ようやくIIが付いたんです。だからそれも僕の勝手なんかじゃないんです。映画会社の人達は試写で内容は何も観ていないし、先にテレビ版も観ていないことは分かっていましたから2本目の依頼が来た時、そらみろとなったので、3本までいくよねっていうことで、3本でまとめさせてもらったんです。だから作品的に大変な人気があったから三部作ができたのではなくて、勢いと、それから『この程度で客が入るんだ。この程度の入りだったら、あと2本やってもいい』という、そういうレベルの読みなんです。だから大ヒット作ではありません。現に『ガンダム』は1本単位でいったら『宇宙戦艦ヤマト』の映画ほどは入っていませんもの。それが僕にとってはいまだに悔しいと言えば悔しいことです」
——ただ、ジャパニメーション発展の萌芽というか、表現媒体として幅広い層に訴求しうるアニメの具体的なパワーを一番初めに社会的に見せつけたのは、富野さんが映画版に関連して行った『アニメ新世紀宣言』のイベントではないかと考えているのですが……
「僕もそう思っています。それ以後の歴史論で考えていっても、当然今おっしゃられたような定義が定着してくるから、溜飲を下げている部分はあるんだけれども。数字的なことで言うと、実績はありませんから口惜しいですね」

ビジネスとしてのアニメと文化としてのアニメ

——70年代にフリーで渡り歩いている中で、ビジネスとして、アニメは成熟していくという手ごたえは感じていましたか?
「実は今日現在まで、そうは思っていません。確かにこの10年ぐらいで言えば、ビジネスとして、ある程度成功しているジャンルになっているかもしれないし、国が産業として目を付けているかもしれないという現象もあるのだけれど、僕はその見方は、この3年ぐらいではっきり変わりました。やっぱりアニメは俗なものであって、下世話なものなんですよ。それが近年では経済至上主義的とか、ビジネスということを現代の資本主義的なものの考え方に全部スイッチングしていくことはいいことではないと言えます。
公的に認められたアニメとか漫画は、むしろ存在としてタチが悪くなったと思いますね。大衆に任せたままの下世話な媒体にしておけばいい、エログロナンセンスで、子供に見せちゃいけないものだという風にしておいた方が、文化論的に意味があると思っています。なまじビジネス論が入ってきたために、もっと無意味な“消費財”に堕ちているのではないか、サブカルチャーにもなり得ないのではないかと思うのです。消費財とは下劣なものなんです。文化論で考えた時とか、肌身で感じるエログロナンセンスという言い方とか、僕の世代が知っている言葉で、“赤本的”なレベルっていう堕とし方で、子供は見てはいけないっていうモラルの外にある方が、正当性があるという風に思えます」
(談)