スーパーロボットマガジンvol.8 世界ロボット者列伝第8回 富野監督が話題の新作『キングゲイナー』を語る

キングゲイナー

――現在(2002年8月上旬)、『キングゲイナー』の制作状況はどのような感じですか?
富野:現在、シナリオの1クール分までが終了。溜め息が出るくらい、スケジュールが遅れています。
――何か、先行放映された1話に対して不満を持ってられたとか?
富野:うん。ふつうの不満と言うのとはちょっと違うんですが、ああ、ここまで画面を作れるなら、もう少しああすれば良かった、これをやっておけば良かったというのが見えてきたのです。映画バージョンの映像を、TVサイズに落とす際の贅沢な不満なんですがね。
――でも、よく動いていますよね。
富野:動けばイイっていうものじゃないでしょ(笑)。
むしろTVの画面なら、もっと全体的にチマチマした動きにあつらえなければいけないのに、TVサイズ用に作っているという工夫が画面から見えてこない、そういう不満があるんです。でもスタッフはこれだけの画面を用意するために、こちらの期待値の5倍は頑張ってるんじゃないかな。だから僕なんか「もっと手抜きをしようよ」と、つい言っちゃって、みんなその「手抜き」という表現にムッときてきる。今はそんな状態なのですね(笑)。
――『∀ガンダム』の時と比べていかがですか?
富野:『∀』の時はワンカットずつ観ると、ひどい絵の羅列だったでしょう。でも連続した映像としてはこう見えるんだよ、というものを用意できた自負がありました。だから今『キングゲイナー』のフィルムを作りながら感じることは、ここまで几帳面でなくていいだろうという思いです。極端にいえばパソコンのビットを操っているような嫌悪感にも通じます。作品作りは、もっとルーズであっていいはずという気持ちが強いのです。
――それは『キングゲイナー』という番組内で登場人物が動いてくれない? ということでしょうか。
富野:いや、キャラは必要以上に動いてくれています。むしろオーバーデコレーションと言ってもいいくらいなんじゃないのかな。だから自分としては、登場人物の描写に関して《過不足の無さ》を目指す調整を行なっていないという意味で、とても困っているんです。
僕はもう60歳代です。だから自分の世代の価値観を基準にしないようにしています。視聴者の目線で見ると2世代位違っていますし、かなりの数のスタッフも、視聴者に近いので、画面のクオリティは高いのですがこちらの考えているクオリティじゃないというのがあって、綺麗に作ればいいってもんじゃないよって言いたくなることはあります。でも、これは贅沢な不満ですよね(笑)。
――『キングゲイナー』の画面作りが周到過ぎる、ということですか?
富野:いや周到というより、緻密過ぎる。僕と同じ世代の宮崎駿さんの『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』にしても、若い世代から見れば、彼らの求めるリアルさを描いているという緻密さはないでしょう。ズボラです。でもそのズボラな魅力が、『キングゲイナー』には出てないんです。
これは現実におけるメカそのものの指向性とも同じで、具体的に言えば、毎日毎日バイクの掃除をしなきゃ気がすまないマニアが増加しているということです。そんな種類のこだわりが、メカのデザイン・シーンへの影響を含めて、全てに関わって来ていると思います。

【人気が出ても好きになれない】

――すると監督は、主人公のゲイナー君をむしろネガティブに見てるんですね?
富野:ええ、好かれて貰っては困る、というより、ズバリ反面教師にしてほしいような主人公です(笑)。
僕らは、現実の中で反面教師に出来るキャラクターに会う機会がそうそうありませんが、フィクションはそういうものを提供できる力があると思うんです。
ところがゲイナーの場合、回を追って動かしているうちに、ひょっとするとこれは好かれるキャラクターになってきているかも知れない、という感触が強くなってきました。ですから不満というより、危機感なんですね。
人気は出てほしいけれど、好かれるキャラになっては欲しくない。判りやすい例で言えば、シャア・アズナブルです。シャアを好きという男女の声を聞くと、どこかに「いや、何かね……」という彼に対する部分があります。これは好きというより人気があるという方が正しい。
――憧れても、隣でメシなんか食いたくない、一緒に酒も飲みたくない、というヤツですか?
富野:正にそれで、僕はゲイナーにもそうなって欲しいんです(笑)。
アムロは登場してから10年間、人気がなかった。僕はその10年の間に、現実世界でアムロへのシンパシーを抱く世代の登場を実感して、凄い抵抗感を抱きました。そこで『Ζガンダム』ではカミーユを、反面教師の役割で登場させたんです。
それ以降も現実の世の中は、あからさまな少年犯罪の続発、ここ数年の中高年によるだらしない犯罪……簡単に言うと、現実の世界は、どんどん悪くなってきちゃってます。
だから『キングゲイナー』の場合、ゲイナーがもし「好かれる」なら、それはマズいと思う。ゲインが好かれるのは判るんだけれど。
ただ、僕にはすでにカミーユがいるので、ゲイナーにそれをなぞらせるつもりは全くありません。
むしろ現状の現実を脱出する手立てとして、ゲイナーという主人公を使いたい。その意味ではゲイナーが受け手から好かれてもいいんだけれど、しかし同時にたかだかフィクションの中で、そこまで複雑にゲイナーというキャラを作らねばならないのに、シンドさを感じてもいます。
また残り1クールの中で、それぞれの登場人物に自在に動いてもらって効果が出れば、それはクリエイターの狙いです。ですがその場合、受け手の側に立つとキャラが見えなくなりがちという問題もあって、判りやすく作らざるを得ないですね。
――1話冒頭の、ゲイナーによるネットゲーム対戦ですが、あれは?
富野:いや、簡単なことです。これはネット文化という現実を見た上での観測ですが、パソコンなどの手段で外界と接触していても、結局「人間的に狭い奴は、狭い」ということを表現しているだけです。
――エクソダスした主人公たちは、目的地であるヤーパンに行って何をするんですか?
富野:到達した地で何をするかは、2クールの枠組みのドラマの中では語れません。言いたいのは、おまえら籠の中の鳥じゃなければ飛んでいけ、ということだけですから。
今後、ビジュアル的には、海を渡ることになると思うけれど、日本海は狭いから画になりにくい。たぶん氷結した流氷原上を進み行く展開になると思います。空を飛ばそうかとも思ったけれど、周りのスタッフの意見もあってできなくなりました。また劇中で直接描かれるとは限りませんが、ウルグスクからエクソダスしたのはヤーパンの民だけではありませんしね。

【一口では言えない作品の面白さ】

――既に「キングゲイナー」は、これまでの作品と異なるという実感を抱かれているようですね。
富野:それはもう同じものを作っても仕方ないから、当然、変わります。
だからさっきスタッフへの不満も言いましたけれど、反面、非常にリラックスしてフィルムを作ってます。つまり。ジャンルの制約を受けていないんですよ。「キングゲイナー」をこういうジャンルですと一言で括れないものにする自身があって、そこにはロボットもの、美少女もの、学園もの、全部の要素が入っています。よくアニメ誌は「キングゲイナー」に富野の新しいロボットアニメとラベルを貼りたいらしいので、僕がそうコメントすると、すんごく嫌な顔をされますけれどね(笑)。
本当は360度どこから見ても面白い、というのが「作品」だと思うんです。「ガンダム」も「ライディーン」も、初めに活動を始めたファンの90%は女の子だったんですよ。後者なんかファンの集いで千人の人間が集まれば男子は百人くらい。要するに女の子はジャンル分けで作品に接するのではなく肌合いで接するから、ロボットアニメという狭まったジャンルでの完成度など考えてません。今回も、その線でいきます。
――主要メカ=オーバーマンのデザインラインについては?
富野:今回は何点かラフを描いてもらって、その中で主役メカを煮詰めていったのですが、その時に思ったのは「ぬいぐるみのロボットはいいね」という事でした。
――それは主役ロボの個性の確立ということですか。
富野:うん。僕はロボット=ぬいぐるいみというコンセプトは、実際の商品展開においてもヒットしていくと思う。ただし現在ではなくて、10年後くらいにね(笑)。
オーバーマンが古美術であるという由来も、たぶん2クールの番組内ではきっちり描かれませんが、今は意味的には「でまかせ」です。
現在のフィギュアブームを見回した時に、中国の人件費がいずれ高くなり、彩色の細かい食玩は作りにくくなるだろうとか、これほど精度の高い美少女フィギュアを作れる人がわんさかいるのに、その技術を使って日展で現代彫刻の賞を取ってやろうという意欲的な奴が何でいないんだろうとか、色々思うところが多いのね(笑)その辺もあってアイテムの価値観を揺さぶってやりたいと思って、ぬいぐるみのオモチャにロボットの機能がついたらどうなるだろうかなと。その連想が、主役メカ・オーバーマンの個性の「立ちっぷり」の元になってるんです。

【富野作品のキャラクターたち】

富野:突出したヒーロー像には、人を超えた一種の妖怪的な部分が見えてきて、僕はそういうったキャラクターを作れないと気がついてきたんです。「ダイターン3」の破嵐万丈すら例外ではありません。万丈に関してはヒーローにしたいと思った部分もあるけれど、結局そうはならなかった。もし僕が万丈をヒーローと捉えていたら、最終回でメガノイド打倒を果たした彼を、夕日に向けて胸を張って歩かせていたでしょう。そうは、ならなかったんです。
――その万丈なのですが、家族を奪われた悲劇の過去、怨念のこもる復讐劇、財力を駆使した戦い、サブキャラのポジションなど、あの主人公像は、当時の富野監督が「BATMAN」を原形にされたのでしょうか?
富野:僕は「ダイターン」当時「BATMAN」という作品を全く知りませんでした。従って万丈とバットマンには、何の関係もありません。
しかし世の中にこれだけ作品があると、どうしても偶然とは思えないほど似てくる設定の物語が生まれてくるケースといういうのはあるんです。というより、洋の東西、新旧を問わず、同じ人間同士が物語の普遍性を追っているから、そこに共感が生まれるし、異文化の映画や文学に接しても何か感じるものがあると考えています。
――御自分が創造した登場人物たちへの思い入れというのは?
富野:こう言うとファンの方には意外でしょうが、基本的にはありません。もちろんそのキャラが活躍するドラマを作っている間は、思い入れはありますが、それも普通の意味の感情移入ではなく、彼らのドラマの場における立ち位置をそれぞれきちんとしてやりたいという希求です。そしてそれはドラマの制作作業が終わった瞬間に、すぐ忘れます。
というより、僕はその忘れる努力を物凄くしてきた人間なんです。じゃないと次作に前作をコピーしてしまうんです。「ザンボット3」から「ダイターン3」「ガンダム」と明確にカラーを変えたのは前の作品を忘れるためでもあったんです。特に「ガンダム」以後は、もっともっと前の仕事を忘れなきゃいけないと思いました。それで実は十日ほど前に、公開以来初めて「ザブングル・グラフィティ」を観まして。ああ何て面白い設定だ、このアイデアを考えたのは誰だ、というくらい忘れているんです(笑)。
――小説「閃光のハサウェイ」や漫画「クロスボーン・ガンダム」のような後日譚の場合はいかがですか?
富野:「ハサウェイ」は、映像制作より小説執筆の仕事が増えた時期に、こちらから出した企画でした。でも現在では、内容に関しては全く覚えていないんです(笑)。
「クロスボーン」の方は長谷川裕一君と連携した仕事ですが、彼にかなりの部分を任せましたね。それで「F91」でのマイッツァー老の語る貴族主義という主題が「クロスボーン」の中には持ち込まれなかったんですが、これは新たな物語を構想する際に尺の問題でカットしたんです。「F91」の頃は、僕の作家としてのスキルが一番低かった時期の作品です。だからその余波で先に描かれた主題が継続しなかったかも知れません。一本の映画としても「F91」は先の「逆襲のシャア」に比べて、全体的に緊張感を欠いた仕上がりになってしまったと思っています。

【アナザーガンダム

――監督は「Gガンダム」以後のいわゆる「アナザーガンダム」を、どのようにご覧になっていますか?
富野:僕は、本当にアナザーガンダムを一切観ていないんです。
外野から見て「ガンダムX」が短命に終わったのは、それはMSのデザインにしろ、番組作品リリース上の戦略にしろ、送り手の側に「ガンダムしか知らない」という部分があったからだと感じました。
ですから、「∀」でシド・ミードさんに主役ガンダムのデザインを頼んだのは「X」までの結果を見て、彼に頼むことで国内のデザイナーに奮起してもらいたいという狙いがありました。ところが結果として、嫌いなものは見ない、興味ないものは見ないとカラに入ってしまって、ガッカリしましたね。

宇宙世紀と正歴世界】

――では今後、機会がありましたら、ふたたび宇宙世紀を舞台にした新作を作りたいとお考えですか?
富野:いいえ、僕にはその余裕はありません。ただし「∀ガンダム」の正歴世界でなら構想はあります。「ガンダム」の第1作以来、現実の二十余年の中で「宇宙世紀」というガンダムサーガが語られ続けて、その設定の中で僕以外の作家が作品を続々と作ってきたことにも意味はあったと思います。ですからもし、公式設定として宇宙世紀が1万8千年もの長い時間を刻んでいるとしたら、それこそ300人くらいの監督が、今後またその歴史の中でそれぞれの「ガンダム」物語を作っていっても、僕は一向に構いません。
――「0080」「0083」「08小隊」などは、どのように?
富野:アナザーガンダム同様、観ていません。先に言った前作のコピーを恐れるというのと同じで、僕は学者になる気も全くないんです。だから宇宙世紀世界の認識にも調査にも全く欲求がない。僕は、物を作る事にしか関心がない人間なんです。
でも「∀」以後の正歴世界は、それこそ今の僕が原作者と言える立場ですし、そこでの新たなドラマをいつか作ろうと思います。そしてやがてはその新しい正歴の物語が、「1stガンダム」の前の時間軸に位置するかもしれません。

【メディアとジャンルについて】

――富野監督は「ガーゼィの翼」以外OVA担当の機会を、ほとんどお見受けしないのですが?
富野:僕はOVAより、TVや映画の方を、作品発表の場としたい欲求がはるかに強いんです。TVはオンエアという形で広汎な受け手の目に触れますし、映画は劇場に行って鑑賞する観客の欲求に応えるショウです。本来の芸術のありようとしては、TVや映画こそが本筋に近いんです。もちろん製作状況の利点など、ビジネスとしてのOVAに関心がないわけではありませんが。
――では無条件に機会を得られれば、富野監督が作りたいのは、本来はTVシリーズですか、映画ですか?
富野:それはもう、劇場作品でしかありません。確かにTVに比べて尺がないですが、その尺のなさという前提を乗り越えられない人間は、映画を撮っちゃいけないんです。観客に1時間半から2時間半という間の着席を強いるという現実を意識しながら、同時にそんな受け手が求めるエンターテインメント性に応える。映画とはショウとは、本来送り手にとって、そういう厳しいものであるべきなんです。
TVシリーズも連続ドラマを構成することで物語の長編性を貫けますが、同時にたかだか1クールの番組でも、どうしてもライター側の方からその1クールの緊張が保たない、と言って来る場合も多いんです。
――「SDガンダム」などのいわゆるSDものに、御関心はないのでしょうか? 実は富野監督なら何かスゴいものが出来るのでは? と以前から期待があるのですが……。
富野:いやいや僕は本当は、ああいうSD作品が大スキなんです。ところが「ガンダム」関係の人は、僕にああいう仕事を回してくれないんです(笑)。当時、僕は「SDガンダム」の初期1〜2本を見て、これはどうも面白くないとコメントしたんです。それは純粋な感想だったんですが、これが誤解されて「富野はSDが嫌いらしい」と定評になってしまったようなんですね(笑)。実際には、SDものの仕事をやりたいと思っています。
――最後に現在の「キングゲイナー」を含めまして、映像作家・富野由悠季による今後の抱負というか、展望をお伺いしたいのですが。
富野:本題の一つとして、ルーカスの映像もスピルバーグの映像も打倒したい、というのがあるんです。これは冗談でもハッタリでもありません。僕にとっては、極めて現実的で真剣な目標です。
具体的な話をすれば「∀」も「キングゲイナー」もスタッフは、この人は僕の番組の作り方を理解してくれる人間だろうという「肌合い」を見込んでお願いしています。逆に言えば僕が見渡す限り、僕の番組の作り方を吸収しよう、盗もう、勉強しようという意欲と相応の能力のある方は、状況の許す限り集めました。その中でもさらに。自分の存在をおびやかすようなスタッフが、常に2〜3人は欲しいんです。この年ではルーカスなんかを倒すには、もうチームワークしかないですから。
敵は、目標は、高い方がいい。じゃないと映像文化的にも、日本は韓国や中国に負けちゃいます。両国の映画界の熱気を見ながら、何クソっ、日本のフィルム作りの意地を見せてやると言うようなスタッフたちと、作品を手掛けていきたいんです。
(2002年8月9日・上井草にて)

今の目で見ると、「なお」と付けたくなる要素多数。いちいち挙げませんが。
正暦次作構想は、おそらくリングG〜リコンギスタ案までを指すのではなかろうか……とも思ったが、企画の着想点が違う。
1st冒頭へ繋がる部分は、(御禿の意図に反するが)現状のガンダムサーガ設定に存在する「複数回の西暦」にも合致する。