オーバーマン キングゲイナー 5.1chDVD-BOX 富野インタビュー

―――今回のDVD-BOXは音声を5.1chで再構成していますが、この作業は監督としてどのようにとらえていますか?
富野 5.1chにしたことそれ自体に大きな意味はないと、僕は思っています。『キングゲイナー』の場合はもともとテンションの高い作品ですから、テクニカルな問題で左右されたりブレたりするようなことは何ひとつありません。ですが、オンエアを前提していたときとは違いますから、音自体はきれいになっているし、全体のまとまり感はよくなったと思います。僕自身はあくまでも『キングゲイナー』という作品の持っている魅力は、押せ押せムードのようなものだけで楽しめて、変なシリーズだね』と笑って観ていられるところにあると思いますから、見どころはむしろそこだと思います。
―――久々に作品をご覧になって、改めて作品の力を実感したわけですね。
富野 はい、それについては今回の作業を通じて、作画監督吉田健一さんがいてくれたおかげの見やすさということを再認識させてもらいました。絵の質感に関していえば、映画版の『新約Ζガンダム』と同じくらいのレベルにあると思います。ただ、僕は監督であると同時に原作者の立場にもたっているので、お話をつくる視点で考えた場合、評価論はまったく違ってきます。あくまでもルックスとして、アニメとはこうあるべきだろうという作品になっていると思いますし、若い方には「lこういう気分を忘れているのではないですか」とお伝えしたうえで、しっかりとターゲットとして見据えておいていただきたいと考えています。
―――『キングゲイナー』はキャラクターがどんどん立場を変えたり、出てこないなと思っているキャラが知らん顔で再登場したり、ある種の鷹揚さ、作品としての自由度の高さを感じました。それは意識されていましたか?
富野 意識したというというよりは、そういう方法論を開拓したかったのです。キャラクターがたくさん増えてしまったのも、そのためです。新作にはいった時点ではすでに『マトリックス』のようなCGの究極の形ができていましたから、後追いをしないようにするためにも不細工なままのアニメでいい。その一方で、CGワークに関してはスタジオが慣れてくれなくては困るということは伝えました。結局、アナログ的なところを残していくためには、人の皮膚感を生かすしかないのです。そのことにこだわってしまったことがある意味で失敗でもあったかもしれませんが、それは最初に設定したテーマdえもあるので、反省はしていません。反省があるとしたら、あくまでも次の仕事のための反省で、狙い自体については間違っていないと思いました。

キングゲイナー』から『新約Ζガンダム』へ全部つながっている

―――大勢のキャラクターが最終回に至り、今おっしゃった皮膚感、肌の触れ合いを通じてそれぞれ浄化されるところが印象的でした。
富野 せめて、そのくらいのことを観てくださる方に感じさせなかったら、つくる意味がありません。あの最終回は、そのように気持ちのいい終わり方だとほめてくださる方が多いのですが、第1話と最終回だけをつなげてみると、自分でもよくあそこにたどり着けたものだと思います。作品として弾みをつけて作っていくと、そういうこともあるのだと教えられました。逆に言えばそれが見えるからこそ、もっとちゃんと作りたかったという欲も出てくるのです。
―――ゲイナーもゲインも、それぞれ悲惨な過去を持っていますが、過去に引っぱられずに乗り越えていく。その物語構造が後味のいいラストにつながっていると感じました。
富野 この種の作品では、過去に引きずられるような展開になることが多いのです。もっと違うこともできるぞいうカウンターを見せたい、そういう新しい方向性を獲得していくことも大事なテーマでした。そこさえクリアできれば、ほかは多少問題があってもいいだろうとさえ考えていました。
―――第19話のゲインの回想シーンは衝撃的でしたし、クライマックスに向けてゲイナーがオーバーデビルに取り込まれてしまう展開はハラハラしました。それをまた最終回でひっくり返す。逆転また逆転になるところも面白いですね。
富野 まさにそういう見せ方をしたかったのです。『キングゲイナー』では改めて「劇を組み立てる」ということを枷として設定しました。その理由は、僕にキャリアがあり過ぎるからです。慣れ仕事に陥らないよう、かなり高いハードルを常に自分で用意しなければなりません。『キングゲイナー』では、これまでやってこなかったこと、つまりキャラクターを一人も殺さずに終わらせようと決めて、そのためにしんどい思いをしながらも、逆転劇を積みかさねていきました。それができるスキルを獲得できたからこそ、『Ζガンダム』の劇場版もまとめることができたと自負しています。
――新約『Ζ』のあのラストシーンは『キングゲイナー』があったからこそ生まれたということでしょうか?
富野 まさにそうです。これまでは自分で意識して作劇を構築してきたという感覚がありませんでした。しかし、『キングゲイナー』ではまだできると感じて、だったら『Ζ』も作れると、そんなふうに全部つながっています。僕の場合、1本ずつ作り捨てにするのとは違う環境で仕事をさせていただいているおかげで、そうした修練を積む機会が得られています。これについては、本当に感謝しています。

人は物語に情の流れを求めている

―――近年の監督の作品は、優しい手触りのようなものを感じます。『キングゲイナー』でも一見キツそうなキャラクターがたくさん出てきますが、それぞれ会話のやり取りは温かくて心地よいですね。
富野 アニメはあくまで絵という記号でしか表現できません。そこに音声を重ねることで、ふつうのドラマとして作れないかということは意識しました。ライブや舞台をやる時と同じ気持ちを導入したいと考えたのです。
今はCGを使えばあらゆる絵が作れるし、鮮やかに動かすことができます。しかしエンターテインメントとして考えたとき、お客さんは何を求めているかといえば、そこに生きている人間たちの肌合いしかありません。どんなに鮮やかな動きも楽しい色でも、パッと見たらそれで気が済んでしまうのが人間です。それを10分、30分、1時間半と続けて観てくれるのはなぜかといえば、観ているのはドラマだからです。
―――ドラマとは、人の情の問題ということですね。
富野 そうです。人の情がどのようにして流れているか、観客が興味をもつのはそれだけです。僕自身はアニメの仕事しかしてこなかった演出家であるために、ドラマ的なものを記号としてとらえ、記号論的に展開する悪いくせを持っています。その部分をもう少しだけ皮膚感の伝わるものにしたいと願っています。だからこそ今は優しくならざるを得ないと思います。ただし、同時に「痛い」「怖い」といった表現も正確に伝えていかないと、ただ優しさを描くだけでは長編作品は保ちません。大人に近い年齢の方に見てもらいたい作品、大人になってから見返しても「やっぱり面白いじゃないか」と思ってもらえる作品をつくるためには、情が流れている演出、情が流れる物語にするしかありません。『キングゲイナー』の場合も、それを徹底したつもりです。
―――そうしたテーマや目標は達成できたのではありませんか?
富野 確かに今しているお話は、5.1chの再ダビングをした結果、BGMや効果音の入れ方もオンエアとは少し変わっています。当時の反省をもとに整理したり修正したりして、より聞きやすく、見やすくなったと思います。ですが、実はその結果、どうしても物語偏重になって、お祭りの囃し立てるような気分が薄れたかもしれないとも感じます。
キングゲイナー』に関しては、僕たちは全26話分のシリーズを保たせるための太いストーリーラインが必要だと思い込み過ぎたのではないか、お祭りなのだからもっと無責任に作った方が良かったのかもしれないとも感じました。もったいないと思うのは、その部分です。要するに生真面目に作りすぎたと思いました。ここまで弾んだのだから、弾んだまま突っ走ってしまえば良かったのです。なぜエクソダスをするのかといった理屈の部分に引っぱられてしまい、その説明をしきれないまま終わっていく、ある種の中途半端さを見返していて感じました。
―――観客側からすれば、十分にぎやかで楽しい作品だと思いますが……。
富野 いや、それはむしろ見る側がきちんと批判として言ってくださった方が良い部分だと思います。人物が多いと一見にぎやかに見えますが、それはお祭りだけではなく、ただガヤガヤした猥雑なものに過ぎないのです。例えば一人のキャラクターを出したとき、それによって発生するエピソードを追えば、そのガヤガヤ感は消えていきます。しかし『キングゲイナー』では、「こんな人物が出てきました」というエピソードを作らずに、ずっと全体の話で押していく構図があります。これは、見る側に混乱を与えるだけではなかったかと、改めて思いました。

観客が面白いと思ってくれる作品を作るしかない

―――さて、5.1chサウンドの作品は、富野監督も経験を積まれているので、もしそれなりの演出論があれば、ぜひうかがいたいのですが。
富野 5.1chだからと言っても、特別なことはありません。もともと映像の問題と音の問題は、実を言うと全く別ものです。そして映画の場合は、画から想像できる以上の音構成は、できないと思っています。画がこうだからこういう音がいる、ここではドラマがこういう雰囲気だから、こういう音。でも、「ここでこういう音が欲しいね」と言っても、「それって画の中にありませんよ」と言われたら、それまでです。
例を一つ挙げましょう。室内に人が入ってくるシーンで、画面にドアが映っていないことがあります。そういう場合、ドアがオフで開く音が入って……という演出になりますが、これが実は大問題なのです。
今取材をしているこの部屋も必ずドアがあって人が出入りするわけですが、これがフィクションの場所ですと、大問題が生じます。セット撮影やアニメの美術で描いた部屋だと、「ドアのない閉じた空間」というものがあり得るのです。しかし人物がフレームインして来た瞬間、ここから湧いて出てきた人物という異常な設定でもない限り、嫌でもドアを開く音もしくは閉じる音をオフで入れない限り、部屋に出入りをした表現にはならないのです。
このように、画の中に表現がないものには、音が付けにくいという関係性をよく理解する必要があります。その上でまず画の演出をして、次に音構成をしていきますので、モノラルでも5.1chでも基本的なイメージはまったく同じです。
――では、最後に改めて再現された『キングゲイナー』について、まとめの言葉をいただけますか。
富野 「キングゲイナー」は作品として“押せ押せ”で行ってしまい過ぎた部分や、キャラクターが多すぎてうるさいところが目立ちました。とは言いながら、『マトリックス』以後のCGにも汚染されず、どこかTVシリーズという枠を守りながらも、なんとか騒々しくも楽しいお祭り騒ぎにしていこうとした心意気があります。その点に関して言えば、無駄な仕事だったとは考えていません。クラシックな味わいになった部分があり、そこを礎にしてまた次の何かを作れるかもしれない自分も見えてきました。今回のDVD-BOX化にあたり、改めて自分の仕事を見つめ直すことができて、本当に良かったと思います。
具体的には、自分の作劇論の問題点がより鮮明にわかりましたので、直していきたいことがひとつ、もうひとつは、慣れ仕事にするとここでミスをするというポイントもたくさん見つけましたから、そこに気をつけることです。結局どうするかは簡単な話で、初心に帰るしかありません。つまり、観客が観て面白い作品を作る。それだけです。スタッフ側が面白がっているような作り方はしない。そうした反省をきちんとさせてもらえたので、今回のBOX化の再ダビング作業は、次に繋げる意味でも本当にありがたかったと思います。

最後の5.1chでの違いという質問は、藤津氏の聞きたかった答えとは違うんじゃなかろうか。
聞きたかったのは今回新録された飛行音等付け直しになったSEへの演技的な口出し有無とかなのでは。