ザ・スニーカー01年04月号 スニーカー文庫「オーラバトラー戦記」刊行記念 富野由悠季スペシャルインタビュー

オーラバトラー戦記」の直しの作業をやりながら改めて自覚したんだけど、僕はいざ書きはじめるまで、頭の中に何もないんです。ストーリーも、構成さえもない。それは、全50話のテレビ番組を作るという、言葉にすると簡単そうだけれどとんでもない物量の仕事をこなしてきた中で身につけた癖で、スケジュールが常にタイトな仕事って、考えながらなんてとてもやれないんですよね。書いた瞬間から考えるという作業を始め、その文章を行きつもどりつしながら考えて、また書いていく。そうして物語を創るんです。
書き上がった作品のことを、まったく覚えていないのは、だからです。今回、まるで他人の作品のように「ええっ!? ここでこいつが死んでしまって、この後一体、何を書いてあるんだ!?」としょっちゅう考えながら、書き直しています。
10年以上の時が経ってくれて読み直していると、当時の自分のうぬぼれようが見えて気が滅入るのよ。ここ数年、自分の立ち居様とか仕事のしかたとか、仕事と人間の関係というものに、かなり気をつけていたということもあります。原稿を読む前には、そういう観点での手直しはするべきだろうけども、全体的な直しはしなくてすむと思っていたのね。ところが手をつけてみたらとんでもなかった。
作品というのは作家の個性が顕かになっていていいものだろうと思ってきたけど、それは違う、僕程度の人間が個性を出しちゃいけないんだってことがわかったんですよ。みなさんはこれを聞いて「えっ?」と思うだろうけど。
つまり、今言われている「個性」って「作家の感じる・作れる範囲」のものでしかないんです。以前の僕は、すべてを自分の裁量でやろうとしすぎた。でも今は、むしろ僕のようなスタジオワークの人間は、そうではないやり方のほうが、より良いものが創れるんじゃないかと思うようになりました。成長したんですね。
そういう意味で、ノベルズ版はあまりにも稚拙な部分が多すぎる。瞬間芸的な時代的な思いこみや、時代の感性による書き方だったかもしれないと、自分自身を客観視できるようになった。その上で手直しをしていくと、やはり自分の能力の範囲でしかやれないんですが、だけどこの狭さはうぬぼれていたときの狭さとは、きっと違うだろうと信じています。
そういうことを思い知らされて、自己嫌悪に陥りながら仕事していると、勉強になると同時に、それを承知した上で書き直せるということが――「書き直し」というより、ほとんど「新作書き下ろし」という気分なんだけど――ベース・ストーリーを、かなりおもしろがっています。
その上で言ってしまうと、少なくとも「オーラ」に関しては、一番始めの思いつき、「発意」の部分では、あまり間違わなかったかもしれない、もしかしたら凄い作品かもしれないと思えます。
僕が知ってる例で言えば、ダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」って何度も改訂しているでしょ。何度も手を入れながら、ずっと物語と格闘してるんだろうなと想像できる。キイスって決して文章は巧くなくて、ただ発意の部分がすごいからこそ、ああやって書き継いでいるのよね。逆にいうとそれができるくらいのパワーで愛せる作品でないのなら作品は作っちゃいけないんじゃないかとすら思えます。
だから僕も、格闘していかなければ……。
バイストン・ウェルという世界を思いついたきっかけ――そんなものはありません。「聖戦士ダンバイン」はロボットものをやりすぎて、すっかり嫌になって何か違うことがやりたかったの。それで舞台をファンタジー世界にしようと思いついた、それだけ。でもどこかで現実と繋がっていてほしかったのね。
そこでヒントになったのは井戸です。
バイストン・ウェル」は「近くの石の井戸」という意味なんです。釣瓶――と言っても若い人はわからないだろうな。井戸の中にたらした桶を上げて水を汲むイメージから、「物語を汲む」。
「井戸の中に何かがいるかもしれない」という考えは、特別にオリジナリティのあるものではなくて「王さまの耳はロバの耳」という民話では、悪口を叫ぶのは本当は穴ではなくて井戸なのよ。井戸というのは基本的に人にそういうイメージを喚起させるんだろうなと思います。
そのとたん、バイストン・ウェルという異世界の階層論が全部できちゃった。井戸だから涌き出すものがいっぱいある。そういうサムシング・ワールドがあっていいだろうと。「ピーターパン」に出てくる島は「ネバーランド」っていう名前、「ない島」という意味なんです。
つまり「ファンタジー」というのは、すべてが「人間の想念」としてあるものである。でも、現実にはわれわれの五感では感知できないものというのがファンタジーではないのかと思った瞬間、恐獣が出てくるような地底世界があっていいんじゃないかって考えました。あとは好きにやっていいんだと思って本当に好きにしちゃった。問題はそこで「好きにしすぎた」ということ。タガをはめなかったというのが、作劇上、いけなかったのです。
1巻でショット・ウェポンに言わせているけど、ダンテの「神曲」や、仏教の世界観とかの階層的異世界をもっと勉強しておくべきだった、少なくとも頭の中においておくべきだった、という反省があります。宗教的な恣意をもって、そういう世界を構築した人たちがいるということや、自分の中に規範を持ち得ようとしたことを承知するべきだったのです。
「ファンタジーを創る」ということから少し離れるけれど、バイストン・ウェルという、現実世界でいうと中世のような世界での生活のさまや戦いざまを描く時たとえば現実の中世の人々の食べていたものや、封建時代の感性を知っていたいとも思います。
こんな風に、「オーラバトラー」をやるうちに、勉強しておきたいことがどんどん出てきて、正直言って困っています。
「オーラ」の主人公ジョクは、「ダンバイン」のショウ・ザマで描ききれなかった日本人的な感性を出そうとして立てたキャラクターです。
彼に託している想いと言えば――。
僕は基本的に働き者じゃないし、仕事の手も遅いんですよね。だから本当は、そんな僕が理想を言っちゃいけないらしいと気をつけました。
だけど、ただひとつ言えるのは、人間って自分のできることしかできないじゃないですか。そのできることを半歩でもひとかかえでも増やしたいと思ってるんでしょうね、どこかで。
もっと言っちゃうと、簡単なことで、お金持ちになりたいんですよ。それから有名になりたいんですよ。きっと。幸い僕は、こういうキャリアを持てたおかげで、多少はそれを味わえている。だからこそもっともっとと思っている欲深さがあるんです。
本当に才能がある人ならば、労せずにそういうものを手に入れられるかもしれないけど、ぼく程度の人間が手に入れようとするなら、もっと勉強して働かなくちゃ、だめなのよ。
そんなふうに、ぼくの究極の目的はものすごく下世話なんですよね。仕事を極めようとかいう衝動がどこにもないの。本当にそれだけが目的なの。
もっとわかりやすく言うとね。好きなおねえちゃんが、40代 30代 20代のそれぞれ2〜3人くらいずつ側にいてほしいっていうのが僕のハーレム論なんだけどそれを達成するためにどうしたらいいんだろうかと考えたら、器量と能力というものを広げるしかないとわかったんです。
そのときに、大事なことがあるんです。つまり、うかつな愛人関係や不倫関係ならばともかく、そういう女性が6人いたら大変なわけ。そうじゃなくて、好きになれる女性が、「ずっと側にいてくれてもいいや」って思えるような人間関係を成立させたい。そのための度量やルックスや能力というものが、見合う自分でなければ女一人ついてこないし、ましてや男なんかもっと寄りつかない。そういう人が寄りついてくるような自分を手に入れない限り、達成できないんです。
お金だって、一時金を手に入れるんじゃなくて、死ぬまでお金持ちでいたい。これも、度量とか仕事のありようと関係しています。有名になることでも、一瞬テレビに映るだけではなくて、「あいつはいいやつだよね」「いい仕事をしているよね」っていう評価がほしいんですよ。
そう思ったはずなんだけど、これくらい明確に言葉にできるようになったのはごく最近のことなんですね。これを今の気持ちで30代に言えていたら、今ごろ本当にハーレムを作れていたんじゃないかな。それが作れなかったっていうのがつまんなくて、悔しいんです。
この年になって、生かされている間にできることがあるだろうと思うんです。それをひとつでも広く、大きくやってみたい。そう思いながら、表現をする場所に立ち返って、漠然とした言い方だけどそういう息吹みたいなものを吐き出せてその息吹に触発されただれかが立ち上がってきてくれるかもしれないと期待してそういう作品を自分の人生の中でひとつでも手に入れたいと思っています。