朝日ジャーナル 88年04月15日号 【座談会】“新しい意識(ニュータイプ)”がめざす、「場所」

ラストエンペラー』は“隣の芝生”

富野 僕は、映画は数は見なくって、気に入ったものをずっと抱えているわけです。自分の原点的な映画というと、やはりモノクロ版の『キングコング』なんですよね。その次が不幸にして『2001年宇宙の旅』しかない。
日野啓三 なるほど……。
富野 確かに大学時代、(映画の)ハウツーは勉強しました。でも第一次安保闘争が終わった後、松竹ヌーベルバーグがいろいろやっちゃった後でしょ。これ以後、映画でやるといったらアナーキーかニヒルしかないという時代で、つらいですよね。それに僕の卒業する前の年から映画五社が新人を一切採用しなくなった。そこで虫プロに入って、『鉄腕アトム』のテレビ・バージョンをやったんです。あれはとてもよかったですね。ただ、『ラストエンペラー』なんか見ちゃうと、やっぱり悔しくてね。隣の芝生はよく見えるっていうか(笑)。
日野 バラードというイギリスのSF作家の新作の小説で『太陽の帝国』というのをスピルバーグが映画化したのが今始まっている。その原作の方を読んでから映画を見たんです。
富野 どうでしたか……?
日野 映画って何て不自由な形式だろうと思ったんです。映らなくてもいいものが撮れちゃう。あの小説の中で僕が一番迫力を覚えるのは、廃物ですね、人間の死体を含め、あらゆる壊れたものが散乱している。その廃物感覚というのが実にリアルなんです。ところが映画では、壊れた戦車や捨てられている機関銃を撮ろうとすると、空が映って雲がふんわり浮かんでいたり、草が青々としていたりね。
佐々木淳子 それって演出にもよるんじゃないですか。アニメだったら自分で書けるし……。
富野 そして削れます。その意味で小説に近い。ところが、全然別の技術論的な意味で、アニメもとんでもなく不自由ですね。仕事がたくさんの人の手に渡るわけだから。本当は全部作りたい、書きたい、描きたい。
佐々木 でも、ひとりでやってたら一生かかりますね、一時間半のものでも。
日野 僕が富野さんの仕事に一番ショックを覚えたのは、『イデオン』からですね。あそこに富野さんの人間観がはっきり出ている。文明とか文化というものを作っているのは、個人の意識的な意思よりも、もっと水面下の定かにはとらえがたい何かだ。それが愛とか建設とかというプラス価値の形をとってあらわれることもあるけれど、ちょっと間違うと、憎悪とか破壊のものすごいエネルギーになる。それ自身はいいとも悪いとも言えない意識の力……。
富野 だけど、それも僕の本当の主義主張とは違うんですよ。僕はなまじ松竹ヌーベルバーグあたりにとても腹が立った人間だから、子どもに見せるものでは、アナーキーニヒリズムだけは与えちゃいけないと思ったんです。例えば、「愛を信じましょう」というところにもいけないんですよ。
日野 同感です。
富野 愛という言葉を使わずに、なおアナーキーニヒリズムに陥らない方法ってないのかというのを、まず考えたんです。しょせんこれは「協調」しかないと思った。一人の人間、つまり自分が生かされているときに、右と左に人がいる。その人の存在を認めないと自分は生きていけない。場合によってはお父さん、お母さんも認めなくちゃいけない。僕の中で父母というのは憎悪の対象に近いところがあるんです。けどね、認めたくない存在というのは、逆に言うと、認めるようにしなくちゃならないんじゃないか、と思う。
さて、協調というものをどういうふうに描くかと考えて、チームワークのとれた物語にしようと。ロボット物がチームワーク物になっちゃった。
しかし、『鉄腕アトム』から『マジンガーZ』、合体ロボットの一番象徴的なことは、そのチームワークです。すると、それを見ながら、今後は、よせやい、と思った。そう簡単にチームワークができてたまるかと。
そうしてガンダムにきたわけです。ここで、もうひとつ大問題が出てきちゃった。子どもという主人公がロボットを操縦しなければならない。ここで、おれはヒーローだから、というふうに言って操縦させることは簡単だ。だけど、それを言わないで乗せる方法がないものかと、これを半年考えたんです。
それで結局、人間の潜在能力にかけようというふうに決めたんです。超能力者・エスパー物にはしたくない。そこで、普通の人間の中にある絶対潜在力を信じるという仮定さえすれば、場合によっては何をやってもいいんじゃないかと思ったわけです。実はニュータイプという単語も途中で作ったんですよね。テレビをやってる途中で、「要するに、トミちゃんね、アムロは何で操縦できるの?」という話になっちゃった。
日野 実に論理的だ(笑)。

アニメ作りながら考えた新しい人間像

富野 うーん……だからさ、潜在能力が高いのよねって。その潜在能力というのはどういうことなのかといったら、人に共通する意識であろうと。イデオンの仕事を始めたときに、そこのとこををポンと入れたわけです。イデオンをやったおかげで、ニュータイプというものをつかまえることができた。
ニュータイプっていったい何なのといえば、人の目指すべき形、「誤解せずに理解し合える人たちのこと」というふうに出てきたわけ。だけど、これではまだロボットを操縦するところまでいかない(笑)。
もともと人間というのは状況がものの形であらわれていれば、それを瞬時に理解できるだけの能力というのを本来持っているはずなんだ。それが現れないのは、現在の人間が余分な“知恵”というものを持っているからだ、と。五千年程度の知恵を“知恵”だとする人間の傲慢さが、真なるものを見えなくさせている。
佐々木 最初からニュータイプというのがあるのかと思っていた。
富野 僕は、それほど利口じゃないし、神ががってもいないから、やっぱりそういうふうに目つぶししていく以外にない、現実の状況論を。アニメ作品をやらせてもらっていることと、その中でニュータイプ論を作っていくのと、僕にとっては全く同一です。ニュータイプという言葉自体は嫌いなんですけどね。俗っぽい。本当はもっと今っぽくしたかった(笑)。
佐々木 結構、素敵な言葉だと思いますけどね。
日野 新人類よりはいいでしょう(笑)。だけど、エスパーにいっちゃいけないというのは本当にいいですね。エスパーという仮定をそのまま使っちゃうと、何でもできるんだ、タイムトラベルだろうと、テレポーテーションだろうと。程度の悪い忍術と同じになっちゃう。
富野 ロボット物だったからできたんですけれども、とにかく、この足かせがあるために、作り手が好きに作らないですむわけです。
日野 ところでロボットというのは、もともとカレル・チャペックが小説の中で創造した“ラボータ”ですね。ラボータはチェコ語の「労働」、すなわち「奴隷」。だから、奴隷制のあったヨーロッパ文明のイメージがそのままのわけね。でも、富野さんが作られたモビルスーツ、これは人間が命令してこき使う奴隷じゃない。
佐々木 ロボット自体に意識がない、スーツだから。
日野 ロボットの頭の部分に人間が入り込むわけでしょう。そして、人間のサイキックパワーと連動していく。
僕は、コンピューターがどんどん発達して、人間と同じレベルの意識になるだろうというのはちょっと短絡的だと思うんですね。要するに自殺できないロボットはダメなのね、自己否定を持っていない意識は本当の意識じゃないですよ。
富野 ロボットの発達によって、人はもっと余暇を楽しもうという考え方がありますしね。だけど人間がもし本当に暇になっていったら、人は何をやったらいいのか。それへの解答をだれも持っていないのに、技術開発するということにとても疑問がある。
佐々木 文明はメチャメチャ進歩しちゃったんだけれども、それの使い方はまだ……。
富野 全く知らないに近い。
佐々木 ここ200年ぐらいですよね、電気が発明されてからどんどん進歩してきて、原子力まで……。地球なんか何回でも壊すことができますからね。それをコントロールすることができれば多少はいいんだけれども、今はその意識がないから。
富野 でも、残念なことに、あと4、500年はその話にポンと行かないのよね。
佐々木 4、500年して地球があるかどうかわからない。
一同 それもある(笑)。
日野 映画では最後の方でアムロに、「インテリは革命を起こすけど起こったあとは何もしない」と言わせていますね。
富野 少しそういうことをはっきり話してもいいかなと思った。今回は子どもよりむしろ大人に見てほしいんです。僕はやっぱり、大人に問題があると思っていますから。
一同 (笑)。

敵役のシャアのほうが正しいのでは?

日野 ところで、今までのガンダム以上に、シャアという人間像が、本当の主人公格になってきてますね。
佐々木 ついシャアの方に感情移入してしまった(笑)。
富野 これは前のガンダムからあったんですけども、基本的にはシャアの方が正しいと。今回ようやく、関係各位の偉い方が言ってくれましたもの。どちらかというと、シャアの方に一理あるなって。
一同 (爆笑)。
富野 これをつくってよかったと思います。
日野 それと、嫉妬の問題、女の人が絡む……すごくドロドロっと濃い感じがして……。全編、女も男も嫉妬ばかりするんだよね(笑)。
富野 キャラクターはハイテクな方にいっているんですけど、出てくる人間たちが……。
日野 ローテクだ(笑)。
富野 なぜそうしたかというと、プラスチックな人間関係があると思っていないからです。やっぱり人間っていうのは基本的に生々しい。アニメが好きな人のほとんどが、むしろそういう生のにおいを嗅ぎたくない。
日野 すると、あのどぎついまでの人間の描き方は、今おっしゃったような、嫉妬さえできなくなっている人たちへの一種の……。
富野 はっきり言って、製作する側と、それからアニメ・コミック好きな客に対して、こういうものから目をそらしちゃいけないよ、という意識がかなり働いて、やっています。
日野 特に今回はクェスという女のコがほとんど主導権を握っているようですね。
佐々木 あのコ、そばにいたらすぐに嫌われるんじゃないかと思って。
富野 一方的に自分の思い込みだけでやっちゃうという。僕は、クェスを肯定していません。ほんと正直つらかったんですけど、スタッフの中に「監督、何でクェスを殺しちゃったんですか」なんて困った質問をする人だっていたんですよ。
日野 僕は彼女が死んだとき、バンザイと思ったけどね。
佐々木 私も、やったなと。
富野 僕が言ったのは、おまえら自身がクェスなんだからね、って。こういうのを一度見とけ、これぐらいイヤに見えるんだ、って。
日野 でも、あのコ、高い能力を持ってるのね。
佐々木 それがリアルですね。怖い。
日野 今度の作品の中で、ニュータイプじゃないのに、強化訓練を受けて準ニュータイプ的になった人間、あれはおもしろいですね。なかなか皮肉な目だという気がしたけど。
富野 ひとつの教育論も含めてあります。ある作為を持った教育が、人を完全に育てることができるわけがないという。
日野 富野さんがずっとやってこられた仕事の中に、新しい意識、あるいは意識の変容というテーマがありますね。昔なら、ひとりで30年座禅組んで、自分の意識の中を探索して、という方法もあった。選ばれた偉い人ね。でもこれからは、さっき富野さんがおっしゃったように、われわれのような普通の人間たちが協調して、一人ひとりよいも違ったレベルの能力がみんなから出てきたら、それが新しい意識じゃないかな。
全体主義っていう意味じゃないのよ。人間同士の協調があり、機械との協調があり、あるいは自然との協調もあるけれども、そういう新しい交感の場を広げていくことで、今までにない意識が出てくる……という考え方もあると思うんだね。
富野 例えば、個人の私財を投じてできる研究施設の新発明というのはなくなっちゃって、基礎研究をする段階で膨大な資本投入をしなければならないために、個人が特許権をとれるものといったら実用新案ぐらいしかなくなっちゃったというのが現代ですね。あるいはログハウスを森の中に造るのに、プリンスホテル系と提携しなければならないとか(笑)。だから、人の能力論とか個性論というのは、今までとちょっと違うフィールドで考えなくちゃいけないんじゃないでしょうかね。
日野 ハハハ……(笑)。
富野 そういうことから今ほとんど逃げられないでしょう。捕鯨禁止運動でもウーマンリブ運動でも何でもそうです。これは個人論では乗り越えられない。どうしたらいいのかなあ。僕は、答えがわかりませんが。
日野 それはまあ、僕ら(文学者)もそうだけど……。
富野 そりゃ見つけたいですよ(笑)。人から、ヒトラーみたいだなんて言われたっていいから、本当にそういう方法があったらやってみたい。

「集団の協調」から新しい思考法が……

日野 アムロの側がいるでしょ。一作目で、ホワイトベースに乗ってた連中。彼らはみんな素人なんだね。それがある程度協調しながら一つの意思を持っていったわけね。シャアっていうのは常に単独者なんだよ。ヒトラーみたいにみんな集めて演説してるけど、ものすごく醒めてる。そういうシャア的な生き方と、アムロのような生き方と、両方ともあるんじゃない?
富野 この解答が見つからないと、きょうは帰してもらえないんですか。
一同 (笑)。
日野 僕はやっぱり人間の意識というのはまだ十全に開いてないと思ってる。何か重苦しく枠をはめられてるし、自分で自分を縛ってる。例えば時間と空間なんていうのも僕の思考法ではどうしても別々になっちゃうし、物理的エネルギーとオーラの力の絶対連動しない。
ただ、それがいつかできるんじゃないかと思えることがふっと起きるんですよね。有名な“100匹めのサル”というたとえがある。同じ群れの中で99匹までが変化すると、残ったもう1匹までも……。
富野 変化しちゃうと。
日野 「変わるべくして変わる」というときにきていると、直接に教わらなくてもいっぺんにひろがるというのね。“閾値”という考え方。あるところまではずっと量的にいって、ふっと質的に飛躍する、そういう特異点というのはやっぱりあるみたいね、人間の意識でもそういうことがあるんじゃないかと思う。
富野 さて、人間の統合した意思はいったい何になるのか。一つのエンディングがあると思うんだけれども、別な場所にしか行かないんだよねという……。
日野 別な場所というのは?
富野 クラークが『幼年期の終わり』で書いていますけど、地球っていうのは今日までが幼年期で、意識がそれなりに育ったから、これからは宇宙を旅しようと。行先はもう一つの同じ場所。
日野 例えばイエス・キリストが2000年前に「神の国は近きにあり」と言ったときに、多くの人はローマ皇帝が倒れてユダヤ人が支配する国が33年後か何年後かにくると思った。でも、彼が言ったのは、今ここで意識を変えれば、こここそが神の国だということなんだね。
つまり、いまニュータイプになれるんだと。輪廻というより、ラセンだね。もとへ戻るわけじゃあない。
今、ここの重層性みたいなものね。今ここで新しい層を活性化することだと思うんだな。ベイトソンのイルカの話、ご存じですか。笛を吹くと、イルカが水面に出てきてヒレでピシャピシャとたたく、そうするとエサをもらえるわけ。あるとき、人間がルールを変えた。イルカはわからないから、出てきてこれまでと同じにたたいてもエサをもらえない。14回目、その雌のイルカはむなしくたたいた。14回目のショーが終わったときに、急になにか、わかったぞ、という顔をして、うれしそうに浮き浮きして泳ぎ出した。で、15回目に上ってきて、今までやらなかった芸を3つやった。それでエサをもらえたと。
毎回違った芸をやらなきゃいけないという新しいルールがイルカはわからなかった。14回なやんだ末にそれに気がついた。僕は非常に感動しましてね。

「15回目のイルカショー」はいつ始まる

富野 人間の歴史でいえば、3000年かかって4回か5回、いまヒレで水面を打っているときじゃないかな。だから、もうちょっと悪戦苦闘を……。
佐々木 2000年に行く前に何となく14回目になりそうな気がするけど。
富野 ある一つのフィールドは超えるんじゃないのかなという気はしないでもないですね。
日野 ただ、こういうことは一般論では言えないんだよね。自分の中で内的経験する以外に手がない。でも神秘主義は嫌だ。その要素はできるだけ除去して、このことを考えたいと思う。
やっぱり僕は、今度の映画、非常に政治的な映画だと思っている。例えば、地球連邦ができたら何かそのまま人類永遠の平和ができるように思う気持ち、僕らの中に一部はあるよね。ところが、そんなものができても、相互平等みたいなことは実際そんなにありませんよと、実にきついことをちゃんと言っているわけね。
富野 これはあくまでも今までの人間の行動様式からの推論です。2、3カ月で惑星間を航行できる技術をてに入れたとしても、人間はやっぱりテリトリーを絶対につくっちゃうという……人間の生理に関係するんですよね。その距離を乗り越えて家族とか同類とか同族を意識していくためには、もうちょっと別のノウハウが必要で、やはりニュータイプ論にかけるしかない。そういう意味での潜在能力を人間は持たされている、と信じましょうというふうにしか今は言えませんね。

斧谷稔】大富野教信者の会part27【井荻麟
http://anime.2ch.net/test/read.cgi/x3/1145874745/

444 名前:通常の名無しさんの3倍 :2006/05/05(金) 00:16:47 ID:???
年寄りの昔話になるが、十年ちょい前まで朝日ジャーナルというインテリ向け(ということになっている)雑誌があったが、逆シャアの特集を組んだりしてたんだよな

5年も経ってしまいました。