朝日ジャーナル 88年04月20日号 『ガンダム』はハインラインの子孫ではありません 富野由悠季

まずはじめに断っておきたいのは、ガンダムモビルスーツの概念が『宇宙の戦士』から出ているという話は、嘘だということだ。ぼくは、ハインラインの植民地的嗜好は嫌いで、マシンにスーツという単語を当てはめる英語の使い方を教えられたにすぎない。しかし、以来、英語=語学=学問=それは自分にはできないこと、という図式が少しは緩んだ感じがあって、感謝している。
僕は、他人が作ったものを、読んだり見たりすることが面倒で厭だ、というなまけ者だから、生活をするために仕事をしなければならないなら、見たいものや読みたいものを作ることを仕事にしてしまえば得だ、という発想があってこの仕事をやった気配がある。
しかし、やってみて分かったことは、作りたいものを作るためには、自分の好みだけではできないという発見で、それが、僕に、むかし購入しておいたクラウゼヴィッツの『戦争論』(岩波文庫)に戻ることをさせた。が、そこでも戦闘というものが、戦闘そのものだけでは成立しないという論を読んで、仕事とダブるその考え方にひどく納得した時期があった。
しかし、一夜漬けの学習が身につくはずもなくて、ぼくの仕事の上での原則は、あくまでも、同業のTVアニメが世上指摘される疑義を穴埋めするように企画を立てることに専念した。つまり、ロボット物を作るにも、物語のなかに社会が出てくるならば、ロボットといえども歩く時には、道路交通法を守らなければならない、というテーマを付加するのは可能ではないかと考えたのである。

ジェームス、フロイトからロボット物へ傾斜

だからこそ、ロケットが飛ぶ姿が好きなだけの青年が『2001年宇宙の旅』という映画のタイトルとポスターにごまかされて映画を見てしまって、飛び上がってしまったのも当然であろう。そこには、「ハウツー考える」もしくは「ハウツー存在」というものがあって、あの映画が契機で『地球幼年期の終り』(創元推理文庫)の宇宙と人類のとらえ方が、僕のなかに浮上したという経緯がある。
しかし、それらのことは、大学受験勉強をしなければならない時期に、この勉強が何になるのかと感じた少年が、ウィリアム・ジェームスの『心理学』(岩波文庫)を読みふけり、あの手堅さは好きだね、というぼくの嗜好も、その後のはやりもあって、フロイトの一連の作品『精神分析学入門』(角川文庫)、『夢判断』(新潮文庫)、気分の間口を広げてもらい、それが憧れの実存主義とか左翼思想に走ることを忘れさせて、ロボット物に走ったのだろうと信じている。
この後の読書というものは、あくまでも資料探しの意味しかなくて、たとえば、軍隊経験というものは、物語の下敷きになるので、今でいえば、光人社『海軍よもやま物語』以下の50巻もある体験物は、軍隊経験者の最後のメモ書きとして参考になる。
しかし、それらが作文でしかない狭いものなので、読むには辟易するが、戦争のなかでは、個々人などは、何も見ていないのだと分かっていく悲劇は、痛烈である。
だから、『日本騎兵八十年史』(原書房)というような本に出会うと、まだ、このような部隊記念アルバム的な本が刊行されているという感動と驚きに打ちひしがれもするのだ。
一方で『一下級将校の見た帝国陸軍』(朝日新聞社)に代表される氏の一連の軍国日本の体験記は、このような質の戦争体験談が少ない日本では、ひどく貴重なものではないかと信じている。インテリの惨敗の記録とでもいうタッチは、動き出した体制を阻止するためには、その根をみるしかないと思い知るのである。
つまり、『雑兵物語』(教育社)にあるように、戦場に行く兵に具体的な用意と心構えを教えるものに出会と、実戦を知らない者には、とてつもなく便利で面白く、その上、その時代の人の素朴さをこのような手法で語ることができるのかと納得してしまう力があると同時に、戦争を考える仕事は、もっと時間を置かなければできないと教えてくれるのである。
そうはいっても、現在、戦争を考える上では『戦争のテクノロジー』(河出書房新社)は嚆矢であろう。戦力を軍事面から解説するのではなく、国家がなんでこのように近代軍隊を継続しなければならないかという歴史的な視点があるからで、たとえていえば、軍の存在を自衛隊です、と言い切って済ませている市民がこれ以上多くなると、近い将来、自衛隊のクーデターは起こる。つまり、軍人は、市民に支持されているというプライドがなくなると、持っている武力を使いたくなるのだ、という歴史的事実は、まだまだ今後100年は真理でしょう、とこの本は教えてくれる。
戦闘物を描くからといって、これだけではすまないので、別の視点からいうと『資源物理学入門』(NHKブックス)が、きわめてオーソドックスに、地球と資源、熱、廃棄物の問題を、そのフィールドワークと科学者としての視点から明確に教えてもらえ、かつ、著者自ら「ここでは技巧的な説明は一切していないので、理科系でない読者でも、エントロピーを自習できると思う」と書くその理性のあり方の節度と、実践への自信に、大人なのだねぇ、と感動させられるのである。書物というのは、そういうもので、一面的なとらえ方などは決してできない。
SF好きの人にいわせれば『ザ・ライト・スタッフ』(中央公論社)はSFになってしまうらしいけれど、逆にいえば、このタイトルから、SFらしいから読まないという人が多い日本の大人社会はつらいものだと感じる。つまり、『宇宙からの帰還』(中央公論社)の世間での見え方がいい例で、あれは売れても『ライト・スタッフ』は売れないという現実である。
むしろ、事実のなかから演繹される感応として『宇宙からの帰還』で語られたことなどは当たり前で、それをああもリサーチしなければ書けない人は、苦労性なのだなと思ってしまうし、同じような苦労性を見せてくれた『ミカドの肖像』(小学館)の日本人的傲岸さは、どこか右翼的で、その論旨とのギャップに絶句するというフィーリングをぼくは持つのだ。
そうそう、日刊流通新聞や日刊工業新聞などは、日常の分野でこうも努力を重ねている人々がこんなにもいるのかという認識を得て、とてもつらいけれど、実利的で面白いし、時代は生きているというビビッドさを感じさせて、素敵である。
そしてロボット物という無国籍物をやっているおかげで、ある年齢になると、人種の違いという問題に興味を持つのは当たり前だろうし、そんな興味を喚起してくれたものとして『アラブが見た十字軍』(アミン・マアルーフ・リブロポート)、『北の農民ヴァイキング』(平凡社)、『イギリス海賊史』(チャールズ・ジョンソン・リブロポート)等をあげておく。キャラクターを創造する上での強力な武器になるのだ。

失ってみて、はじめて大切さに気づく人たち

なにをというのは面倒なので、一言でいうと、いろいろな人がいて、いろいろな文化があるということで、日本という国では、いるごろから単一民族といいだした国民かしらないが、そのような論が通ってしまうという文化意識は、なにも「東北は熊襲の産地。文化程度は低い」といった企業家の発言を持ち出すまでもなく、不定見極まりのない危険な国民(民族とはいわない)だと断じたくなる。
最後に、デビット・マコーレイという人の一連のハウツー建築物の絵本ではなく『エンパイア・ステート・ビル解体』(河出書房新社)だ。この本は、「失ってみて、はじめてその大切さに気づく人たちへ」の献辞が書いてあるとおり、その絵本の持つ斬新な衝撃は、思考訓練にとって忘れることができない。そして、このような絵本を2000円という値段で出版しなければならない日本という国は、つくづくつらいものだと感じる。
ぼくは、つけ焼き刃的な知識でいい人間だからだろう、NHKブックス講談社ブルーバックスに代表される入門書は有効だし、システム論のひとつの要諦は整理統合であり、その上で個人という感性をとおしての表現であると思っている。だから、書物のその周囲、その横、その背景を洞察する訓練が必要とは思いながらも、気に入ると嬉しがるだけであって、そうなると気をつけることはただひとつ、趣味としてひとつのものに集中する危険を感じて、身を引くことに汲々とする。飽きっぽいのだろうね。