月刊アドバタイジング81年9月号 阿久悠の活人放談 “疑似イベント”から本当の“楽しみ”へ

もはや文化である、というほめ言葉は相当にいかがわしいと思いませんか。
もはやをくっつけるところに、言い手の釈然としない思いがこめられていて、いかがわしくもあり、広告があり、アニメーションがあります。
しかし、富野さん、ぼくらは、この状態を無念と思うことはやめましょう。もはやが取り除かれ、文化のお墨付きをいただいたものの、惨たんたる硬化現象を見るにつけ、永久にもはやの思いの中にいた方がいいのではないかと思うのです。
そして、いつの日か、文化という言葉の意味合いも変えて後、歌謡曲、アニメーションの札を立てようではありませんか。
(阿久 悠)

数字神話をくつがえした中高生パワー

阿久 昨年お会いした時は、まだ『ガンダム』の映画をやるらしいという程度の話でしたが、それから大きな話題になるまで本当に短い期間でしたね。
富野 ええ。去年の秋に具体的な映画化の話が出て、今年はもう二本目を作りました。
阿久 『ガンダム』をテレビ映画として作っている時には、恵まれた状況ではなかったわけですよね。
富野 はい。
阿久 今日はそのへんの話をとくにお聞きしたいんです。というのは、今は数字で一つの結果を出してしまうところがあります。たとえばテレビなら視聴率、レコードだと売り上げのチャート雑誌ですね。そして、その数字を凌駕するパワーは、悔しいけれど現状ではないわけです。全部、数字に屈服させられてしまっている。「これはいい作品だ」と言っても、「数字が上がっていない」と言われると話はおしまいになってしまう。
その数字をひっくり返したパワーが『ヤマト』にもあったし、『ガンダム』にもある。一体どういう人たちが、どういう動きであの頑迷なテレビ局や映画会社を屈服させたかということが、僕には謎でもあるし、希望の灯でもあるような気がするんです。視聴率40%をとっていた番組を映画にしてみようかという話ならよくありますが、「ガンダム」の場合、放送時間もいい番組ではなかったし……。
富野 視聴率も低かった。
阿久 そもそも核になっているのはどんな人たちなんですか?
富野 『ガンダム』を支持している核は、中学生、高校生です。彼らは小学生と違ってややオピニオン・リーダーたり得るんですね。だからファン雑誌を作ったりして、自分たちの意見を発表しあっていました。彼らは、何かを表現したいけれども、まだ具体的に表現の方法を知らない。だけど、たとえば『ヤマト』なり『ガンダム』なりに加担してしゃべることができれば、彼らにとってやりやすいわけです。そのことだけで自分たちのファン雑誌を作っていける。一つの同じ好みの中で仲間を増やしていこうというのが、特に『ガンダム』の場合は顕著だったんです。ですから、視聴率は最終的には、地域によっては17、8%まで上がった例もありますが、むしろ異常なのは、5時半~6時の時間帯で2ケタ近く、あるいは2ケタの視聴率を取り得たということ。ゴールデン・タイムの2ケタとは意味が根本的に違います。そこには、明らかに受け手の中高生にとって、自分たちの意思を確認できる作品であるという見方があったんでしょうね。その支持層がまず第一に中高生であって、小学生ではなかったために、『ガンダム』という情報が四方に伝播していったのだと思います。これは重要なことだと思います。『ガンダム』ファンクラブを具体的に標榜しているグループだけでも、全国で3、400はあったんじゃないでしょうか。そういう人口を見て、映画会社にしてみれば、一度ツギハギ映画をやらせてみようか、と思ったんじゃないですか。ただわれわれとしては、2時間でダイジェストすることは絶対に出来ませんよ。1本目はこちらがまとめられる量だけでまとめさせてもらいますよ、という条件で話をしたんです。
阿久 じゃ、三部作というのは、当たったからじゃなくて、テレビ版をまとめるにあたって、制作者側で三部作にしなければ出来ないと……。
富野 そうです。ですから1本目は1クール分の話しかまとめていないのです。ある部分で自己主張させてもらわないといけないなと思い始めたわけです。テレビアニメーションという仕事はマイナー志向が強過ぎたために、外部からの圧力で動かされてきたところがありましたから。
それがこの4、5年、この圧力というか外部からの価値観というのが、少し違ってきたのではないかと思い始めていたんです。物理的な数字論や、その時のはやり物ということで切り取られたり切り捨てられることが多過ぎるのを認めたくはない。で、自分の立場を得たい。その方が結果的にも価値論的にもいいのではないかと思っていました。今回はそれに『ガンダム』を利用させてもらったわけです。“ロボットもの”の2時間映画なんて、1年半まで誰も信じていませんでしたよね。それを一本興行をやってしまえた『ガンダム』というのは一体何なのか、どんなパワーがあるのかということを正当に評価してほしいんです。
識者から見ればテレビや“ロボットもの”というのは低俗なものの代名詞かもしれないけれども、今の若い子たちの気分を見てきたわれわれの立場でいうと、『ガンダム』というのはティーンエイジャーの置かれている状況の中での代弁者たり得るところがどこかにあったのではないかと思うんです。カラーテレビやビデオやコピーなどの物理的な現象を30代以上の大人が文化だ文化だと言っているのとは全然違って、今のティーンエイジャーはそういうものを初手からあるものだと思っていて、その上で彼らがいま欲しているものは何かということなんです。カセットが文化なのではなくて、カセットならカセットをどう使おうかという意味を発見できない限り、カセットなんて意味がない。中高生がこんなふうに微かに持っている飢餓感にフィットするもの、つまりメッセージが『ガンダム』にあったんじゃないか。これを見過ごしていただきたくないということです。
ガンダム』の体裁は“ロボットもの”ですが、ティーンエイジャーにとっては体裁は関係ないんです。“名作もの”というタイトルをつけるのは大人たちであったり、ビジネスサイドであったりするので、“ロボットもの”というのもそれをつけないとチビッ子が見てくれないんじゃないかと思う大人の危惧感でしかないと思います。
われわれが、“ロボットもの”というオブラートを利用させてもらって何をやったかということは、外部の方には多分わからないでしょうね。

いまは疑似イベントとの差をつけるのが難しい

阿久 富野さんは、プロデューサーというものをどうお考えですか。プロデューサーという言葉は、いろいろ使われているわりには定義がなくてね。
富野 ぼくはプロデューサーではないから……。
阿久 いや、職階としてのプロデューサーではなくて、プロデュース能力のことです。たとえば、テレビ局に行けばほとんどがプロデューサーですが、ぼくが思っているプロデューサーという仕事とは違うという感じがあります。先日このページでお会いした長嶋茂雄さんは“グラウンドのプロデューサー”だろうと思うし、あなたは漫画家であると同時に何かをプロデュースする能力があると思うからお会いしたかったわけです。
富野 そうですか。ただ映画をプロデュースしたということになると、『ガンダム』はツギハギ映画ですから少し後ろめたいところがあります(笑)。映画を作るというのは、コッポラじゃないけれど、身銭を切って生きるか死ぬか、当たるか当たらないかというぐらいシビアな勝負だと思います。
阿久 プロデューサーの一番の条件というのはそこなんです。身銭を切っているというのがプロデュースなんです。それで、当たればもうかる。けれども日本では会社の中で大企業マンだったり大プロデューサーであっても、せいぜい重役になるくらいで、しかもその重役室の壁に高価な絵がかかっていたりすると労働組合につるし上げを食ったりして……(笑)。
プロデューサーなどと軽く言っていながら、プロデューサーとして確立することを嫌う体質が日本の中にあるんですね。一人がもうけることを阻むものがあるような気がします。
富野 それは階級論的にあるんじゃないですか。企業やシステムをマネージメントするトップ、いってみればプロデューサーの意識と、たとえば労働組合の在り方が根本的に違いすぎるような気がするんです。そして一番困るのは、トップが、中間管理職を含めた労組的な日本人の、「みんなお互いに仲よくやって、みんなでもうけて、みんなで豊かになろうよ」という気分に、精神風土として足をすくわれているなと感じます。
そのことは何もプロデューサー論だけではなくて、何かものを創っていく時にいつの間にかいろんなところで手カセ足カセになっていますね。
阿久 全部引っ張りあっている。引っ張り合って倒れない部分もあるんですけどね(笑)。
富野 一緒にいればこわくない、みたいなものですね(笑)。
今回、映画の仕事をして、プロデューサーを阻む部分というのはこのままではもっとふくらんでいく状況にあると思いました。その部分が肥大していくと、いろんなことを感じている人たちがこの量に押されて何もできなくなりそうだと、つまり、最大公約数をとる民主主義という言い方はたくさんあっても、それが生むものはどうも全体を救うものではなくて、みんな仲よく豊かになろうねという発想でしかない。これは危険だと思いますね。こういう状態では、爛熟にはなっても、次の新しい世代を生んでいくためのポテンシャルを持てないんじゃないかと思うんです。
阿久 ですから、常にプロデューサーを意識しない形で、偶発的なものでしかつないでいないですね。レコードの分野でもすべて偶発的なヒットだけでつないでいく形になってきました。優れた才能が伸びていくシステムがないんですね。映画でも、誰かがもうかると、その人が落ちるのはいつだろうと測る楽しみしかなくなっている。
富野 それは今、みんなそれなりに貧乏ではなくて、それなりにものが言えて、そして情報過多の中で、疑似イベントが日本中にたくさんあるからだという気がします。字を書き連ねたり、8ミリやビデオを撮ったりして、実験映画だといっているうちにことが全部進んでいって、そういう行為だけが羅列される疑似イベントが極度に多くなりすぎたんじゃないでしょうか。それをやっていれば時間はうまるし、何かを語り、行動したように思えて、本当の意味をつきつめなくても満足感がのこるといった……。
阿久 全部そうですね。たとえば、カメラマンはいま、大変だと思うんです。昔はニコンとかキヤノンはプロしか持てなかったのが、今は中学生が持っている。高品質の機械を持つということがプロとアマの差ではなくなってきています。音が出て画があってというのが映画なら、小学生でも映画を作れるわけです。いま、まさに疑似イベントが広がりすぎて、そうでないものといかに差をつけていくかが最も難しい状況ですね。
富野 結局、『ガンダム』を支えている部分というのは、端的にいうとそこなんです。少なくともティーンエイジャーは疑似イベントに慣れすぎているはずですから、話を組む時に当たり前の話を作る以外ないと思ったわけです。『ガンダム』の物語の構造というのは、僕が自分でも古くさいと思うぐらいのものなんです。ただ、ここで一つ仕掛けをしまして、今まで“ロボットもの”というのは幼児のものだったから、中高生には言葉にしても幼稚過ぎる。そこでロボットについて中高生が話題にしてもいいような単語にしてあげようと思ったんです。ロボットは人型の兵器だから『ガンダム』の世界では“モビルスーツ”という言葉を造語しました。「ロボットのガンダムはね」という代わりに、「モビルスーツガンダムはね」ということでまず表現上でクリアした。そのモビルスーツガンダムが動き回って、当たり前の話をするから、「あれ?!」と思わせる。その結果、「新鮮だ」「リアリティーがある」という回答が中高生から返ってきた。
予想通りだったわけです。イベントとして仕掛ける部分は最低限度に切り落としておいて、その上でやるべきことは、たとえばテレビだったらこうでなくてはいけないんじゃないか、ロボットものだったらこう作らなければいけないんじゃないか、若い子たちにはこういう話し方をしなくちゃいけないんじゃないか、という「じゃないか」の部分を全部外したらいいと考えたんです。
阿久 全く賛成です。
富野 既成概念というものが、おそろしく周辺にとりついているんですね。『ガンダム』でわれわれが実際にやってみせてもなおかつ、やれ“ロボットもの”で、やれアニメで、やれジャリの集まる映画で……という発想が出てくる。全く伝わらないんですよね。ですから一般的な既成概念を取り外すという行動をこれから本気になってやらないといけないと思うんです。これ以上疑似イベントをはやらせる必要はないと思うんですが、それにはいろいろと仕掛けていかないとね。

なぜ採算分岐点という発想でしか動員を考えないのか

阿久 今、日本である種の文化的要素を持った仕事や作業の一番の問題は“疑似イベント”ですね。疑似イベントも、心楽しい形で出ていればいいんですけれど、どうも全員が不機嫌なサービス業という感じがする。
たとえばウエートレスにしても、実は私はウエートレスをやりたくないけど仕方がないから今やってるの、というのが多い。だからガチャンとコップを音をたてて置く。ガチャンと音をたてるのは、不器用なのではなくて、そこに「実は私はやりたくないんだ」という意思が働いているわけですね。
富野 そうですね。
阿久 本当は歌手になりたいんだけど、今はレッスンに通う費用をかせぐためにウエートレスをやっているんだ、あんたにはそれをわかってもらわなければ困るのよと、お客にガチャンとやるわけです。だけど、これはサービス業なんですよ。作家もコピーライターも、絵かきも、タレントも、ウエートレスも、タクシーの運転手も、みんな不機嫌なエンターテイナーというか……。
富野 それでもエンターテイナーになっていればいいですけどね(笑)。
阿久 本人はエンターテイナーではなくても、受け手としてはエンターテイナーとして受け取らなければしようがない状況に置かれているわけですよ(笑)。
富野 否でも応でも
阿久 だから、よけい悲劇的になる。
富野 そういう一般的な部分でもそうだし、今回の『ガンダム』でもやはり“イベント”がついてまわるわけです。本当の楽しみ方が欲しくてするイベントならいいのですが、その仕立て方になるといろいろな要素が入ってきてイベントぶくれした“客寄せ”の方法論であったり、収支決算を黒字にするための“採算分岐点”論であったりするんですね。話の中に絶えず採算分岐点という言葉が出てくるような発想に陥った時には、すでに違うんじゃないかと思うんですよ。最近、ぼくは採算分岐点を考えないで、もっと本気で本質的なところでやったほうが、かえってお金もうけができそうな気がしてます。なぜ採算分岐点という発想でしか動員の仕方を考えず、中身をつけることを考えないのかと思いますね。
阿久 ぼくもそう思います。
富野 ですから、あえてプロデュース論というのがあるとするならば、80年代には疑似イベントを廃することから始まるような気がします。その上で、付加価値ではない本来価値はこういうものだという価値論に自分がふさわしい人間であるのか、自分がそういう才能を持ち得るのか、そういう才能を動員することができるのか、育てられるのか、それをするのがプロデューサーじゃないか、それ以上のことは一切ないんじゃないかというぐらいに思っているんです。
イベント論に限っていうならば、今のハイティーンの子供たちはプロと同じくらいに平気でイベントを行える。特に学校以外でサークル活動をしている子供たちは、会場をおさえて一日を大変うまく進行させています。大人のイベント屋よりよほど仕立ては上手にやるわけです。大人は採算分岐点だけです。だったら、いまさら表面づらを作っていくことは大人のやることじゃないんじゃないかと思います。
阿久 ついこの前まで、音楽の世界で大学生がプロダクション・マネージャーをしのいでいた時代がありましたが、アニメーションの世界では中学生がそういうことを仕切るようになってくるんですね。
富野 実はぼくは“負け犬根性”でアニメの仕事をしていたんです。アニメといえば幼児向けで、世界に顔向けできる仕事だとは思っていませんでした。でも7年ぐらい前、会社でアルバイトしていたまだ18歳くらいの子に誘われてアニメのファン・サークルの集まりに行ってみたんですよ。行ったらお客が1000人もいるんですよ。それで議事進行もきちんとしている。1000人のお客の顔を見た時、確実に物ごとは動いているということがわかりました。会場警備とか、大人の世界でやかましく言うようなことは一切抜きにして、なおかつきちんとしている。今までぼくはこうした外の動きを知らずに、卑屈になりすぎていたと思いましたね。本気で考えている子供たちがいる限り、本気で物を作っていかないといけないんじゃないかと。それは彼らに何を与えるかではなくて、大人としてのぼくがやることはこういうことだというのを見せていって、あとは彼らに判定を任せる以外にないということを本気で思ったんです。それからは、“ロボットもの”をやるのでも、後ろめたさがなくなりましたね。お客に顔を向けると、時によってはスポンサーにはウソをつくことも出て来ます。たとえば、絵の上ではロボットがいっぱい出てくるように見せながら、話は違うものにするとか、知恵を出して考えるんですよ。
阿久 富野さんのアニメ歴は18年ぐらいですか。『鉄腕アトム』からかかわってきたということは、そのままテレビ・アニメの歴史とかかわってきた……。
富野 基本的には全部知っているつもりです。本当の意味での卑屈な時代というのも知っています。最近アニメだ、アニメだと言われ、アニメで卒論でも書こうかという若者が出てくるような様変わりの状況の中で、でもまだ根本的な構造改革ができていない業界だということも含めて……。
阿久 いつの時代からですか、大きく変わり始めたなとか、風通しがよくなったな、というのは……。
富野 テレビ慣れをした子供たち、つまりテレビで『鉄腕アトム』が始まった頃に4、5歳の子が中高生になったこの5、6年ですね。
15年ぐらい前は大人がコミックスを電車の中で見るということはできなかったのが、今はその姿を嫌悪して見るなんてこともなくなってきましたからね。テレビのアニメの場合には、幼児のころからカラーテレビを見て育ってきているから、テレビやアニメなど表現ジャンルの違いによって低俗だとか高級だとかいう見方を一切しないお客さんが発生しているわけですね。
阿久 『ドラえもん』もアニメーション、『ガンダム』もアニメーション、『シリウス』もアニメーションという言い方はいいんですか?
富野 もちろんです。アニメーションというのはジャンル一般の言い方でして、ただそれが今まではアニメーション、イコール幼児のもの、アニメーション、イコール俗悪、この二つの価値基準しかなかっただけのことですから。つまり十把ひとからげで歌謡曲と言えないのと同じで、「これはアニメーションだから……」ということはもうすでに前提条件でも何でもなくなって、作品としてどうなのかという時代にそろそろなってきたのでしょう。それを大人が若者にどうみせるかだけが問題なのではないでしょうか。

アニメ界は外界の膨張に作り手が追いつけない

阿久 歌謡曲でいいますと、GS(グループ・サウンズ)以前とGS以降というのは、ぼくは別のものだと思っているんですが、そういった意味でアニメの中で、あれ以前、あれ以降といった作品はありますか。
富野 どうでしょうか。それはぼくにはちょっとわかりません。当事者というのは、客観的な線引きはできないんですね。もし、それ以前、以後があるとするならば、『ガンダム』以前と『ガンダム』以降にしてほしいと思います(笑)。
阿久 答えとしてはそれで結構です(笑)。
富野 そういうふうになりたいな、という意識は企画の時からあったんです。それが、今の時点では傲慢なのか、10年たってやっぱりそうなるのか、それはわかりません。ただ言えるのは、いまのアニメ業界をざっと見渡したところで、そういう気持を持つプロデューサーなりディレクターなりが、そろそろもう2、3人出てきてくれないと、とてもじゃないけれど、こちらも背負い切れなくなってきているという実感があります。アニメ専門誌も、もうじき7誌になりますしね。外側の膨張に対して、制作側で追いつけなくなりつつありますから。歌謡専門誌はそんなにないでしょう。
阿久 芸能誌はありますけどね。ぼくらが一番不幸なのは何かというと、芸能誌の中に埋もれてしまうんです。芸能誌で代わりをされてしまう。これがどうにもならない部分ですね。
富野 アニメの場合にはスターがいないわけです。スターは“絵”だから、仕方なくスタッフ論になるわけです。ですから『ガンダム』といえば、いちいちぼくが引っ張り出されるわけです。アニメ以外のジャンルでは、ちょっと前までスタッフは所詮裏方で、表に出られるなんてことは思ってもいなかったと思うんですよ。たとえば、阿久さんの顔が出るよりも八代亜紀さんの顔が出ることの方が、曲にとってのアピール度はあるわけですよね(笑)。アニメの場合は、根本的にスターがいない、つまり顔がないために、絵か、もしくはスタッフということになるんです。声優もスタッフの一員であって、不幸にしてまだ真の意味でスターになってはいません。アニメ専門誌の取材記者と、「いいのかね」「さあ。しかし、ほかに顔がありませんしね」という状態でここ2年間ほど向き合ってきているんです。こういう状況はやめにしてほしいと思いますが、ただ、そうは言いながら、待てよ、と思うところがあるんです。スタッフ、つまり作り手側が芸能誌に埋もれてしまわないようなブームを作っていかないと、疑似イベントを抑えていくことができなくなるんじゃないかと思うんです。変な言い方ですけれど、アニメという作品、アニメの作り手、アニメ専門誌の構造はもう少し正当な利用の仕方があるのではないか、一つの逆の例にしていいんじゃないか、という気がします。そのためにはアニメの場合には大変な問題があって、人が絶対的に少ないんですね。ですからこれから、いろんな意味でのスタッフを集めていかなければいけない状況にいまあると思うんです。
アニメ以外のジャンルには厳然としていろいろなスタッフがいるわけですから、そういう人たちがもっと目に見えてきていいような気がします。そうしないと、全部が“たのきん”の中に埋もれていくのはやや危険ではないでしょうか。
阿久 “疑似埋もれ”というのもあるんですよ(笑)。長く生きていくためには埋もれている時期を作る必要もあるような気がするんです。運がいいと自然に埋もれるんです。冬眠できるんですよ。“冬眠”と“野たれ死に”の差はありますがね(笑)。本人の行動は同じなんですけどね、寝てるだけで(笑)。
富野 そうなんですか(笑)。貴重なご忠告として受けとっておきます。

阿久悠とすばらしき仲間たち」という単行本に収録されていますが、絶版で未入手ですので内容の違いは分かりません。
ひびのたわごとさんで話題になっていたので引っ張り出してみました。