デジモノステーション2013年4月号 細田守×富野由悠季対談

ついにアニメがここまで来たかと感慨深い作品

――(氷川竜介氏)劇場公開時、富野監督は本作を絶賛されましたが、その理由は何ですか。
富野 子育てを経験した人ならみんな知っているとおり、子供は親にとってまさに手のつけられない「おおかみ」的な存在です。「おおかみ」との結婚が気持ち悪いというご意見も見かけましたが、恋愛時代には美しく感じていた彼氏・彼女なのに、肉体関係をもった瞬間にガラッと変わって狼以上に分からない存在に見えたりすることはあり得る。そんな風に誰でも経験するようなごく当たり前の話を、上手にアニメのメタファーを使うことで「パン!」と示して、とても見やすい尺でまとめている。悔しいけど、細田監督はものすごくできるようになったなと思いました。
細田 あのコメントには励まされました。本当に感謝しています。
富野 今回の対談のために、いくつかのレビューを読んで、安心したことがあります。子育て中の母親の方が「こうまで正確に母親のことを描いてくれている」という感想を書かれている。ついにアニメーションがそこまで一般に広く通じる「映画」になったのかと思いました。もしかしたら宮崎アニメとも違う革新的な領域に入ってきたと感じます。たとえばレビューの中には「監督はシュタイナー教育を意識して演出したのか」という指摘もありました。
細田 結論から言えば全くありません。主人公の母親は「おおかみこども」を育てるにあたり、一般の医療機関に頼れない特殊な状況下にあって、子供たちの病気に対する備えを書物から得るしかなかったわけですが、定番の「育育児典」や「定本育児の百科」や「小児医療」などの医学専門書、果ては自然療法に関する本まで手を広げざるを得ないところまで追いつめられています。その中の一部にシュタイナー教育に関連する本もあったまでのことですが、興味深いのは、この映画をご覧になった方が、画面の隅にわずかに映り込む背表紙にも注目して、その本に書かれた教育法の是非をブログで議論していることです。子育てが親たちにとっていかに切実であるか、ということを表しているのではないでしょうか。
富野 僕はその教育論を肯定も否定もしませんが、児童文学や教育に造詣の深い母親が、その系譜で作品を深くとらえた発言をしていることに驚きました。やはりこの作品はっかなり幅広い層に見られている。それなのにアニメ業界内の意見を聞いたときには、狭いジャンルで切り取った話で何とかしようとする発想が感じられました。もともとマーケットや世代など人々を識別して作品を仕分けようとする傾向が僕にはよく分からないし、こうしたことが近年の作品を貧しくさせているのではないでしょうか。
細田 自分でも今回の作品はアニメ文脈とは別のところに来てしまった気がしています。「ザマーウォーズ」までは、まさに仕分けられたジャンル映画の中で、どのようにウェルメイドな世界をつくれるか、その先に何があるのかを見極めたい気持ちがありました。一方で「映画ファン」は視野が広いかと言えば、実はアクション映画、ホラー映画、恋愛映画とジャンル好きな人もいっぱいいる。そうした方からは「狼男というクリーチャーを出すなら、迫害を受けて警官に撃たれて死ななければ」というジャンル映画の法則を優先したご意見もいただきました。
富野 まさにジャンルにハマって脱けられない人たちの意見ですね。アニメにはアクション中心の物語論があるのですが。そこから突き抜けた部分を「おおかみこども」には感じています。「シュタイナー教育」という耳慣れない名前が出てくるのは、この映画がもはやアニメの枠を越えたことを読みとれる人がいる証拠です。つまり花という母親は絵面ほどアニメ的で可憐なキャラではなく、かなりの知識と見識をもって強烈な子育てを貫いた女性だということが伝わったわけですよね。そんな一番骨格になっている思想を取り出してくるレビューを見たとき、ようやくアニメも媒体として成立したなと思いました。
細田 そうなんです。今回、特に子育て中の女性の方が、フィクションの主人公のはずの花を、自分と同じ母親としての目線で見て論じて下さったことが、僕としてはものすごく嬉しく感じました。そこに批判も含めた健全な議論が立ち上がっている。この映画のモチーフが普遍的であることの証ですから。結局、映画もアニメも、世界や表現はジャンルよりもっと広い可能性を秘めているということでしょうね。
富野 まったくその通りです。僕の場合は欲が深いので、世に向かって表現を差し出すなら万人に受けたい。ジャンル好きの狭い人だけに受けるものづくりには、興味がありません。もしも好き者向けに作り始めたら、自分も好き物になっていき、社会から差別されて叩かれるフラグを自ら立てることになります。公共の場に表現して意志を示せる機会を与えられたなら、みんなに好かれた方がいい。もちろんビジネスとしても受け入れられる前提でです。すると「ジャンル分けして特化した方が売りやすい」という方向に行きがちですが、その発想の作品なんてせいぜい2〜3年もつかもたないかでしょう。せっかくお金をかけて作るなら、僕は大きくビジネスをしたいし、10年、20年、50年もつコンセプトを示して、ずっと永く売れるものにしたいんです。瞬間芸の興収を得ても、その後忘れられる作品は、かなり多いのです。そういう意味では「公共に表現するもの」として間違いなく新しい境地を世間に見せてくれた「おおかみこども」は、これから10年か20年後の評価や認知は、今よりもはるかに高くなると信じています。

子育てというモチーフは万国共通だけに苦労も

――富野監督は今後の細田監督に、どんな期待をされていますか?

富野 期待は特にありませんが、むしろ周囲に注意してほしいことは、全部が全部細田さんがつくったわけではないという事実ですね。奥寺(佐渡子)さんというシナリオライターの存在も大きいし、お二人が子供という存在と相まみえるリアリズム空間の中にいたからこそできたことでしょう。あと1年か2年前後にズレていたら作れなかったかもしれないくらい。これはリアルな作品です。だから本当によくやったなと思う一方、不幸にしてこういうチャンスは二度はかもと思います。「ヒットしたから、また次もやりましょう!」って言われた瞬間に「ドーン!」と落ちるかもしれないから、それは気をつけて下さいね。
細田 ヒットしたことで信用は得たかもしれませんが、映画はやはり一本一本の企画ありきだと思っています。今後もその一本一本のチャレンジ精神や面白さの提案次第でしょう。「右肩上がりで来たから、もっと上がらなければいけない」みたいなことではなく、ひとつひとつの企画ごとにお客さんと共有できる映画の面白さを求めていきたいと思っています。だからもしこの作品の続編を求められても……。
富野 だって、作れないでしょ。
細田 ええ。あれで完結しているものですから。次の新しい作品に向かいます。そのときには前の作品はすべて忘れ、一から何がこの世の中で面白いのかと考えて作っていく以外ないと思っています。
――先ほどの富野監督の「公共の場に向ける」という点は、どうお考えでしょうか。
細田 「おおかみこども」の場合、僕のものすごく身近なところからの発想が出発点になっています。そのころ自分たち夫婦はなかなか子供ができずにいました。なので、子供を育ててみたい、親になってみたいという願望が、そのまま映画になっているんです。同時に「子供を育てる」というモチーフは、われわれ日本人だけではなく万国共通なものだとも思いました。どこの国のどんな人でもすべて体験している。たとえ子供がいなくても、親には育てられている。人類みんなに共通する話だから、これはみんなが見る可能性のある企画だと思ったんですね。それで「子育てもの」というジャンル的なことを言ったわけですが、そんな映画なんて存在しないことが分かったんですよ(笑)。そもそも「じっくり育っていく」みたいな状況は実写では撮りにくいし、子供を描いた映画の中にも親側が主人公のものが見当たらない。「子供が成長するために親を乗り越える」という葛藤話になってしまうんです。親はどんな気持ちで子の成長を見ているかという「観測視点の物語」として企画したものの、参考にするものが何もなくてホントに困りました。もともと映画はカウンターカルチャーから発生したものなので、それも関係していると思います。
富野 それを聞いて驚きますが、やはり我々が自由に表現できると思っているのはかなり迷信で、まったく自由ではないと改めて思いました。そんな特別なことをしているのに当たり前に見られてしまう「おおかみこども」はやはりすごいですね。言ってしまえば陳腐な話でしょ? 普遍的であるがゆえに……。
細田 ええ、どこにでもある話なんです。
富野 なのに、ああいうアニメの手法で描かれた瞬間、革新的に見えてしまった。これが実は困った話で、当たり前すぎるものが革新的に見えてはいけない訳です。そうしたことまで教えられるから、ものすごい作品ですね。
細田 いやいや、作っている側としては僕たち夫婦の気持ちに即して、「子供ができたらこんなことをしてあげたい、あんなこともしたい」と、ものすごく素直な理想と願望から出発しただけなんです。取材として子育て中のお父さんお母さんに話を聞くと、「夜は眠れないし、自分の時間はなくなるよ」みたいな苦労話をされるんですが、僕にはすべて羨ましい話に聞こえてしまったんですね。「それでも背負っていけるあなたはすごい!」って。
富野 なるほど、その切り口は想像できませんでした。まだ子供たちがそんなに大きくない方たちなのに、シーンごと時代ごとにスッときれいにまとまっている。ここまで正確にイメージできていて見事なのはなぜなのか、観ているときはよく分からなかったんですが、今の話で半分くらい分かりました。そんなに子育てに憧れてた?
細田 はい、憧れていました。憧れがないと、この映画はできないんだと。仮に僕が生まれたばかりの子育てで眠れない夜みたいな実体験をしてしまったら、かえって作品にできなくなるだろうと感じていました。憧れがある今だからこそ、逆にそれがリアリズムの力になる。体験主義でない弱さもあるにせよ、それでも今しか作る時はないだろうと。でも、最初にプロットを書いたときの僕個人の想いよりも、こんな挑戦的な物語を引き受けた幹事会社や配給会社が本当にすごい、と感謝しています。
富野 まったくその通りです。やはりアニメ業界では我々制作者自身が、アニメという既成概念の思い込みに汚染されていますね。あのタイトルと企画書だけでそういうことを見極められる感度をもてるスタッフは、確かにすごいと思えます。

映画の物語性や表現論を大きく持ち上げた作品

――富野監督にとって、印象に残ったシーンはどこですか?
富野 僕としては珍しいことですが、ラストカットで微笑みました。工夫のないルーズな構図のバスとカットなのに、花と同じように見ているこちらも「うふっ」となってしまいました。「親ってそういうものだよね」と思えたからです。映画のまとめとしてこれは本当にすごいことで、普通はここでメッセージ的なことを言いたくなります。僕なら怖くてテーブルの前に座らせておけず、山の方を見て「元気かい?」みたいな芝居をつけてしまうでしょう。あんな風にすっとまとめられた映画なんて、そうそうありません。やはり映画の物語性や全体的な表現論をかなり大きな形で持ち上げた作品になっています。だけど細田監督のキャリアとしては、アニメというジャンルの中の生え抜きとしてのスキルを上げてきて、観客としてアニメも大好きなわけでしょう? 当たり前のテーマでこれくらい汎用性のある物語を追及しようとしたとき、その「アニメ好き」という細田さんの長所が弱点に変わり、両刃の剣になるかもしれませんね。
細田 指摘されてみると、それはおっしゃる通りです。かと言ってアニメ好きでなくなることは、もはやできないと思います。
富野 もちろんそれはできない。だから正攻法で映画作りの企画論をやるしかない。僕の場合、「ガンダム」でイヤというほど同じような苦労をしたから、それが過酷なことをよく知っています。それぐらい細田さんは真っ当なところにさわり、お仕事でやっていれば済むところから出てしまった訳です。
細田 でも、映画史の中で何十万本映画がある中で、いろんな国のいろんな人生の様相をさんざん描いてきて、それでもやはりまだまだ描いてないことは、どこかにきっとあると思うんです。それが生まれてきた息子のためにも作り続けていかなければいけない僕の「希望」なんです。
富野 それはまったく正しい目線ですね。その目線さえあれば、これからまだ何本も作品を作れるだろうと思います。おそらく「時をかける少女」のころから薄々と「あれ? これってアニメじゃないな」という実感を身につけられてきたからこそ出せる言葉だと思います。「まだ映画が描いていないものがあるんじゃないか」というロジックは、僕は思いついたことがありませんから。
細田 えっ? それはウソですよね。それを提供してきたのが富野監督ですよ。この30年以上、我々はそれを励みにしてきた訳ですから。
富野 いや、僕にはそういう創造性や作家性がないという自負があります。
細田 そんな訳ないですよ。であれば、どうして僕らは富野監督の新作1作ごとに「これは思いつかなかった!」とひっくり返るほど驚いて、それを楽しんできたんですか。
富野 それは僕の場合、やはり「公共に向けて表現をする」という責任しか考えていないからです。巨大ロボットに関わってスポンサーのシバリはあるにしても、「他の人がこう作るんだったら、これだけはやるぞ」という、そんな狭いところで脱出口を考えることしかして来なかったということです。
細田 でも僕が拝見してるかぎり、公共性を意識しつつも、そこを越えて突破してさらに上に位置するところに、富野作品があるように思えるんですが。
富野 ああ、それに関しては、ものすごくはっきりしたことが言えます。現代の公共というものを、僕は信用していないからです。公共をハイブロウに上げるには、ニュータイプにするためには、どうしたらいいか。そうした未来に向けたことを、メッセージ論として考えていきたいと欲望しているからです。身のほど知らずのままね? だから僕としては「作家って細田さんのような目線がなければいけない」と教えられるのです。そのセンスがないから、僕は戯作者になれなかった。花と雪と雨の関係性を見ても、「劇とは、これで組まなきゃいけないものだ」と思い知りました。
細田 僕には、とても信じられないようなお話です。その花と雨と雪の関係性にしても、「伝説巨神イデオン」のドバ総司令とハルルとカララの歩んだ道と、そっくりそのまま置き換えられるはずです。けれど、あの親子の激烈なドラマまでは描けていない訳で……。
富野 激烈でないから「おおかみこども」は子育てだけの物足りない話かと言えば、それは違います。みんなが知ってて。実を言うとみんなが各自の心の中に溜めておかなければいけないことを、サラリと言ってのけて表に出している。人間関係の肉感的な距離感みたいなものを、スルッと描いている。自分はそれができないから、分かりやすい構造とロジックで押しきってきました。ドラマに必要な情愛には本来距離感が必要で、その中で描くべきなのです。手が伸びて他人に触れたときのその距離が真か善か、ウソかマコトか……そんな距離感、作劇の目指すべきところを自然に見せられる見事さがある。細田監督は、そんな自分の演出力を信じていいのです。
細田 すごい演出とは力ではなく、運だと思っています。この映画にはこの映画なりの内容とトーンにふさわしい何かがある。それぞれのカットで「これでいい!」と思いつけるその瞬間まで粘ってみて良かった。そういうことは、やはり運だと思いますし、そんな瞬間を待っているようなところが演出家にはあります。演出家って、それぞれの幸運に恵まれているものではないでしょうか。
富野 それはそう思いますし、理想を言えば、劇とは世界を全部分かっていた上で作るぐらいの覚悟でないと、作れないものだと思います。
細田 とはいえ、僕は今回選んだモチーフはいいなと思う一方で、それに演出家としての実力が追いついていないことも分かってしまい、でもやらなきゃいけないみたいな苦しみがあったんですね。世界を全部なんてまるで分かってしなくて、自分には表現力が足りないんです……。
富野 だとすれば、それでいいと思います。重要なのは「自分の技量では足りないかもしれない」というその自覚です。それがあって初めて組み込める部分があるはずで、カットを作っていくにしても一人の能力でできることではありません。「こういう風にするしかない」と力技で乗り越えたことが、結局は自分の実力以上の表現になったりするものです。出来のいい映画であればあるほど、全部自分だけではできないという謙虚さをもってカメラを据えてると思えるし、個人ワークでやっていない集団の力は見えるものです。
細田 たしかに、それはアニメーションでも大事なことですね。
富野 アニメというデスクワークでも、すべてが自分一人でコントロールできるものではない。そうした謙虚さをもって、これからも万人が楽しめる柔らかな細田監督作品を作り続けて下さい。
細田 ものすごく光栄な言葉です。これからも励みにします。

細田氏の意識していない、という発言から、花がシュタイナー教育を骨格に持っている、というのは御禿の勘違いでは(それに限っての発言ではないのかもしれませんが)? 蔵書として所持していただけで。