逆襲のシャア友の会 富野インタビュー

映画

<長々と「Ζ」「Vガンダム」の話をした後>
庵野 あの、僕、「逆襲のシャア」って凄く好きなんですよ。
富野 (戸惑い)ああ、ありがとうございます。
庵野 スタッフとして参加していたんですけど、コンテをある程度見ていたにも関わらず、最初に見たときには全然わからなかったんですよ。その後、富野さんと同じ監督という業種を経験して、ようやくわかったような気がしたんです。いや、馬鹿でしたね。
小黒 アニメ業界に目をやると、多いんですよ。「逆襲のシャア」が好きだっていう人が。その人達の意見をまとめられないかと思って、この本を作ってます。
富野 (笑)好きだなァ、とも思うし、お世辞じゃなくて、ありがたいとも思うし………そうですか? 逆に、そこまで好かれているなんて全然聞こえてこなかったし、ひとりで、ヒネていたんですよ。
庵野 全然、聞こえてこないっていうのも不思議なんですよね。公開当時は、山賀くんと出渕さんと3人で「ファンクラブを作ろう」なんて盛り上がっていたんですけど、それ以外には全然、話を聞きませんでした。アニメ誌にも、ムックとかも、あまり出ないし。
いわゆる世間の声は全然聞かなくって、これがまた、不思議なところなんですが、僕は、大変、大袈裟な云い方をすると、文化的遺産として、「逆襲のシャア」について総括したものを残しておきたいんです(真顔で話す)。
富野 へぇー。
一同 (笑)。
富野 逆にそれほどのものだとは思ってないんですよ。作っている本人としては。
3月程前、アニメージュの対談で押井さんとも話たんだけど、お世辞だと思って聞き流しましたから。
庵野 いや、押井さんもかなり本気で好きみたいですよ。押井さんはあんまり人を褒めないですから。
富野 それは知ってる。やっぱり「年上の人にあったらそのくらいのこと言わないとマズイよね」と思ったんじゃないかと。
庵野 押井さん、そんなに世渡りうまくないです(笑)。
井上 人間ができてないですから。
小黒 一緒に他の人の作品について話したらケチョンケチョンですからね。特に「紅の豚」についてとか。
庵野 いや、「紅の豚」なら僕も。
富野 「紅」は何が悪いの?
庵野 僕は、映画としてはイイものもあると思うんですけど。宮崎さん個人を知っているから、そういう目で見れなくて。フィルムの向こうに、宮崎さんが露骨に見えすぎて、ダメなんですよ。つまり、カッコつけて出てるんですよ。
富野 何が?
庵野 豚という風に、自分を卑下しておきながらですね、真っ赤な飛行艇に乗ってタバコふかして、若いのと年相応のふたり(女性)が横にいるわけじゃないですか……。
富野 ハァッハハハハハハハ。わかっちゃったよ、言ってる意味。僕には年齢的には同年代でしょ。僕にはわかっちゃうんだよ(気持ちが)、無条件で。「困ったもんだ」という感じで、怒る気もおこらない(笑)。
庵野 僕なんかが言うと、凄くおこがましいんですけど。富野さんの作品は(富野さん自身が)全裸で踊っている感じが出ていて、好きなんです(コブシを握っている)!
宮さんの最近の作品は「全裸の振りして、お前、パンツ履いてるじゃないか!」という感じが、もうキライでキライで。「その最後の一枚をお前は脱げよ!」というのがあるんですよ(すでに調子に乗っている)。
富野 ハッハハハハ!
庵野 (さらに調子に乗っている)おまけに、立派なパンツを履きやがって!
富野 そう言われちゃうとね。ミもフタもないんだよね。………言ってる事は、みんなよくわかります。
庵野 (恐縮して)すいません。
富野 よくわかると言って、宮崎弁護をするつもりはないけどさ。おおむね、年を取るっていうことは、ああいうことなんだぜって………アッハハハハハハ………いや、失礼(笑)。
僕のことで言えば、いや、きっと、そうなのね。ここまで言葉として聞かされたことないから、初めて聞かされたけど。僕の言ってること、もう、わかると思うけど。「映画って、やっぱり、ああじゃなくっちゃ」ってね。やっぱり、チンチンを振り振り見えてるほうが気持ちイイんだよね。
庵野 ええ、そうなんです。なんかボカシが入っているようなのは、嫌なんですよ。やっぱフリチンはフリチンのほうが。もしくは、ものすごくいい格好をして………。
富野 そう、全部ね。
庵野 ええ。そういうものを演じて見せてくれれば良いんですけど。それが出来ないんでした。「裸のフリしやがって、こいつめ!」っていうことに。
富野 それから、僕なんかの世代からみた時に宮崎作品に共通することなんですけど。我々の世代のエンタテインメントに関する弱点が見えすぎてるって気がしますね。特に映像に対して。どっかで「映画って高尚だ」と思っているんだろうなって。
僕が、いつも使ってる言葉で、オープンエンタテインメント、つまり、みんなで「ワーっ」と見ちゃう、そういうお楽しみ、活動大写真だったはずなんだけど。それが……やっぱり、宮さんとか高畑さんは頭がイイんだよね。技術あるんだよね。感性も、それほど悪くない。……まぁ、ロリコン趣味以外は。
一同 (笑)
富野 それが見えちゃってるのは、すごく辛いなっていうのはあります。映画についてのことで言えば、皆さん好きじゃないかもしれないけれど。「ニュー・シネマパラダイス」っていう映画が、僕、とても好きなの。「ニュー・シネマパラダイス」っていう映画の中で、若い兄ちゃん達が、あの島の兄ちゃん達が、ブリジットバルドーだかなんだかのビキニのちょっと出ている絵を見て「どうもこいつらセンズリかいてるらしい」っていう(シーン)のがあって「映画ってこうなんだよね(笑)」。……っていうあたりの根本的な違いがありそうだな。(宮崎さん達には)「映画を目指している」っていう描き方っていう感じが、ちょっとあるけれどね。
ただ、若い方に言われちゃうと全部こちらに対しての言葉っていう気がしてくるから、宮さんのことだとは、ちょっと思えないんだよね。
一同 (笑)。
富野 本当、気を付けているんだもの。
庵野 (富野さんの作品の)「裸」の感じがすごく好きなんですが。それが客から見て嫌悪感を抱かれるかもしれないんですけど。その辺は、もう(気にしないところまで)いっちゃってるんでしょうか。作り方が。
富野 そこまで意識するほどは、いってないです。
庵野 押井さんは「それは確信犯ではないか」と。
富野 確信犯って言われたいし、そう言われるように振る舞っているでしょうね。ただ、振る舞っているだけで、本当に確信をもって(裸を見せるかどうかの)境界線が見えているかどうかというと、それは見えてないよ。ぼくにはそこまで才能ないもの。その時その時で、良いにつけ、悪いにつけ、全力投球でしかやってない。僕流の言葉で言えば「若くあれ、それから、気合だ」。
その上で、「逆襲のシャア」あたりだと、「オンビジネスで、やってみせる!」っていう意識のほうが先行してるから、作品を作った意識っていうのはないですね。そっちにふれてるから、その確信論はないです。
やっぱりね、「逆襲のシャア」に関して作品論で言われちゃうと困ることがあるのは、仕事上の問題、つまり、取りまとめ意識しかないものだから。本当に、今、おっしゃられたことを考えるスキっていうのが、一度も、一度も、なかったの。
それから、もうひとつ。仕事の取りまとめ論だけじゃなくて、もうひとつ問題があるのは、あの時のアニメーター達の作画の仕方を、ほとんどプッツンしちゃうくらい拒否しちゃったのを、全部使わなくならなかったわけね。だから、そういう風に言われると、もうひたすら恐縮するだけ。
庵野 でも、あの、それからもうひとつ、「逆襲のシャア」で好きなのは、画を否定しているところなんですよ(これは演出描写が画面に頼っていない、という意味で)。
富野 そう、そう、そう。否定しているかもしれない。
庵野 ええ、羨ましいです。

セックス

富野 (「逆襲のシャア」に関して作品の印象が)やっぱ薄いんだよね。それと、たっぷりしなかったっていう反省ばかり。エンディングが、たっぷりしなかったっていう記憶が強くて。
庵野 せわしいですよね。時間軸がバンバン飛んで。
富野 でしょ。映画っていうのが物凄くショート・ショートだっていうのを痛感しちゃったっていう嫌な記憶しかなくって。
ただ、当然なんだけど、試写が終わったり、上映が始まった頃でいえば「こんなもんだ」っていう納得はあったし。何よりも、これは関係ないんだけど、試写が出来なかったので、例によってスケジュールが無くて、初日の日にバンダイの社長と角川書店の副社長のお二人が一緒に見てくれたんです。見終わった後に、バンダイの社長がね。「まあ、やっぱりこうやって終わらせてくれないと困るなあ。まあ、こんなもんですよね」。角川さんも、「うん、そうだよねえ。こうだよねえ」っていうのを(笑)本人の前でやるんだよ。「これでいいのか」とは思ったんだけど。
実は、作品に関しての合意っていうのは、その会話しか僕、知らないんですよ。全否定も無ければ、全肯定も無いっていう話で聞かされていたから、業務上は問題ないんだろうけれど、「こんなものなのかなあ」っていう。「映画監督になれなかった富野さん」っていうのを、なんか自覚したっていう印象しかなくって、テレるだけなの。こんな話をさせられただけでも。
庵野 分からなかった人のほうが多いんですよ、「逆襲のシャア」って、一度見て判断して。
富野 それは、よく分かるしね。そう思っているのはよく分かるしね。そういう意味では、映画として見やすく作っているか、分かりやすく作っているかというと、分かりやすくないし、見やすくないっていう自覚症状はやっぱりありましたね。僕にとって「悔しいけれど、あんなものだ」としか言えなかったあたり、………やっぱり悔しいなァ。
庵野 あと、「逆襲のシャア」で感じたのは、富野さんは、ケリをつけたかったのかな、という事なんですが。
富野 いや、このケリは、それは僕の文脈でわかるとおり、あくまで業務上の問題だけのことです。「ガンダム」そのもの、シリーズだけでも、ネームだけでも残る形にしておかないと。シャアとアムロの問題っていうことで、ケリをつけてみせたというだけのことで。
「みせた」っていうことに関してひとつだけ言うことがあるとすると、自分自身が戯作者になっていくためには、戦争物でケリをつけるんじゃなくて……その、そ、そ、そ。「シャアとアムロは、ひょっとしたらホモかもしれないんだ」というくらいに……もし、肉感的な部分がね、もし、出せたらいいし……何よりも戯作っていうのは……今、いった通り、肉感の部分で伝わるものが、ピックアップされていなければ、やっぱ、劇じゃないんだから。
だから、ああいうエンディングしか僕には思いつかなかったんだ。本当はもう少し、それこそ、もっとSFとしてね………とかね。カッコよく出来ればいいんだけど、やっぱりそれは思いつかなかったよね。あそこまでが僕の限界だったし、戯作者としてなれるような手がかりが掴めればいいなとか思ったけれど。どっちにしても、どっちつかずになってしまったという感慨しかなかった。
庵野 ところで皆、見慣れているから感じないみたいなんですけど。どうも僕にはアニメに出てくる人間が、「セル」にしか見えないんですよ、すごくうすっぺらい。
富野 それはわかる。
庵野 記号的ですよね。「セル」って凄く稚拙な表現手段に見えるんです。その薄っぺらい表現で、僕は初めて富野さんのアニメを見てセックスを連想したんです。ランバ・ラルとハモンなんですけど。あの二人は夫婦じゃないですよね。内縁の妻というのは汚い関係ですよね。
それをなんか、「あっ、この二人は夜は寝ているんだな」という感じを、それをカゲ無しのセルのああいう絵でですね。その表現を感じさせてくれたというのは、これはもう僕はすごい賞賛というか絶賛に値すると思うんです。それは高畑さんのアニメでも、宮崎さんのアニメでも、感じないことなんですよ。セックスを連想させてくれるのは、富野さんのアニメだけなんですよ。「逆シャア」というのは、特にそれを感じてですね。シャアとナナイに(この辺りは力説している)。
富野 うん……うん。だとしたら、嬉しいな。
庵野 あと好きなのは「ガンダムⅢ」のララァとシャアが、お茶を飲むだけという、あそこの描写がですね、こ、これはスゴイ(ここもコブシを握って)!
富野 うん、そう思うっていうのは、それしか無いんだから。それに賭けるっていう部分。
庵野 あの淡々とした描写で、あの二人の関係が出ちゃってるというのは、スゴイと思います。
富野 ナナイの話をされたから、思い出したんだけど。北爪くんのキャラクターとか、作画のチェック。それが何故、嫌なのかというと、「ここまでやっているのに、こいつらって! そういう事がまるでわかっていない!」っていうのが、もの凄い不快なんです。実を言うと、セックスを連想させるっていうのは、人様を連想させることに関する一番大切なキーワードなんですよね。こいつら、セックスというのものを、ひょっとしたらオマンコを見せてもセックスをわからないかも知れないっていうの(スタッフ達)を相手にしてナナイというキャラクターを出さなくっちゃいけないっていう事で、その事で疲れたっていうのはものすごくあるもの。
特に、男と女がひとつの場所に立つという瞬間。それを無視して、それを感じないで絵を描けるやつ。本当に、嫌い。嫌いだと言う。
庵野 そうですね。同じ画面に「二人の人」を意図して並ばせている、ということが、何故わからない。
富野 そうなんだよね。コーヒーカップの芝居でも、それが見えるのに、抱き合ってもそれが見えない絵になってしまうのは。
作劇論として言うと、業務の時に今、言ったほどハッキリした意識でやってるわけじゃないんです。「このフィルムの展開では、そういうことになるだろう」と思って見た時に「戯作者としての僕が構成を間違えちゃっているじゃないのか」という方に行っちゃうんだよね。「逆シャア」の時には、その意識が凄く強くて。どうも、コンストラクションの問題なんじゃないのかという。
庵野 僕は、それは単純に絵が、ついて来ていないのだろうと思います。
富野 今、わかるのは明らかに絵の問題なんです。そういう嫌悪感が僕の場合は、尾を引くね。
だから、さっきも言った宮崎さんのフィルムがロリコン趣味の部分が見えてね、って事についてね。「本来、ロリコンなんでしょ、だったらそれ言っちゃいなさいよ」。それを言わないでこうしてるから、いけないんだ。どういうことかっていうと、白いパンツが見える、その瞬間を、この描き手というか、演出家が、ファッションでしか見せていなかったり、知った風なものでしか見せていなかったり。(キャラクターの)肉付きがね、見えるって所まで意識しないで出すんなら、それは止めて欲しい。
それで、パンツの向こうも、もうひとつ脱がしたいんだろうって、それがあるのか、無いのか。やっぱり知った風な、ロリコン漫画風になっているのなら、それこそ教育上良くないから止めて欲しい。アニメなんていくらでも、見せないで済ませられるんだからね。
見せるからには、少女のお股の所に食い込んでいる白いパンツがね、光っているのか光ってないのか。「見えちゃったんだよ」なのか、「見えたから、どうなんだ」という部分なのか?
それはキチンとやって欲しい。例え、セル絵であってもなの。
だから、「その子のパンツを見てしまった」「見えてしまった」「見なくちゃいられなかった」。つまり、どっちかキチッとしてくれないと。そのキャラクターを出した意味が無いというよりも、僕、失礼じゃないかと思うんですよ。うかつにパンツを描いちゃって。失礼じゃないか。
庵野 そうですね。………耳が痛いです。
一同 (笑)。
庵野 全然、押さえられなくて。
富野 抑えきれないっていうのは、見せちゃえって事でしょう。見ちゃえってことでしょう。
庵野 いや、アニメーターの暴走も抑えられなくって。
富野 そして、そうでなければ………それはちょっとヤバイよ。うん、ヤバイよって。だから、そういうものは正にヤバイものとして、アングラとしてキチンとやりなさい。
そこで吐きだしちゃえば、少なくとも表に出ないで済むんだから。そのためにセンズリってあるんだよ。センズリをこっちでかいて、その代わりこっちでやるのはこうなんだって。
小黒 セックスの事を始め、そのキャラクターがそこにいる生々しい「気分」みたいなもの。それが「逆襲のシャア」には、満ち満ちていると思うんですが。
富野 うん。そう言ってくれると有り難いと思うんですがね。表現としては満ち満ちてないから。悔しいとしか言えないね。
庵野 あの歯がゆさは、僕も感じます。なぜ、わからんという。シャアとナナイの関係の件なんか「ああ、アニメーターが、わかってないなあ」と感じますけど。
富野 説明しなかったこっちがいけないっていうこともあるんだけど、違うよなァ。
庵野 シャアが腰にちょっと手を回すしぐさとか何とかなれば、かなり良くなるはずなんですけどね。
富野 それは演技論になってきちゃうんですよ。
庵野 そこまで、要求するのは難しいですか。
富野 うん、要求は出来ない。無い物ねだりだから。だから、安彦くんの事で思い出す事があるんだけど。
安彦くんの持ってた線のエロチシズムっていうのは、まさしく本能的にそれを出せたんです。困ったことに、安彦くんは自分の事をスケベだと思っていないという、決定的な致命傷(をもっていたんです)……。
庵野 そうなんですか。あれだけの(セクシーな絵を描く)方が……。
一同 (笑)。
富野 その自意識が無いんです。自意識が無いから(富野さんと安彦さんの関係は)こうなっちゃったんです。
「手前は、だから、だらしが無いんだよ! 『オマンコが好きです』って言っちゃえよ!」って所までの会話にまで行かなかったんです、結局、15年前は。
僕も15年前は、こういう風には言えなかったんです。ドギツイ言葉が使えなかったんじゃなくて、そこまで(互いの気持ちが)連動しなかったんで、すごく一般的な概念論で「なんで、あなたの生き方とか、ものの考え方は!」という話になっちゃったの。
庵野 セックスの話まで行かなかったんですね。
井上 青年っぽかったんですね(笑)。
富野 そう、それで世間の大人の使う言葉を使っていたということです。今、まさに安彦くんとの経験で言えばそういう事でしょう。

作業論

富野 本当に、ごめん。「逆襲のシャア」に関しては、「Ζ」ほど喚起されないんだ。本当に、ごめん。
庵野 「逆襲のシャア」を見て面白いと思ったのは、例えばスペースコロニーという場がサンライズという会社やアニメ界に見えたり、重力に魂をとらわれた人々というのがアニメだけを見て変な育ち方をした人達に思えたりするんですよ。これはやはり、自分の周辺や経験をドラマに置き換えてるのですか。
富野 それは、いつからか忘れてしまったんですけれど、それはそういう風に、キチンと置き換えています。具体的に言うと、ジオン軍であったり、その時の敵であるティターンズもそうだし、「サンライズの4階の連中め!」って思って置き換えてもいるし……サンライズの4階の連中っていうのは、サンライズの偉いさんね。
初めの作業論としては、そういう置き換えのところから始まったんだけど、実は「ガンダム」を作りながら……話を簡単にするために御大層な言い方をしますけれど、特に人間が文明、文化ってものをもってきてからの経緯みたいなものに、置き換えてみたんです。置き換えてみて、わかることがあったのは、ああ成るほど、基本的に人類っていうのは、道具を持ち始めてから、閉鎖空間を作っていってしまったんだよなっていうふうにも、置き換えたんです。
庵野 道具……農耕みたいなものですか。
井上 経済みたいなもの?
富野 特に経済っていうものは、閉塞感とか、密閉感をより強力にしていったっていうふうに置き換えています。で、置き換えている中で、特にこの1、2年に勉強している中で、それが実は経済学の中でもそうだし、比較人類学という分野でもそうだし、考古学の分野でもそうだし、具体的にその部分を文化史の問題として指摘する人がかなり出てきている。文明の進歩だ、歴史がこうやって段階的にいっているということに、果たしてそうだったのかってことに、クエスチョンマークがつきはじめて。我々は、この歴史を……古い言葉で申し訳ないんだけど、解体して作り直すくらいにしないと本当にヤバイんじゃないかという論調があちこちから明快に出てます。最近、特に面白かったのは、まだ、よみきった本じゃないんだけど。「魔術の復権」かな「魔法の復権」かな……っていうテーマで、魔術があった、魔法があった時代の方が間違いが無かったんじゃなかったのじゃないか。自然との共存論でいうときに。その論証がかいてあるんですけど、結局、道具が発明されて科学技術が……。<以下略。社会発達の関係の話が続きます>

女性

小黒 やはり、個々のセリフにも、自分の周辺的な所から引いて意味を付けていってるという事ですか。
富野 付けています。そういう風に付けていく事で、実はセリフということの「肉声」。作り辛いんです。
庵野 やっぱりセリフで聞かす「自分の声」っていうのは、そうなりますよね、経験論に。
富野 なります。今、言ったような一般論っていうのを、実はセリフにするのはとても難しいんです。こういうところでペラペラペラと、通念として、考え方として話すのは、話せても、劇の中ではどうしても馴染みません。演説になっちゃいます。演説っていうのはね、映画一本の中に1回あればイイんだよね。
一同 (笑)。
富野 と言った時に具体的な敵を想定して、セリフを作っていくし、劇を作っていくということはします。だから、最初の「ガンダム」の場合の敵は「ヤマトを潰せ」「西崎を潰せ」です。これしか、僕には無い。それは、未だにひとつの目標としてずっと残ってる事なんです。
そういう意味では、そういう敵を設定させてくれた西崎さんと「ヤマト」には大変、僕は感謝してます。言っちゃえば、あれがなければあそこまでは燃えなかったよねえ。だから、僕にとっては、安彦君っていうのは敵ににはしたくなかったんだけども。
逃げて行ってしまったから、仮想敵になってしまって、困ったもんだというのはあって「本当はお前もこちらでね。やってね」っていうのは、今でも悔しいことであって。それは、永野護くんについても言えることかもしれない。
井上 (富野さんの)劇の中で、よく女が裏切ってどっかへ行っちゃうのは、そういうのが影響しているのかもしれない?
富野 う〜〜ん、してないとはいえないでしょうね。
庵野 でも、裏切るのは大抵女性ですよ。
富野 いや、そうかな。
井上・小黒 (ハモって)そう!
一同 (笑)。
富野 女はね、そういう時に裏切るって言うんじゃないのよ。女はね、変わり身が早いの。男から見るとそれは裏切りに見えるの。そういう意味では、男の方が持ち駒が少ないんですよ。
小黒 この前、井上さんがおっしゃってましたよね。富野アニメで女性が裏切るのは、必ず男性絡みだって。
井上 見た目は、主義とかイデオロギーで動いているようにみえるけれど、男にある種の限界を感じて裏切っているんですよね。
富野 男性を見切るんだよね。一番いい例が、美里美寿々とあの亭主の関係。だれが見てもねって「お前の器量が小さいから、見捨てられても、しょうがないの!」って。ああいう事のほうが多いでしょう。
それはね、女を弁護するワケじゃないけど、まあ、半分は弁護することになっちゃうんだけど、どうしてそんな風に見切れるかというと基本的に自衛本能だと思ってるの。「女はある部分、拠るべきものがないと暮らしていけない」。これは実は男が刷り込んだ認識論なのね。で、それに女が慣れていった時に、何を始めたかというと、「自分が生きるために」とか「自分が気持ちがいいために」とか「あたしが気持ちのいいセックスが相手はお前じゃないんだよね」と思った時に、パッと移れる。
あれは有史以来4000年、5000年の間に訓練された認識論なんですよね。母系社会の頃はそうじゃないもの。女は逃げられないもの。それがいつの間にか、戦争ががあったおかげで、男が実権を握れたのよね。握った瞬間に、女がなにをやったかというと、自分達は率先して死にたくない。自分達は子供を孕んでいたから戦争できないからって、男にやらせたの。その時、男は馬鹿だったから、それで戦いに勝てば「お前たちを守ったよ」という構造が取れたの。その時、女達は「しめた」と思ったの。
だから、守ってくれる処に飛び込んでみせる。だけど、そいつが自分に相応しいオスでは無いと思った時に、スッと逃げていってしまう。女ってそういうもの。男って、実はもともと女を孕ませるしか、何の能力も持っていない種だったんじゃないのか。
そのことが端的に言える例があるのが、最近では少なくなったらしいんだけど、東南アジアにしても熱い地方で原始社会形態をとっている部族や種族では、男って働かないのよね。特に狩猟民族の形態をとっている男っていうのは、まさに狩りという第一義な行動のリアクション以外、帰って来た時、ひねもす何もしてないものね。
実は子育てをした女っていうのが種の本体でしかなくって……男って(笑)最悪なんだよ。「お前ら、少し自覚しろ!」って……そういう話。だから、経済社会っていうのは、まさに男が平和時でも働いてみせるってシステムを作らないと、どうも女っていうのはついてきてくれない。だから、作ったんでしょ。それだと思います。
庵野 経済は男の為のものだと思います。
富野 男が作ったんだけど、それで女がどこまで幸せになったかというと、少しは綺麗な服が着られたり、田地田畑を一万坪買い占めたとしても、その事が嬉しいとか嬉しくないとかないよね。一万坪の真ん中に住んでりゃ他の男に襲われる可能性が少し減るから、そういうことだよね(笑)。
だから、男は女が子供を産むっていう事を、特に近代社会ってのは軽く考えていたのが、ひどかったんじゃないか。封建社会の時代に男尊女卑だって言われてたけど、男尊女卑だから、まさしく跡継ぎを産めない、産まず女なんか勝手に離婚できるってかたちで、男社会の権利を執行したのよね。執行していながら、男が女から足を一歩も足が引けなかったっていうのは、「だって、誰かに産ませなくては仕方がない」っていうことを、徳川三百年でもやってきたんだよ。あれはいったい何だったんだろうと。
それで、むしろ僕は、男が女を苛めるという図式が日常行為の中にあるっていうのは、まさに根本的な動物の種の問題としての力関係ってのを絶対に凌駕できないから、腕力論で女をひれ伏せさせてみたいとか、みせるという所に反動が来るだけで、その事が根本的に主権が揺るがないのは、女が苛められてみせる事ができるのは、どういうことかって言うと「孕むのはこっちよ」っていう。産んだら、産まれたガキ、お前が養えるのかって言った時に「やるのはこっちよね」って。
SMプレイの時にどうも、その気配を感じるよね。そうでなかったら、女はあんなにさ、「あっ! あっ! あっ!」(ジェスチュア付き)なんてやってみせないからね。
一同 (笑)。
富野 究極的に自分が本当におとしめられて殺されるっていう時には、本当に抵抗するよ。そこまで行ってない時になんで、SMプレイが成り立つかっていうと「絶対に主権は動かない」っていう確固たるものがあるからでしょう。そうでなかったら、あんな大股開きできないもの。だって男にはあそこまで出来ないもの。「女王様のウンコを食わせて下さい」っていう所まで考えてごらんなさい、おとしめられるのはそこまでで、「チンポコ抜いちゃうぞ!」って言われた時にさ、どこまで「ヒ〜、ヒ〜、ヒ〜!」(これもジェスチュア付き)って喜べるかっていう。自信ねえぞっ! ……て。
庵野 そりゃ、分からないですね(笑)。
一同 (笑)。
富野 僕もちょっとわかんないけど、ちょっと自信ねえぞ。だって、決定的な弱者って苛められるのは、凄く嫌だよね。だから、特に身障者の福祉論なんていうのは、つまり弱者の権利っていうのは、あれだけ声高に言うじゃない。あれなんか、ちょっとでも蔑視の眼でもなげかけただけで、反論するのよ。つまり遊び事なんか絶対できないのよ。
SMプレイっていうのが成立するのは、その主権が絶対動かないっていう保証が、つまり、肉体にあるからでしょう。そうでなかったら、あんなヤバイこと、オトナの仕事でもやらせられないよね。「ビデオで売って、今年一年のりきるためだから」って言ったってさ、本当の弱者だったら、絶対にできないよ。
本当、よくわかったよ。よくわかんなかったけど、なんでああいうことをみんなやっちゃうんだろうかって。だから、自信があるんだよ。ビデオカメラの前に立って、「いいわよ〜!」とかって、縛られて「あんたも好きなのね」って言っていられるっていうのは。
……………………御免ね。全然違う話になっちゃって。
こういう話は、オフレコじゃありませんから、全然。そのことで名誉を傷つけられるような、そういう話じゃありませんもんね。論理的に。
庵野 ええ。
小黒 (手をあげて)いいですか。
富野 うん。
小黒 いきなり、ここでアニメの話をすると、なにか。
井上 なにか場違いな感じが。
一同 (笑)。

肉付き

小黒 ここに至るまで、他の方に「逆襲のシャア」の話を聞いてきました。その辺りから、話を切り崩して行きたいと思います。
山賀博之さんがおっしゃるには、富野さんはスペースコロニーを舞台とした時は、その世界にそれがある、と思ってやっている。本気で足元に宇宙が広がっていると想像している、と。これは「スゴイ」ことですよね(何故か興奮している)!
富野 あの、「すごい」って言ってくれる事に関していうと、それは当然ですよって言えます。「逆襲のシャア」までで、すでに10年近くスペースコロニーのことを考えてきています。逆にその程度の想像力が無ければどうしようもないことです。まさに、それは訓練でもあったし、積み重ねでもあった。「すごい」とおっしゃるのは、第三者だからなんで、当事者として当たり前の事であって。
逆に、その程度の事ができなくては、劇なんか作っちゃいけないんじゃないのかなと、どっかで思っている所があるので、そういう風に感じられるように作れたのは、当然の事なのです。
問題なのは、その上でドラマとして劇としてどうなのかっていうのが、僕にとって一番、問われるべき事なんだから。さっきも言ったように、認知され無かったっていう挫折感の方が強かったんです。だけど、フィクションの中の現実については、そこまで「考えましたよ」………じゃなくて「感じられました」よ。それは、やはり10年の訓練があったからできた事です。
その上で「感じられた」からこそ、その後の「逆シャア」からの5、6年の中で、やはりスペースコロニーの概念っていうのは根本的に変わってきました。やっぱりスペースコロニーは全否定しとくしかないんだ。地球そのものを、やっぱりスペースコロニーにしとくしかないんだ……っていった所での我々の生き様……そういうものを考えなくっちゃいけない時代が来ちゃった……という風に、僕の場合、キチンと直結しています。
小黒 スペースコロニーという事に限らず、登場人物に関しても同様でしょうか。例えばシャアとか(これも何故か興奮している)!
富野 それに関しても、やはり10年というキャリアがあったからですよ。あの僕の中にシャアなら、シャアというキャラクターの「肉付き」があるんですよ。つまり、どうして、こいつはこの肉体を持っているのか。それで、肉体っていうのは何を共有しているのか。そして何よりも、肉体っていうのは、生まれ出て死んでいくものなんだ……っていう時のメンタルな部分っていうのを、少しでも想像するよ。
想像するよなって言った時に、マザーコンプレックスみたいな部分で、ひとつの欠陥論として浮かび上がってくる人生であったのかもしれない。ということは、戯作する上での人物の背景を制作しなくちゃいけないという立場に追い込まれれば、その程度のことは考えますよ。
一同 (笑)。
小黒 その程度の事、ですか……。
庵野 「逆シャア」ではキャラが確実に最初の「ガンダム」から年を取っているのが、凄く良かったです。
富野 ウン。良かったですし、でも、その事に関しては美点ばかりじゃないんですよ。お楽しみ映画で、年を取るのをこうも見せられるのは辛い! だから「逆シャア」みたいな作り片はしちゃいけないんだ。
井上 それは完成してから思われたんですか。
富野 それは作っている時から。コンテを作っている時から。「やっぱり、年取った……」。それはアムロにも感じているし。もう、切ないよねえ……。分かりやすく言いたいから、こう言うけれど「人生っていうのは切ないんだよねえ」ってところは、あったし。
時に男が女に抱きつきたいと思った時にね、どうせならナナイみたいな女に、シャアは抱きついて欲しいと思ったし。何よりも、ナナイってキャラクターを作るときにシャアが抱きついても恥ずかしくない女にしたいって思いが働くわけ。そうした時に、どういう女だろうって時に、僕の中にあるのは「センズリズム」なわけね。気持ち良くシャアがセンズリかけたり、シャアのチンポコをスキスキしてくれる女っていうのは、どういう女なのだろうって事なの。僕にとって「肉付き」っていう言葉は、こういう事なの。セル一枚の女がね、ここに(股間を指して)張り付いててね。(それが、ただのセル)だったらね、突き抜けちゃうよ! どうしてもそこに「肉付き」っていう言葉が付くの。それが見えないキャラクターは、見ててきっと気持ち悪いだろう。
庵野 そう思います。
富野 だから、セックスを感じるっていうのは、正に、あれは偶然だったんだけど……偶然というか勘なのよね。ランバ・ラルとハモンっていうキャラクターを作ったあの一連のシーンに、僕自身がゾクゾクっと来たんだもの。「アニメで、できるじゃないか!!」と思った時から……。さっきからずっと、ここで僕が話しているセックスにからめて人を考えていく。表現していくっていうことは、若い人には聞きづらいかもしれないけれど。
ある程度、年をとってきた時にわかるのは、まさにその部分で人がよく分かってくる……っていう時にセックス抜きでは考えられないの。だから、言っちゃえば「ナナイのオマンコってどんな格好しているんだろう」っていう想像は、絶対にしといてあげないと。
特にシナリオの段階では考えない。絵コンテを描く時にね、ナナイが可哀想だもの。「この娘のオマンコの格好はね、ヘロッとした貧相なものじゃイヤだ」っていうのがキチッとある。「こんなのだったら、シャアをくわえ込んでもね。シャアもみっともなくないし、ナナイもつまんない女じゃない」。……という所で、今度は演技論で出てくるわけ。
どういう風に座っているかとか、座っている所で、ナナイがシャアの膝に腰をかけるってシーンで、この女がどんな風に黙って抱かれるのかっていうのは、それは勝負だもの。遊び事じゃあない。
それがハマった時に、コンテの段階で涙流しているワケです、こっちは。「うわ〜〜! できた〜〜!」っていうのがあるわけ。すると(そのシーンの作画が要求を満たしていないと)「アニメーターの馬鹿野郎〜〜! 手前はなんなんだァ〜〜!」って事になるわけ。「手前はなんなんだァ」って時に、だけどこれでOKしなくちゃ駄目だって時に、本当に萎えちゃってるんだもの、気分が。萎えちゃってね、こっちのチンポも立たねえよっていうのもあるもの。
もっと(怒りを感じる事が)「ある」のが、声優を選ぶ時。もう、男に抱かれたら、もう、ウッフン(もちろんジェスチュア付き)。「手前、違うだろう〜〜」っていうのはある。「胸を反らして男に抱かれろ!」とかね。「この男、私のオマンコをちゃんとナメてくんなかったら、ぶっ殺すぞ」って、何故思えない! ってのはあるもの。触られたり抱かれたり、すぐ感じることしか知らない役者とかが多くて、僕は、そういうのは、大っ嫌いです。これも、書いて下さって結構です。
庵野 それはまさしくその通りです。
井上 演技が記号になっちゃうんですね。
富野 そうなんです。
庵野 狭いんですよ。役者の演技の幅が。
小黒 細かいディティールの話になっちゃうんですが。ギュネイのセリフで「大佐のララァ・スンって寝言を聞いた女はかなりいるんだ!」っていうセリフがあるんですが。
富野 フフフフ、アッハハハハハハ! そんなセリフあったァ(大受け)?
庵野 ありますよ。
小黒 あのセリフを聞いた時には、呆然としましたが。
富野 (嬉)そうなのよ。そうですよ!
庵野 凄く、「リアル」に聞こえるんですよ(笑)。
富野 (嬉)そうなのよ。そうなの!
小黒 あのセリフを聞くと、きっとシャアはその寝言を聞かれた女に、いい加減な事を言ってごまかしたに違いないとか想像するじゃないですか(笑)。あのたった一言のセリフの背後にあるものの凄さ(これもまた興奮して)!
富野 セックスの話じゃないけれど、だけど、そこから全部始まって、人っていうのはそこに支配されているわけじゃない。…………ああ! そんなセリフがあった? 嬉しいなあ。
庵野 ええ、いいセリフですよ。
富野 絶対そうです。
庵野 あのセリフはおいそれと出てくるものじゃ……。
富野 その事も、今こうして話していてセックスの話を出していたんだけど「悔しいけれど」っていう言い方になるのかな。その事と違う話になるんだけど、僕ね。結局、そういうセリフを具体的に作れるように、原点になる言葉がひとつだけあるんですよ。
三島由紀夫が子供ができてしばらくして言った言葉なんだけど「子供の寝顔を見ると、悔しいけれど、可愛いと感じる」。これは一見、セックスと関係ない様に見えるけれど、そうじゃなくて。作家として、孤高の作家として立っていこうと思った、つまり、私情なんて一片も入れないで書いていこうと思った背筋の見えている男がね。あれだけのツッパリ兄ちゃんだったわけ。
あれ、聞いた時に「オレ、三島クン、好きになったよ」っていう(笑)。まさに、そう。かわいさっていう………今の子達が言う「かわいさ」と違う。なんて言うのかな「俺は男をやるんだぜ〜〜!」って、こうまでギリギリで詰めて詰めて、最後には自分で腹切った人だからね。戦後の時代にね。その男が、自分の子供をかわいいと感じちゃうんだよ。そこに出てくる心情。それはまさに動物として種として、もの凄く率直なもの。そのモチーフっていったい何なんだろうって考えた時に、当然、親子の関係なんだけど。その親子の関係の根源的にあるものって何だろうと思った時に、究極的に種が繰り返していく。
まさしく、そのキーワード一点にかかって我々は今日まで来たのではないかと思った時に。普通の凡俗、シャアだって所詮は凡俗なんだ。その程度のボロがなかったら、かわいくないよねって(笑)。
それだけの事! まさしく僕が言ってる「肉付き」を、セルアニメの中で表現していこうとした時に、そういう言葉っていうのを、自分の中に見つける作業をしなくちゃいけない時に、さっき言ったように………人類全部のどうのこうのという事もあるんだけど………最終的に戯作、劇として表現する時に、その「肉声」を見つけだしていくかって事に尽きてくるから。
セックスに隣接する部分での会話ってのを、ジリジリ、ジリジリと(探して)回り続けてるっていう作業は、せざるを得ない。それだけの事です。だけど、これは基本的に劇を作る人の感性だと思うんです。
ただね、その事は僕の作業論なり、人物作り方の方法論であって、それは、今度は冷静に言うんだけど、映画として、ロボット物のヒロイックファンタジー物として妥当かどうかというのは、ずっとクエスチョンマークが付いてますよ。もっと「シャラ」っと出来たらいいなという憧れはありますよ。
小黒 それは富野さんの中では、技術としてあるんですか、必然としてあるんですか。
富野 半分は技術ですね。半分は必然ではなくて、憧れている部分です。さっきから何度も言っている戯作者になりたい、描きたい。やはり、もう少しちゃんとしたドラマを死ぬまでに作りたいというのは、欲だもの。
小黒 その「ちゃんとしたドラマ」っていうのは、一言では言えないと思いますが、例えばどんなものでしょうか。
富野 そんなの知るか(笑)。それは、知らない。
小黒 「肉付きのあるキャラクター」が描けてることは、それに必要な要素なんでしょうね。
富野 うん。あと、自分に課している問題として、そういう技術を自分の中で鍛えたいと思っているわけ。鍛えたいと思っているから、ロボット物を使ってでもやっちゃおうと思っている。だから、まだ、まだ、じゃなくて、結局一生。死ぬまで続けていくんじゃないかな。
結局、この程度の才能しか無ければという言葉を、外交辞令的に言ってる訳じゃないし、実を言うと「ガンダム」くらいのものがあれば、そんなことを言っちゃいけませんよ、という言われ方もあるとは思うんだけど。あの、作り手がひとつだけ思わなくちゃいけないのは「ガンダム」程度でも無いよりは、あるに越したことはないけれど、あることによって自分は卑下はしてない。だけど、やっぱり「ガンダム」で劇が作れると思っちゃいけない。巨大ロボットというとても便利なルックスの、いいものがあるから出来ているワケで。
だから、「ガンダム」抜きで出来るかっていうと、やはりその自信は全然ない。ですから、やはり戯作者になりたい、今、これしか目指す方法がないからね。
小黒 あの、クェスに関してですが、富野さんの中ではどんな娘なんでしょうか?
富野 いや、あの通りの娘でしかないんでしょう。何故、クェスみたいな娘を設定したのかという事に関して言えば、正に技術論でやったことでしかないんで多少、後ろめたい事があるんです。
「キッカケとして、ああいうキャラクターがいるだろう」っていう事でやったというのが一番の真骨頂だから。その時のキッカケとして、じゃあ、クェスみたいな娘でなくてもいいじゃないかって言った時に、さっきチラッと言ったロリコンの話が実は下敷きにあるんです。
つまり、我々の世界の持ってるロリコン論っていうのが、すごい曖昧な表現で嫌だっていうのがあって、それと対極的なキャラクターとして設定したというのは、あります。どこが対極なのかと言われるとちょっと困るんだけど。つまり、「自分が子供であるということを意識しすぎている子」……という嫌らしさっていうのは、「これはお友達にはなれないだろう、お父さん達には」って言いたいの。だから、クェスを出したっていう………今にして言えば、宮崎さん辺りにぶつけるキャラクターであったのかもしれないな。
小川 じゃあ、エルピー・プルの裏返しみたいな。
富野 僕にとっては裏返しじゃないです。両方同じです。クェスのほうが、簡単に言っちゃえば、ちょっとだけ大人びちゃったのかな。
小川 自意識が過剰……?
富野 そう、そう、そう。ちょっとカリカチュアライズしすぎたという意識が、あるのかもしれない。プルの方がもうちょっと素直だったのと、もう少し技術論だけでやっていたような気がする。ちょっと記憶としては自信がないけど。

アムロ

庵野 富野さんのフィルムの切り方(=編集の仕方)って、すごく独特ですよね。
富野 僕は、そうは思ってないんだけど。僕のフィルムの切り方はオーソドックスだと言って欲しいんです。
庵野 (アレが)オーソドックスですか。
富野 オーソドックスですよ。映画の編集の基本はこうなんだよっていう事を、僕はこの30年間ずっと意識して切ってます。他の人、アニメに関しては論外の人が多いし、最近のハリウッド映画なんかを見てると、やはりひとつのセオリーが無くなっちゃって、気分でフィルムを上手につなぎ始めているというのが見えるので、オーソドックスにフィルムを編集する事を凄く意識してます。
庵野 いや、でもなんか、カットの切り方が独特だと思います。途中で切りますよね、流れの途中で。ズバッと。
富野 それはありますね。そういう風に感じている部分に関しては編集としては失敗の部分だと思います。どうしてかっていうと、ひとつには与えられている絵が、この程度の絵しか与えられていないから。結局、そこで帳尻をあわせなくっちゃいけないっていう編集を4、50%してますから。
庵野 やはりそうですか。成る程。
富野 だから、理想じゃないですよ。
庵野 やはり、上がったフィルムを見ての判断ですね。
富野 基本はそうですよ。余剰をね、あと10%ぐらい作画させてくれれば、正にオーソドックスな編集の仕方をみせてやれるっていう自信はあるんですが、その10%の作画ができない。それはアニメーターの技術論にも関わってくるし、そこまでコントロールしきれていないっていうこともありまして。
だから、現場的な事情で、手抜きで放り出している部分は、かなりあります。それに関しては、申し訳ないと思ってます。
小川 先程の周辺の物事を作品中にオーバーラップさせるという事に関してですけど。先の山賀さんの取材で出た話なんですが、赤いモビルスーツに乗っているシャアとロボットアニメを作り続けている富野由悠季は、オーバーラップするのではないかと。
富野 それはするでしょう。それも簡単な理由なんです。つまり、技術論として凄く象徴的なんです。赤いモビルスーツに乗っているシャアというのは、何故したかというと「ひっかけ」でやってる技術論でしかない。そうすると、僕がテレビアニメ屋であるのは、技術職として、職人としてやってみせてますから。完璧にダブります。それ以上のことはありません。
庵野 オトナの仕事を感じます(真顔で)。
富野 ああ、そう言われると、テレるぜ(笑)。
庵野 山賀くんとの話でも出たんですけど、僕自身も含めて「趣味」の延長なんですよ。「仕事」じゃないんです。好きな事をやって、お金を貰えて、こりゃあいいやって事でやってますから。富野さんの作品を見ると「仕事」でやっていて「ああ、今の僕にはまだ出来ないな」って。
富野 それに関していえば、間違いなく、趣味の部分との接点を持ってますよ。アニメの仕事と。持ってますけど、僕が基本的にアニメの仕事を始めたのは、ハナから仕事で始めましたし。やればやるほど、アニメが嫌いになった人間ですから、趣味としてのめり込むのなら、よっぽどSMとか、そうでなかったら本当に機械。無機質な部分に走ります。
庵野 それと、気になったのは、アムロのセリフでですね。クェスとギュネイが絡みついてきた時に、「子供の相手なんかしてられるか」っていうのがあったんです。あれが、なんか引っ掛かって良かったんですが。
富野 アムロがそれを言ったんですか?
庵野 アムロが言ったんです。
富野 アムロがそれを言ったのなら、自分自身苦笑しちゃうくらい、おかしいことなんだけど。「アムロって、だからバカなんだよね」っていうのがあって。要するに自分が大人になりきれない部分で、凄く煩わしい?
庵野 なんか偽善に走ってますよね。彼は。
富野 だけど、それだってあることでしょう(笑)。
庵野 あと、いいセリフだなと思ったのはシャアの「行け、アクシズ! 忌まわしき記憶と共に!」っていう。
富野 アハハハハ(これは大爆笑)!
庵野 これ、富野さんにとっては「Ζ」の事かなっと思いましたが。
富野 ああ……というよりも、今の「アニメが嫌いになりました」という事に繋がってきます。基本的にこういう形では作りたくないんだ。戯作者でありたい自分が、いったい何を求めているのかわからないけれど、こういう風にしか出来ないんだという事も含めて、あの、趣味として惚れ込んでない部分が、どうしても表現になってしまうんです。
庵野 僕はそういう「引いた」ところが好きなんです。これは今の自分にはまるで無いものですから。
富野 成る程ね。でも、僕は自分の姿勢がいいとは思ってないし。もうちょっと愛情をもって作っていかなくっちゃいけないのじゃないかとは………それはひとつの憧れ論としては、当然、持ちますよ。そういう可能性を否定できるほど自分は鈍感だと思っていません。それで思っていないから、愛していきたいんだけど。
そのためにはひとつ……これは究極的な無い物ねだりなんだけど、自分の中には安彦くん程の才能が無かったし……安彦くんみたいな人に、また、出会えるならばね。この仕事自体をもっと好きになれるだろう。その点に関しては「無念だな」と思う。
思いながら、これだけは急いで言っておかなくちゃならない事があって「Vガンダム」の事なんだけど。だけど、今回「Vガンダム」みたいな作品をやって、実を言うと、以前ほどアニメーターという人を嫌いじゃないの。「Ζ」や「ΖΖ」をやっていた頃のアニメーターほど嫌いじゃないの。「ああ、捨てたもんじゃない」。
ひょっとしたら、このグチャグチャさ加減がとてもいいことじゃないのかっていう意味で、今、アニメーターに関して好きになり始めた。
僕が分かった事があるのは、今、アニメーションの現場にいる人達っていうのは、本当の意味でアニメーションや映画っていう事を何も教えられないで、やらされちゃったという事で。わかんないなりに若さとか元気とかがあるんなら、捨てたもんじゃないし「とってもいい形でバケる事もあるな」っていう事を感じるようになって、凄く気持ちがいい。
もっと上手に体自身が気持ちよく思えるように、ストーリーテリングから演出までをしてあげられなかったなという事で、申し訳ないと思っているっていうのが、本当の事です。
小黒 前に、カミーユを作る時に、放映当時の子供達を念頭において、という話がありましたが、当然、アムロも、最初のシリーズの放映開始時の子供を念頭に?
富野 いや。それほど強固なものはカミーユほどにはありません。やっぱり、アムロに関してはかなりフロック的に当たったという部分で成長させてもらえた。それは、安彦くんが描いたアムロが動き出してからフィードバックしていったということもあるし、初期設定においてはそれほどはっきりしたキャラクターのイメージが明瞭にあったとは思えない。
当時はいろんな事を言ってると思いますよ。今回のウッソみたいに初期設定の段階でハッキリさせるっていうところまでいってない。そういう意味ではキャラクターの作り方がまだ、未熟であったという事はあります。それが結果としては悪い事は何も無いわけだから。全部決め込むっていうのは、かなり危険だ。
小黒 いきなり自分の話をして恐縮なんですが、僕は1作目の「ガンダム」の時にアムロと同じ中学生だったんですよ。それで「逆襲のシャア」を見ると、アムロが全然、大人になっていなくて「これはリアルすぎる」なんてショックを受けました。そのあたり、なかなか大人になれない、アニメファンに対する作為みたいなものは、無いですか。
富野 作為は無いです。「逆シャア」に関しては、ロジックで、しようがない。作品の歴史、時間が流れているわけですから、それは作為しようが無いという。それは作者の作為は働きません。それは、さっき言った「肉づき論」「肉づけ論」……の部分で、演出家が悪戦苦闘しているだけで、バックボーンとか何かについては何一つ手は下せなかった。
小川 富野さんにとってアムロというのはどういう位置にあるんですか? 抽象的な質問ですが。
富野 ちょっと抽象的すぎるから、答えようがないな。
小黒 では、アムロよりシャアの方が近いですか。
富野 勿論、そうです。アムロは僕にとっての子供でしかない。(物語を作る上での)道具にはなりません。道具にはならないから、アムロとしての私見というか、エゴを持ったんでしょう。
小川 では、アムロに対して肯定的か否定的かというと。
富野 全くニュートラルです。つまり、こちらが作為を働かせたのは、ただ一点で。お父さんとお母さんがああであって、お母さんが勝手に逃げ出してしまったっていう「もの」を背負わせたという作為が働いていただけで、その作為に対して「お前がどうせい、こうせい」という振りは一切していない。ああなってしまったという事は、シャアとの関係の中でという部分でアムロが勝手にやった事だという意識があります。
庵野 やはり、そうですか。作ってないですよね、アムロ
富野 主人公らしく描かねばならないという技術論は当然あります。それ以上の事はないです。
小川 シャアに関しては自己投影して作っている部分が。
富野 それはあります。そういう事を言ったら、アムロが子供でしかないというのは、コントロールできない個性になっちゃってるから。「お前を寝技に持ち込んででも、なんとかやってみせる」って所までいけなかった。
だから、思い出す事があるのは「逆シャア」のラストシーンがああいう形になった一番の理由のは(アムロに対して)「お前がもっとヒーローなら、もっとかっこよく終われたんだよね!」という不足感が、少なくとも僕にはある。
庵野 成る程! クリアになりました。
富野 「勝てなかったじゃないか!」って。
小黒 アムロが、あのアムロだから勝てなかった。
富野 そう、そう。勝てなかった。映画屋として、シナリオの段階で一応、あの絵は思い付いたんだけど「終わりっぽい感じの絵にするっていうのは、どういう絵にすればいいんだろう」って、かなり悩んだのは事実。
小川 では、シャアがアムロに塩を送ったりするのは、まさしく富野さんの………。
富野 でしょうね。しょうがなかったから。ああでもしないと、花を持たせられないじゃないかという苛立ちのほうが強かったっていうのを……思い出した。ですから、完璧に他人ですよ、アムロは。
うん。それで、今、自分自身の本物の子供が21と19か……になたんですよ。当然、全然言う事聞かないんですよ。まさに、生んだ子だから似てもいるだろう、生んだ子だから親の言う事を多少聞くかもしれない。怖い。生んで育てた子だから、その子の勝手を放任してしまったっていう部分が、アムロに対して間違いなくあります。
小黒 シャアの方が、もっと自分に近いですか?
富野 近いっていうよりも、対等の所で心情がわかる相手だもの。「お前、そんなマスクをいつまでも被っていて恥ずかしくねえかい」ということを含めて(一同笑い)チャンとあるもの。アムロはそういうものが無くて、ごく普通に育ってきちゃってくれたから。
だからじゃないの。「Ζガンダム」における、アムロとシャアの出っ込み引っ込みに関するある部分っていうのは、そういう風に勝手に動いちゃって、どうしようもないって部分があったんじゃないかな。
庵野 そうですね。カミーユはコントロールされている感じがありましたけど。
富野 あれは作っているという意識があるもの。初期設定のまんま走らせたっていう。
庵野 シャアとアムロは、本当に勝手に出たり引っ込んだりして。何か演出家が止めるのも聞かず勝手に舞台に上がって「あっ、しまった」と云って引っ込んでる感じがします。
富野 それは、手ごたえとしてありました。そういう位置関係なんでしょうね。だから、なんです。あの、結局、フィクション作る上で、あなたが趣味で作っているって仰っていたけど。(キャラクターに)自意識を持たせているつもりでも、趣味で作っちゃうと全部が自分のものなんですよね。
庵野 ええ、そうなんです。
富野 だから、全部がオナペットなんです。
庵野 ええ。嫌ですねえ。
富野 僕の場合、アニメが嫌いだった事も幸いしたし、こういう「気分」を持っている人間だったからでしょうね。全部に同化出来ない部分というのを持っていて、そういう部分を継ぎ足していかなくてはならなくて、それを職人芸でやってみせて、やってみせているんだけど、これだけの人物が関わっていると、こぼれている奴が出てくる。
そのこぼれる部分で突出してくる、部分もあるのでその作劇論というのがまた、今度は作劇論を使わないといけないということで、出っこみ、引っ込みというのはかなりある。………ということで。
庵野 シャアは赤い服を捨ててしまったんですね(悲)。
富野 そういうことです。
庵野 なんか寂しかったですけど。
富野 だって、恥ずかしいじゃない(笑)。
一同 (笑)。
富野 それは口先だけじゃなくて、本当にそう思うのよ。さっきの「足元の下に宇宙がある」って想像出来るっていうのと同じ事で。だから、それは訓練がさせた同化論かもしれないんだけど。やはり、それは、申し訳ないけども……あったし。
だから「逆シャア」の企画をやった時に一番困ったのは、さっきの年の問題なんです。「年は隠せない」と思った時に「やっぱり、映画にしてはいけないんじゃないか」と一番最初に思った。だけど、ケリはつけなくちゃいけない。
と、思った時に「やはり、これでやるしかない」と。「職人芸でやるしかない」という意識でやった部分の仕事の方が多いから。
最初に皆さんの意見がチラチラと出てきた時に「作品をそういう風に、とらえてなかったんだよね」というのが凄くあるんだよね。申し訳ない。


1993年11月26日 上井草にて
聞き手 庵野・小黒・小川・井上

原文の誤字脱字を推測出来る範囲で修正。漢字はかなりいいかげんです。
トリプってた友人から譲渡してもらいました。