アニメビジエンスVol.04 クリエイターズVOICE 第1回 富野由悠季

WEB版と誌面版を組みあせて完全版もどきを作ってみる。

過去を積み上げたその先に

WEBのみ

――ルーツがテーマなのでここからスタートします。ご出身の小田原とともに江東区大島も富野さんにとっての原風景で、都市計画によって人工的に造られた町として『ガンダム』の元になったということを、これだけ長く付き合っていて初めて知りました。
富野由悠季(以下、富野):ほとんど話してないですからね。僕自身、いわゆるホームタウン、田舎をなくした人間だった。そういう寄る辺の無さというのは、大げさに言えば日本国民としての足場もなくなってしまったというくらいに不確かなものなんですよ。デラシネに近いという感覚をずっと持っているからこそ、生きてる間に「死ぬための足場」を作っておきたくて、「日本にお墓があってもいいんだよ、という自分にしておきたい」ということは希望として明確にありました。
――それは若い頃からですか。
富野:言葉にできるようになったのはこの10数年だけれど、大学時代から思ってましたね。言葉にしづらかったのは、20年、30年前のアニメの仕事史といった話をすることがなかったから、というだけの話です。それが今、自分のキャリアに応える言葉を持たなくてはいけなくなって、ようやく話せるようになりました。『ガンダム Gのレコンギスタ』(以下、『G-レコ』)をやらせてもらったおかげで、いろんなことを考えさせられましたね。あらためて、「アニメで表現しなければいけないものは一体何だろう」と思ったときに、己の思いの丈を語るだけではダメだし、自分の思いの丈を語るものであれば一枚の絵を描けばいいだけなんです。もっと恐いことを言うと、実写を撮ればいい(笑)。アニメというのは、そういうものよりもはるかに遠いところにある表現媒体。だからこそ、メッセージ性や、夢とロマンが出てくるわけですが、『G-レコ』で少し違ってきました。
――ある意味、別の物への置き換え論がたくさん出てきますよね。
富野:そう。アニメという、スタジオワークでやらなくちゃいけないものを作るときに、個人の思いの丈なんて関係ないですね。100万人に応えられる夢とロマンを提示しないといけないからです。つまり、アニメは記号性のものすごく高い表現媒体だから、イチ作者の、イチ監督の思いの丈で作る作品では媒体がもたないということです。つまり、アニメという媒体はかなり欲の深い媒体なんです。
――つまり、いろんな人のアイディアとか……。
富野:というのもあるし、僕はガンダム世代が社会人として発言するようになって、あらためて『ガンダム』の力というのを徹底的に痛感しました。

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――ルーツと言えば、やはり『ガンダム』なので、今日はいろいろお聞きしようと思っていました。
富野:『ガンダム』の力を痛感したときに、「ファーストガンダムでああいうメッセージを掲げておいてよかった」と思いました。「人口増によって地球が疲弊する」なんてリアルには感じてなかったけど、ロジカルに考えていったらそこにつきあたったんです。この話だったら一千万の人間に通用するだろうと考えました。
――ガンダム世代はもう50代に突入しましたね。
富野:そのようなアニメを観た人たちが大人になって、「え、富野さん、そんなこと言わないでくださいよ」って言われない自分を作るためにはどうすればいいかと考えました。そうなれば、基礎学力をつけるしかないから、せめて億劫がらずに人と会うことはしてみようと思って、『ガンダムエース』で10年近く対談をやらせてもらいました。やってみたことによって、『G-レコ』の企画を考えているとき、曰く言い難く力になったと感じるようになりましたね。いろんな人の話を聞いたことで得たものはあるし、アニメの持ってる記号性や、伝えられる物語とかメッセージには深いものがあって、あらためてそれを創作できる自分でありたいと思ったわけです。そうなれば、後進の企画者、ライター、演出家に「一般的な基礎学力を持っていなければアニメの仕事はやってはいけないんだ」と言えるところまできました。物語を作る能力は、アニメが好きなだけではダメなんですよ。まず作家でなければいけない。でも作家を養成するハウツーなんてなくて、要は人の資質になってくる。出てくる才能を待つしかないんですよね。これはまさに、僕がホームタウンをなくしたこととも関係しているんだけど、自分が死んでいく時に安心できる場所を手に入れるには、「ちゃんと生きました」という生き方をしなくちゃいけないんです。僕はアニメの仕事を通して自分の死に場所を求めることにする、という意識はこの10年ぐらいでハッキリしてきました。
――よく「アニメしかやることがなくて、職業に選んだ」と仰ってましたが、10年でそういう境地までいかれたんですね。
富野:僕にとってアニメの仕事は理想でもなんでもなかったんです。能力がない人間は与えられたことをやるしかないですからね。アニメが決定的に嫌いじゃなかったので、仕事を始めて1ヶ月後には好きになってたけど、それでもテレビアニメの仕事を40、50、ましてや60代になってまでやれるような価値論を持っているとは思っていなかったから、こんな仕事やっていたら死にきれないぞっていう嫌悪感がすごくありました。『ガンダム』を作った時にもその余韻はあって、これで生き延びる方法はないんだろうかって考え始めたことが、『ガンダム』に結実したのだろうけど、そこから教えられて今日まできたということです。

誌面のみ

――そこで転換しようと……。
富野:転換するためにはどうするかを考えて、「巨大ロボットものを映画にする」ぐらいは試してみようと思いました。永井豪さんや『宇宙戦艦ヤマト』にいつまでも負けてるわけにはいかないと思っていましたから。僕にとっては、ガンダム世代と呼ばれる人たちが会社内で決定権を持てない50代の頃が一番辛かったんですね。寂しかったし、現場も冷たかった。アニメファンに支持されて生き延びられたけど、それで調子に乗ってはいけないし、僕が40代後半から50代は一番ノベルスを書いた時期でもあるから、そこに自己埋没していくのかなあという落ち込みはすごくありました。ここまでが過去論。それを積み上げて何をするかって言うと、これから先のことを考えて僕が『ガンダム Gのレコンギスタ』でやったのが、ガンダム離れを当事者がしてみせるということなんです。アニメって夢とロマンを売るものなんだから終末論は絶対やっちゃいけない。でも、ガンダムワールドを継承しながら終末論をやらない物語ってあり得ない、というところまで考えて時代設定をしていきました。
――ガンダム離れをすることについては、主役ロボットのビジュアル面でも意識されたのですか?
富野:ガンダムのシルエットを採りながら新しいキャラクターにしなくちゃいけないという命題があったから、間違いなく、僕がどう言おうが、ガンダムはガンダム。だから、これをガンダムと言うなら言ってもいいけど、ガンダムじゃないとも言えるタイトルってことで、ガンダムの“G”かもしれないし『ガンダム Gのレコンギスタ』と付けました。これでシリーズものを作ってく上での切り口としても、新しいところに踏み込めたという感触はありますね。

アニメ業界の憂うべき状況

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――久しぶりの現場はいかがですか。
富野:外から客観的に見ててわからなかった部分が具体的にわかってきました。アニメ業界が本当の意味で過渡期に入っちゃったことを、現場がどこまで意識してるかということです。僕の場合、ハリウッドのプロダクションとの業務提携で旗振り役の一番手になってることと、もうひとつ、『アナと雪の女王』(以下、『アナ』)も重なっています。
――『アナ』を巡る状況は、是非お聞きしたいと思ってました。
富野:それはビジネスを考えるうえでも、作品を作る側にとっても重要なことで、手描きアニメから入っている技術論だけで3Dの『アナ』に勝てるかという話です。『アナ』がここまで動員できたのは、楽曲が成功したからなんです。ところが、画像制作者側は『アナ』のような画像処理をしなければヒットしないと思っています。「でも、そうではないんだよね」というところもきちんと見なくちゃいけないということをここ3、4ヶ月で考えていて、どういうふうに突破できるだろうかと考えた末の結論は出ました。ただ、興行側とか出資者側の人たちには、なかなか理解してもらえないと思います。特に画像処理の問題に関して言えば、ほとんどがモーションピクチャーでやってるんだろうと思うんですが、『アナ』だけじゃなくて『パシフィック・リム』なども含めて、その手のCGや3D処理をした映画全部に言えることなんだけれども、これでしか映画やアニメが作れないというところに行っちゃう方向性が見えるわけで、彼らはそれに囚われています。特にアニメーションは、モーションピクチャーを使うほうが、手描きでやるより早いかもしれないし、楽かもしれないというところまでわかってくると、そういう流れにいくでしょう。けれど、僕はそうではないと言える論拠を見つけました。
――3Dアニメに勝つ、ということについて?
富野:うん。まず、「どうして、CGがいわゆるリアル志向のものになってしまったか」ということに関して言えば、簡単なことなんです。基本的に、画像表現の処理学を全部理科系のオペレーターに任せてしまったからで、そこにアーティストが関与してないからでしょう。技術至上主義になってしまって、今、文化系でひょっとしたらアーティスト系の人も、使っているCGワークの技術を使ってやっていくしかないというところに敗北してるか、敗北って意識も持たないで、便利な道具だからって無定型に使ってる状況が続いているからです。だけど、表現をするうえで3Dが絶対的な手法ではないと言い切れます。その理由のひとつが、絵画の世界では70年代にニューヨークから出てきたスーパーリアリズムです。流行ったけど、意外と簡単に冷めてしまって、むしろ、それ以後の現代アートというのは、手描きのアニメやアニメ・キャラクターに近寄るところまで行ってしまった。それは一体なんなのだろうかと考えたときに、つまり、リアルに表現することは表現行為ではないという証拠です。それから、もうひとつ。我々が一番経験しているんだけれども、日本における大変大きな事情があって、映画やアニメがこれだけ流行っていった中でも、コママンガが衰退しなかったのは一体なぜなのか、ということです。
――アニメに移り変わられなかったわけですよね。
富野:そう、変わらなかった。むしろコママンガのほうがビジネス的にヒットしていて、表現として映画とマンガのどちらが上なのかといったときに、一般大衆やマーケットは必ずしも映画を善としてはいない。マンガのほうが簡単に手に入れることができるからというだけではなくて、リアルであろうが、すごく簡単な絵柄であろうが、どういうマンガであれ、変なアニメや変な映画よりもマンガ絵のほうがビジネスになっている中、一般の人たちは表現としてどちらを楽しんでいるのかとか、どちらを享受しているのかといったときに、コママンガの持っている表現媒体としての能力は、映画やアニメより上かもしれない。これが2番目の証拠。
――それは、止まった絵を脳内で補完して楽しむ余地を受け手が見つけるからですか。
富野:そう。そういうものを見慣れているほうが表現としては受け入れやすいのではないかと思うんです。この歳になって手描きのアニメの仕事を現場的にやらせてもらえる可能性が出てきて、僕自身が見てきた中で、アニメで描くしかないキャラクターや手描きで描くしかない背景といった表現が、全部リアリズムに落とし込まれたものが優れているといった評価はないってことですよ。決定的に『アナ』が強いなんてことはあり得ないので、井上さんの言ったとおり、受け手が補完するということができるほうが表現としては多様性を持っていいかもしれないわけです。

WEBのみ

受け手が脳内で補完することによって理解したり想像する部分はものすごく多くて、表現するものが全部リアルになっていいというものではないんですよね。そのうえで、僕が手描きのアニメをやるにあたってあらためて考えたのは、アニメのほうが表現としては記号に近いってことです。記号を使って物語を伝えるときに、正確に物語のメッセージを伝えることができるのがアニメの性能なんです。この性能というのは、実写よりもアニメのほうが強いかもしれないし、さらにマンガのほうが強いかもしれないということです。むしろ積極的にその記号性という部分に寄り添って物語を作っていこうと思って、僕の場合、『G-レコ』では物語というより今回はメッセージ、次の世代の子供たちに考えてもらう課題を明確にいくつか設定しました。
――『G-レコ』で、ということですね。
富野:そう。「『G-レコ』でこういうことを言っているのは、こういう問題があるからだよ」という問題提示をしたつもりです。2クールの中に僕なりにかなり並べることができて、今、スタジオでは「作業的に手抜きでいいから、とにかく早く作ってくれ」と言ってます。
――今回、富野さんが「クオリティを無駄に上げすぎるな」とおっしゃっているという声も 現場サイドから漏れ聞いています。
富野:そのクオリティというのが、これまで話した「今のアニメの現場のクオリティというのはリアルに描く」ということで、「それはやめろ」「手描きでしかできない動きでいい」と言ってます。アニメ的に動いてくれればいいので気楽にやってくれていいんだけど、それは、さっき言ったとおり、メッセージはきちんと押さえているという自信があるからというのもあるわけです。そういう意味では多少うぬぼれてもいるし、嵩に懸かってる部分もあって、そういうものがなければ手描きアニメをやるのはかなりきついだろうなというのも感じています。だから、今回このやり方を確かめてみようというふうに思ったわけです。作業的に手描きではどうしても描けないものはいくつかあるだろうから、3Dとかデジタルワークといったものをやってもらうことはあるだろうけど、それ以上にやる必要はない。むしろうかつに深入りしていくと、『アナ』を追っかけることになって自爆するだろうということです。『アナ』のことで僕が一番マズイなと思ったのは、これで誤解する人がまたいっぱい出てくること。だから、久しぶりにスタジオで現場の空気を見たときに、今回話したようなことを企画者とか演出というレベルがどこまで理解しているのか、ということで、敗北感に取り憑かれてるんじゃないかなと想像するわけです。

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――企画や出資をする人たちが安心のために「もっとリアルに」と言っていると思うのですね?
富野:企画者とか演出、シナリオを書くライターまでが「リアルに売らんかな」というところにだけ行っちゃっているでしょう。メッセージ性や物語のことを考えれば、手描きのアニメでやるからこそ、本当の意味での夢物語が作れるはずなんです。それをリアルに作っていたら、誰も観に来ないよね。だから、アニメを作るということの意味は何なんだろうかと言ったら、まさに夢とロマンを貼り付けていく物語を作っていくところにあるんじゃないのか、と思うわけ。10年ヒットしてるシリーズアニメは何か考えれば、アニメだから許される物語なんだっていうところにきちんと定義していくというのが一番大事なことで、アニメという表現媒体の性能を理解して企画を立ち上げていく、作品を作っていく、というのがアニメに関わるスタッフにとって一番大事なんじゃないかということです。
――企画者とか出資者とか、プロデューサー的なすべての人が聞くべき話ですね。
富野:大人たちがアニメのことをどう考えるかといえば、大学とか専門学校のレベルがこういう話をしてない気がするんですよ。一番取りこぼしてる部分の才能を育てていくためにはもうちょっと深刻に考えていくべきじゃないかな。この数年、学生の顔も見るようになったから、浜野先生が苦悩されていた部分を感じるんですよね。口はばったい言い方だけど、これ以後のアニメを考えていくうえで、若い人に分かって欲しいことでもあるし、本当にこれは死ぬまで伝えていかなくちゃいけないことだなって思っています。

共通とした部分も、実際は細かく違ったりするのですが、煩雑になるので、細かい言い回しの部分は自然な方に合わせてあります。
あと今更ですが、G-レコが2クールである事が判明。