MAMORU MANIA 特別寄稿「ファティマを嫌悪する」富野由悠季

GTM公開記念ということで。

永野護の事についていえば、まだ基本的な記憶がボケていないと思えるので、自分の作品資料の反古帳をひっくりかえすようなことはしない。作品とか作者についての勘所を考えることに役に立つものではないからだ。そんなことは、評論家と卒業論文を書く学生に任せればいいのだし、事実関係は、本文で著作者が書いている事で、まちがいない。むしろ、小生が忘れている事を書いていてくれていて、改めて納得している。
小生が、ファティマを嫌悪する理由については、本文中のスノビズム的なネクロフィリアフェティシズム、ナルシズム的フリークスな感覚を凝縮したものである、とも書かれているから、補足する必要もない。
そのフィロソフィ(あえてこう表現しておく)で、武装しなければならない永野護の問題は、彼個人のものなのか、世代の問題なのかわからないのだが、基本的には、そのような武装は、世間に見せるものではなく、個の問題として封じ込めておかなければならないものだ、という小生の信念を逆撫でするものだから、彼の表現を嫌悪するのである。
その種のフィーリングが、アートの中に封じ込められているのは許すし、アートとはそのような要素を十分に内在させたものであって然るべきものだから、そのようなものを見たり触ったりする事は、嫌いではない。
しかし、アニメという世界とイラストに代表される媒体にあっては(殊にTVというマスメディアにおいては)、そのような香りは気ほども出してはならないというタブーを自己に課しているのが、小生である。
それでも、『エルガイム』の企画が始まった時に、周囲のかなり根強い反対を押し切ってまで、彼のキャラクターとメカニック・デザインを採用したのは、アニメのスタッフたちが、怠惰だからで、同じ穴のムジナ同士の仕事はわかっていても、それ以外の仕事のレベルを洞察することができないクリエーターではないからなのだ。そんな連中の判断などは無視すると覚悟して、それが押し通せるとうぬぼれられた立場でもあったから、永野採用ができたのである。
新しい才能を採用しないと危険なのだというのが、ソフトを提供する側の感覚なのであるが、小生について言えば、すでに、ダンバインまでで自分のクリエイティブなものは出し切ってしまっていると感じたので、永野護という新しい才能を採用させることを決定させたという要素もあった。
結論を先に言えば、そのような感覚を持った製作者がいなくなれば、現今のように似たようなアニメの乱立になってしまった現状が証明しているし、永野以後の新しい才能は、アニメからは出ていない。
小生のクリエイトな感覚の発露は、『ダンバイン』で終了していたと直感しながらも、それでも、現場の仕事に踏み込んできた永野護には、慇懃無礼な奴だと感じた。
彼は、小生の『エルガイム』のペンタゴナ・ワールドという設定にないファティマの原形であるキャラクターをヘビーメタルのキャラクター・シートに執拗に書き込んできたからだ。
こちらは、自分の設定にとっては余分な彼の設定を、永野の初稿に否定却下する指令を出しては、第二稿なり最終稿を描かせていった、という記憶がある。
それは、当初から続いていたことで、このことは、永野の創作のスタンスが、ぼく(感情的になっていくので、小生という表現はやめる)のものとは根本的に違い、彼は、一個のクリエイターであると判読もできた。
しかし、彼が提示するものは、本来、アンダーグラウンドに封じ込めておくべきもので、マスメディアに露出させてはならないものである。そこに、ソフト提供者側の倫理とでもいうべきものがあるのだ、ということを永野にわかってもらいたかったために、ファティマの原形が書き込まれたキャラクター・シートを否定し続けてきた。
しかし、永野は、最後まで、ヘビーメタルの額にファティマの原形になるキャラクターを描き込みつづけてきた。時には、このような設定でやればおもしろいだろう、というメモが書かれていたときもあった。
そんな設定は、企画の段階で言ってくれなくては困る問題だし、途中から異質の要素を採用することは、根本的な設定を揺るがすことになるので、採用できないのが『仕事』なのである。
視聴率が低迷すれば、その底上げをするためには、新しいアイデアは必要ではあっても、一度始めてしまった作品の根幹にかわる部分の設定変更は絶対にしてはならない、というのが、小生の信念であり、業でもあった……意地ではない。
分かりやすくいえば、少女のキャラクターを人形として扱い、ヘビーメタルというマシンに組み込む趣味というか、できあがっていない男の憧れは、ギガーの図を持ち出すまでもなく、人間の心の闇の部分(幼児性かもしれない)を公衆の面前にさらけ出すことなのである。
女の子は人形が好きですよ、というのは、実は、女性の中にある人形への同化の衝動表現なのだが、それは、女性たちが現実に子供を生むことで、その衝動をカタルシスしているから無事にすんでいるのである。そうではなく、人形遊びを通して、本能的に子育ての訓練をしている、という考え方のほうが順当かもしれないが……。
これがわからずに、男側からのドール・フェティズムは、宮崎勤的病理を増長させるだけなのである。もっといってしまえば、オウムの男側からの働きかけを受け入れた女たちが、いつの間にか、男たちを実行部隊として使っていくという精神構造を容認することにつながるのである。そういった精神構造を育てていく表現が、永野の手に染まったもの全てに現れているのだ。
それが、公然と世に出れば、オウム的なものを育ててしまうということは、知っておいて欲しいのである。
それを許してしまっているのは、現代的な病理なのだが、それを増長してきたのが、第二次大戦後の男たちが営々と築いてきた国家と経済社会構造なのである。その結果招来した破綻現象の逃げ道として残されていたものが、この趣味の世界なのかもしれないのだ。少なくとも、永野の責任ではない。
が、男と女の関係というのは、オウム的に作動するのである。
それがわかっていない青年は、アーティストとしての才能があっても、メジャーに露出させてはいけないのである。そうでなければ、オウム的な社会構造に組み込まれていく青年たちを応援する応援歌になっていくしかないのである。
その意味がわかっていないソフト・ビジネスに関わる大人たちのなんと多いことか!
と絶叫したい。
これが、『エルガイム』の時代であっても、永野提案を拒否する最大の理由であった(このように明確に書くことができるのも、1995年という時代があったからで、当時は直感的に、男性の女性趣味としては危険なものだ、と感じただけだった)。
その感触は、現在も続いているからこそファティマのみならず、永野キャラクターの女たちは、男性を軟弱にさせていく危険な蜘蛛の網でしかないと見えるから、嫌悪するのである。
エルガイム』というシリーズも、ぼくの作品の前例に従うように視聴率は上がらず、低迷した作品で終わっていった。
しかし、ぼくの好みを除けば、彼が仕掛けようとしているアートの部分は、少なくとも、アニメという狭い世界の中で、創作をしていると信じているスタッフに比べれば、才気を感じたし、ロボットにファティマを組み込むアイデアの底にある彼の感覚は、ぼくの世代のものではないという脅威も感じていた。
だから、エルガイムの制作打ち上げの時にだったと思うのだが、「ペンタゴナ・ワールドの世界は君にやるよ」と永野に伝えたのだ。そう伝えられたのも、すでに、永野の中に、ペンタゴナという五つの星の世界に、新しい血が注入されつつあると感じたからだ。
これは、えらそうにきこえようが、内心は、まったく違っていた。
永野が提案したヘビーメタルにファティマを組み込んだバイオ・モーター(ぼく流にいえば、バイオマス・スーツになるのだろう)が駆動する世界を描ける自信がなかったからであり、そのような世界は、永野をもってしか描かれない時代が始まっているとわかっていたからで、それは、事実そうなって現在にまで至っているのは、悔しいことだ。
ファイブスター物語』の世界まで、ぼくの作品として確保できれば、今頃は、バブルのはじけたローン地獄に陥らずにすんでいただろうし、なによりも、ぼくはもう一つの成功作を手に入れて、若者たちから尊敬もされていただろうから……(というような仮定の話は、歴史学にはない)。
が、不思議なのは、『ファイブスター物語』がペンタゴナ・ワールドを継承したからといって、それは、継続でも延長でもないのに、エルガイムの尻尾かもしれないと言われたりもした時期があって、永野自身を悩ませていたかもしれないという世間には、呆れている。
とすれば、そのような鈍感で無責任な世間に対して、危険なものは提示してはいけないのだ、という短絡的な結論を永野に伝えることもできるのだが、それはもう遅いことなのである。
ファティマの問題は、世代観の違いの問題なのだろうか? ロック世代の感性の表現の在り方はこうであっていいのだと承知した世代と、ビートルズ以前のモダンジャズが正義かもしれないという世代の違いというものなのだろうか?
才能の在り方については、このような例もあるということは否定しないし、ぼくらの世代が間違わなかったのか? と言えば、ぼくらの世代のやったまちがいの総決算が噴出した1995年という時代の最中にいれば、茫然自失するだけで、永野ワールドもむべなるかなと呑み込むことができる。
この反省を反省だkでにするのではなく、打倒永野、永野的なものを黙らせられる力を欲しいと本当に欲望するのが、ぼくなのである。死ぬまでには、まだ四、五年か十年はあるだろう。十代で出てくる才能もあるのだから、この十年か五年で、若者たちにもう一泡吹かせる仕事をしたいと欲望するから、こんなところで、永野を誉めている暇はない。
それが、クリエイターというものだろう。


1995年 さるすべり 猛暑負けして 青まじる 頃