サンデー毎日95年6月3日号 SFアニメと「オウム」考 富野由悠季

性急なフィクション世界のリアリズム化

オウム真理教の事件についての報道を見聞きしながら、僕はずーっと、理由の分からない苛立ちを感じていました。
その理由が、ある日、ようやく分かったのです。オウム真理教の行動が悪意に転化したプロセスや、その悪意のありようが生まれた背景には、アニメもあるのではないかと気付いたのです。
「オウムの組織的な動きは、われわれがロボットものの敵のキャラクターをつくるためにでっち上げていった主義主張なり行動規範といったものを、リアリズムでやってしまったということなのか」
そういう感触が僕の苛立ちを起こしていたのです。僕は、言いようのない焦燥感を抱きました。
アニメソフト提供者としては、フィクションをこぎれいにする暇のないまま性急にリアリズム化していくときに作品が汚くなっていくプロセスを、彼らの姿のなかに見させられる思いがして、
「あーっ!」
と頭を抱えたのです。
汚くなっていく、とは、美意識の欠落とか、喪失のプロセスを指します。しかし、思い起こしてみると、そういったことはオウム真理教にだけ見られた現象ではありませんでした。
フィクションの性急なリアリズム化は、たとえば日本でアニメの受け手の姿勢はどう変わってきたかにも見ることができます。
戦後、テレビアニメが定着する前は、アニメーションやまんがといったものは全部子供のおもちゃでしかなkった。そんなものは、小学校卒業ぐらいで切り捨てて、岩波文庫あたりに移行させられたものでした。
その状況は、テレビアニメが始まっても、しばらく続いていましたが、「海のトリトン(72年)のとき、はっきり時代が変わり始めました。初めて、一つの作品のためのファンクラブが結成されたのです。それも一過性ではなく、テレビ放映終了後も継続しました。
それが、より顕著な形で現れたのが、やはりSFものでロボットが登場する「勇者ライディーン」(75年)で、スタジオにファンの子が来るようになって、
「セルがあったらくれないか」
と言うようになりました。
僕は、こんなゴミにしちゃうものをどうして、と思ったけど、実はそれは、セル画に対するファン心理が初めて発生したという、ものすごく大きな時代の節目だったのですね。
その四年後に「機動戦士ガンダム」は始まったわけで、そのころはもう、たとえば「ライディーン」の放送が終わって半年が過ぎても、ファンクラブのイベントを開くと千人以上も集まるといった“盛況”ぶりになっていました。
僕はそれまで、単に週一回のペースのなかで、放送が終われば消えていく“使い捨て”の作品を作っていると思っていたのですけど、そのころから、
「これだけ尾を引いてしまうアニメは、かつてと完全に違ってきたな。テレビは使い捨てじゃなくなったんだ」
と、真っ青になった記憶があります。
その次にファンが変わったのは81年〜82年ごろでしょうか。ロボットものがたくさん出てきてアニメフリーク、メカフリークという連中が現れ、プラモデルの市場が顕著に拡大していったころからです。アニメのキャラクターをそのまま立体モデル化した「フィギュア」まで出てきました。
僕は、思います。
「そこまでセルの絵のメカや人物を愛しちゃいけない。なんで外の世界を見ないんだ。アニメのセルのまんまのフィギュアのどこが美しいんだ――」
重要なのは、美意識の問題なのです。なかでも、視覚的美意識。
こういった部分は、日本の書店ではSM系の雑誌と一般書籍が平気で並べて売られているという、俗に言う大人社会の問題点と連動しているのではないでしょうか。それはつまり、戦後50年間、経済再建を重視した時代に、日本人からとてつもなく大きなものが欠落していったということです。
美意識の問題こそ、実は文化論だし民俗論だし風俗論につながる。それだけではなく、習俗一般にまで規範を示し得る力、倫理、道徳観といったものにまで影響与えるものではないかと僕は思います。美意識が支えるモラルというものが、あるはずなのです。
戦後50年間、日本人はそれを放棄する歴史を重ねたのではないでしょうか。
日本人は、映像文化だ視覚文化だと言いながら、その意味性ということについて文化論なり芸術論ということを、きちんとやってこなかったでしょうね。
上九一色村の施設などの映像を見ていると、一般信者の生活ブロックや化学プラントなどさまざまな建物があるようですが、たとえば用途によるフォルム(外観)のあり方など、とても考えられているとは思えません、信者を引きつけるはずの視覚的シンボルが、あまりにも貧しいではないですか。僕は、
「身ぎれいにするということを、こうも忘れた日本人とは……。五感のレベルに関してこうも低いところで信者になり得るのか」
と驚きました。
ところが、そうやって彼らやアニメの受け手を批判することは、当然僕たちソフト提供者に返ってくる問題でもあります。僕は、上九一色村の映像に驚くと同時に、自分の仕事も否定しなければならないのではないかという焦燥感にも駆られています。
僕らもアニメを作っていたときに俗悪な絵をずーっとテレビで流していた。真の映像、真のフィギュア(彫刻)を子供たちに見せなかった。
僕らは、アニメファンの美意識も欠落させてしまったのだろうか。同時に、ああいった視覚的に貧しい施設でも信者になり得るような若者を生むことに力を貸してしまったのだろうか、と。
拝む気になって不思議ではないシンボルとか、聞き惚れてしまう音色とか楽曲というものは、もっと別にもあるのではないか、と伝えられなかった無念さを感じます。
これは、映像メディアに携わる人たちが恐れひれ伏して考え直さなければならない点だと思います。
僕たちは、視覚文化が本来持っているメカニズムについてどこまで気をつけて日本社会のなかに投入してきたか。
そこを考えるとき、あのような視覚的シンボルのもとで、若者たちがこのようなアクションを起こさせたという現象は、かなり深刻な問題を含んでいる。
オウム真理教の事件は、僕たちにそういったことを投げかけてきたと、僕は理解しています。

関連

MAMORU MANIA 特別寄稿「ファティマを嫌悪する」富野由悠季
http://d.hatena.ne.jp/char_blog/20121111/1352621613
ファティマを嫌悪する理由の一つとして言及。

昔から、そして先日の講演でもチラッと言及された、公共に向けて語られる・放送されるという事について。
今回の記事の次に受けたWPBの取材記事もあるのですが、以前アップしたはずのデータが消失。後日復旧予定。