MFLOG 02:0809 富野由悠季「時空を越えるエンジン[2] 人間こそがタイム・マシン」

ミニチュア・モデル、スケール・モデルというのは、実際の具象物を圧縮して、その概念をつたえる性能を持っている。
そのために、造形としての面白さを表現しているわけだから、その造形を楽しむだけでもいいし、ぼくはそういう子供だったから、ソリッドモデルなどはよく作ったものだ。
そういうことから、作るものについての理解が深くなり、本物を作りたいという衝動が生まれて、本物を作る職場につく男の子も出てくる。
模型の教材として有効なら、それ以上のことを考える必要はない、とするのが我々の常識なのだろう。
しかし、機能としては実物そのものではない模型でも、現実の具象を圧縮するという意味では、一部の空間を圧縮しているのは間違いがないのだから、そのようなものを作ってみせるという意識のはたらきは、空間圧縮技のエンジンであろうと思っている。
それがぼくにできなかったのは、ひたすら意志薄弱であったからであり、再現性に理想を求めすぎていた性癖があって失敗した、という自覚がある。
ミニチュアの逆のもので、細胞の模型などは、空間を拡大しているので、それもまた時空を超えている。その造形によって、対象となる具象の構造を考え、次の理解をするために有用なものであれば、ただ拡大したこと以上の意味が発生する。
この行動があって、理解することをより進化させるために、人は、手で作る以前に、「観察する」という行為をするようになったのだろう。
いってしまえば、対象を模型を作るように身近に引き寄せなければ、理解できない。もしくは、理解するためには、対象物を引き寄せなければならない、ということが、顕微鏡や望遠鏡で対象物を観察し、その観察結果から得られた知見をもって、我々の生活圏に有用な事物(薬や銀河系の生成論の開拓)を創造したりすることができるようになったのではないか。
が、そんなことは、それだけのことでしょ、といってしまいかねないことではあるのだが、それは、我々の観念がそのように理解するように教育されているからか、そのようなロジックしか思いつかないから、そう理解して納得しているだけのことなのだろう。
電子顕微鏡のレベルの拡大技術によって得られた知見は、わざわざ『ミクロの決死圏』というような漫画のようなSF映画以上の知見と技術を現代の我々は手にしているのだ。
むしろ、血管縫合技術などは、『ミクロの決死圏』のように人間がわざわざ小さく圧縮されて、血管内に入って縫合するよりも、現在は確実な技術になっている。身体を縮小させる技術を開発しなければならない、という漫画チックな発想のほうがナンセンスなのだ。
天体望遠鏡がコンピュータ解析によって描き出す画像を見れば、距離と空間を引き寄せる作業というのは、さらに明らかで、わざわざ十数世代にわたる宇宙飛行をおこなわなければ、なにもわからないという思い込みこそナンセンスなのだ。
で、昔の人の話にもどるのだが、あの山を越えなければならない、この海を越えようと思った人のその思いこそ、タイム・マシン的に時空を超え、時空をつなぐエンジンではないか、と思い至ったわけなのだ。
しかし、教育というか、時代の通念というか、常識でもいいのだが、それら通念を植えつけられてしまった人は、そのようなエンジンになりえない。
ぼくの場合、箱根連山を見ながら育ち、天下の剣といわれる謂れを知りながらも、それを踏み越える人の意思の強固さ、革新性というものはまったく思い至らなかったのである。
それがふつう、ということなのかもしれないのだが、それでは、人のタイム・マシン的な性能を開花させることはできない。
物があふれ、人口が過大になってしまっている日本列島や地球の問題を、いまだ、経済の右肩上がりによって生活を享受したいという欲望は、時空をつなぐエンジンとしての思いの丈とはまた違う欲望が作動していることで、まさに良質なエンジンを廃油で廻そうとしている発想ではないのだろうか?
利便性を追求するというのは、欲望の充足でしかなく、人口が増えるということは、その『欲』がふえるだけなのだから、早晩、地球はダメになるというのは、かなり通俗的ながら、的確な予測と思える昨今なのである。
明治維新の志士が大望をいだいて西欧列強に学ばねばならなかった、といったガソリンではないもので廻っているエンジンでなければ、タイム・マインになりえないのではないか、という想像は、人類にとっては、かなり痛い問題ではないだろうか?