GM.DX18 今、この時代だから分かる∀ガンダム 富野由悠季インタビュー

3.11大震災と『∀ガンダム』の関係!?

――今回の震災では、漫画家など様々なクリエイターが「こんな時に作品なんか作っていていいのだろうか」という命題にぶつからざるを得なかったと言います。こうした時代にフィクションはどういう役割があるんだろうということは、考えるべきテーマだと考えました。そこで思い浮かんだのが『∀ガンダム』でした。
時代が変わる息吹を描いている『∀ガンダム』と、それまで培っていた現実が崩壊に向かった震災後のリアルは、構成要素は真逆かもしれませんが、『∀ガンダム』という作品は震災に直面した現在と通じ合うものがあるように感じます。そこで、今回お話をお伺いしようと思った次第です。
富野 それは迂闊に話せない事でもあります。そもそも『∀ガンダム』は、始めからそういったことを想定していた作品であり、現実がそこにヒットしてしまったということです。例えば原発問題を話すとすると、今までは原発の問題点を説明し、理解してもらう必要があった。ところが福島以後、問題点が映像として、現実としてはっきりしてしまった。アニメを作るという事以外の場面で、自分が喋りやすい状況になったとも言えますが、それはとても危険な事でもあるんです。
でも、そういう想定がないと、僕は『∀ガンダム』みたいな作品を作らない。例えば『ガンダム』を作る時に何を想定していたかと言うと、人間は戦争を忘れられないという現実なんです。
まず戦争を誘導する政策が先にあって、それは簡単に言えば経済です。経済を浮揚させようとすると、戦争が有効な手段であるという事、つまり消費が必要だから、経済至上主義の先鋭化が戦争を主導していくんです。
そういったことは『ガンダム』という作品を通じて表現したかった事の一つです。経済主導主義は、現代における経済人の理想化を招き、それが政治、外交の土台にもなってしまう。だから彼らを指導者としていくと、必然的に戦争が大きくなってしまう。宇宙世紀は、そういう戦争から離れられない自分たちの姿を描いたんです。
∀ガンダム』で描こうと思ったのは、そういった歴史をひっくるめて、人はどうなるのか? という事で、経済主導の戦争という観念しか持っていない人間は崩壊していくしかないだろう。それは人智を超えるもので終息させていくしかない。人の暮らしで大切なのは、女王ディアナが案して寝られるような世界を作る事なんだ、という事なんです。勝利を描いても意味がありません。
∀ガンダム』制作中は、『スターウォーズ』(ファントム・メナス)がヒットしていましたが、ああいう勝利の描き方ではなく、日常的なところに勝利の意味を落とそうとしたんです。
それは年寄りが総監督なのだから、若い人がやらない事をやろうという事です。ロボットものを、もっと普通の人も見られるものにしておきたかったんです。それはスタッフも了解してくれたので、あの様なエンディングを描く事が出来た。そう考えると福島以後に見返すべき作品となるのは当然かな、とは思います。
だからこそ、アニメ以外の場面での震災や福島などの発言は控えねば、と考え始めたところですが、今回の取材は『∀ガンダム」と絡めて言う事が出来るなら、語るべきかと思ったのですね。
――一方で『∀ガンダム』が、人間にとって戦争とは何なのかという事の一つの答えを提示しています。それが今回の福島の問題と被って見えるのは何故でしょうか。
富野 原発事故は、戦争よりヤバいんですよ。放射線被害はないと主張していた連中の発言は、陸海軍部=日本は負ける筈がないという教義を護持する妄信と変わらない。目先の利益しか考えない、経済人、政治家はやはり亡国の輩だという事が、福島以後、はっきりしたんです。インテリの思考はヤバいんだよね。
明治維新の背景で重要なのは、当時は藩=県レベルで、いつ戦争を起こしても良い準備をしていた下地があった。それが明治政府の姿でもあるし、日清・日露戦争の原動力になった。つまり戦争と国防にリアリティがあったという事です。
ところが明治後半以後、グランドデザインを描けず、省益を中心とするエリートが増える。陸海軍もそれぞれの縄張り争いに終始し、日本を守るという発想がなくなってしまった。本人たちは国家を守っているつもりでも、それ自身が亡国に導く事になった訳です。原発の話は全く同じで、東電は社会の根幹でもある電力を支える企業ではなく、ただのサラリーマン会社になってしまっていたので、国益や国土の事を考えなかった。
戦争と原発の違いは、戦争は一過性ですが、放射線問題は終わらない。ひょっとしたら数百年のオーダーで、国土を住めなくする可能性もある。これを理解出来ない程度の低いインテリが中枢にいては困るという事を、アニメを通じて言いたかったんですが、真面目にやると面白くない作品になってしまうんです。
経済主導主義・グローバル経済展開が間違いじゃないか? という事は考えます。これに対して現場で鎬を削る人たちは、人間同士の関係性を維持する事の大切さを知っている。
最近はそれが民力、ひいては国力ではないかと思いますね。実際現場、末端の人間の方が見識があると感じる事は多い。彼らは人と人との付き合いで物事や歴史が作られる事を知っていますが、それに対して思想家、政治家が本当に歴史を作っていただろうか?
我々が平和な日本で学習した事がどれだけ役に立っているのだろう。
何故こうした声を、我々は教育の中で聞く事が出来なかったのだろうか。そう考えると、インテリが作る価値観への疑いが芽生えていたんです。

∀ガンダム』と『ガンダム』の違いとは!?

――ひとつ疑問なのは、何故『∀ガンダム』のフォロワー的な作品が登場しなかったかという事なんです。全世代的でなくとも結果的に上の年齢層に受けた作品なら、そこにビジネスチャネスはあるのではないかと思ってしまいます。
富野 『∀ガンダム』が模倣されなかったのは、コピーが難しい確定した作品だからでしょう。ただ、エンタメ的には模倣される様な作品を作る方が世論形成をしやすいんです。
ガンダム』はこれだけコピーされている、そのロジックで育った「だかがしれたインテリ」でも、ガンダム以後には、上乗せしたものを作ることが出来るだろうし、それは現在進行形でもあります。
その中で作品としての完成度の高さは別ですが、僕が『∀ガンダム』を作れた事は誇っても良いと思います。
コピー出来ない固有の作品を作れた確信がある。作り手としてはそれで良いんです。
ましてや僕はコピーされる『ガンダム』の発信源だから。そして福島以後という状況が、『∀ガンダム』で、僕が見せたかったテーマを図らずも社会に提示出来た訳ですから。
――今回もう一つお聞きしたかったのは、【福島後】を経て、アニメーションがどの様な方向へと向かうのかという事でした。特に富野監督が次にどのういう作品を世に出されるのかは非常に気になるところです。こういう言い方をすると失礼かもしれませんが、『Ζガンダム』のカミーユの「キレやすい子供」など、富野作品の設定は時間が経ってみて、社会に同様な現象が起きてその意味が分かる事があります。
∀ガンダム』も10年後の現在を意識して見直してみると、時代を先取りするキーワードが多くて、作品が丁寧に設計されている事が際立っていると思います。
富野 ……ただね、エンタメのキモはその時にヒットするかどうかがまず最初にあるべきです。だから宮崎アニメみたいなあり方が正攻法だし、羨ましくもあります。「時代の言葉が埋め込まれている」「後から考えてみれば……」「年をとったら分かってくる」それは、エンタメのあり方の評価としては、かなり質が悪いと思います。だから、それを評価論のあり方としては認めたくないし、認めるべきではない。だけど、僕にはそれしか出来ないから、それを目指すしかない。『∀ガンダム』はそれを意識している作品だけど、それを評価される事が良い事とは思っていない。発表時に評価されたかったし、動員に失敗している事は、反省材料だと思います。
それでも、ここまで来たら両方を兼ね備えたもんを作りたいという思いは強いんです。何故、僕はロリコンになれなかったんだろう(笑)。欠点だなぁとつくづく思いますよ。

「僕は北斎の生き方に勇気を得てます」

――制作費や宣伝費を大量にかけて、当然の様にヒットした作品を映画館で観て、エンドロールに山の様な協賛企業を見ると、経済的な成功とは別に、「この状況は作り手として果たして幸せなんだろうか」と勘ぐってしまいます。
富野 それは作家性の商業主義化であり、無残だと思う。だけど、戦争でさえ商業主義、市場性に流されているのが現状です。たかがアニメがそうなってしまうのは、当たり前です。それでいて、その当たり前が一人の人間として幸福かそうでないかと言ったら、かなり幸福ではない……「煩わしいもの」ではないかな、とは思います。
これでなければ僕の作品は上映出来ないのかと思ってしまうと尚更です。認められているという意味では嬉しいかもしれないけど、煩わしい。でも、多数の協賛がある。今という時代に認められている事の確証があるというのは、まずは「ありがたい」事と捉えなければならないなぁ……手の届く範囲では欲しい評価だよね。ないと寂しいよ(笑)。商業主義のこわさがまさにそれで、我々はかなりそれをコントロールする意識を持たないといけないんだけど。
例えば江戸時代、ミカンを輸送しただけで巨万の富を築いた紀伊国屋文左衛門の浪費は、芸事を発展させた。エンタメのスキルは大掛かりな浪費を追う毎にに上昇するんですね。それも文化のあり方でしょう。そもそも文化というものは、財政的な裏付けが必要です。職人が食えないと発展はしないのです。
だけど、江戸時代までの経済、商業と文化の関わりと、現代の商業と文化のか関わり方は質が違うと思う。かつては奈良の大仏を国家の財政で作ったり、紀伊国屋文左衛門の洒脱の様に、選択と集中があった。現代は広く遍く、隙なくを重視しています。自分のフィールドで言えば、国家がアニメまで支援したら、それはダメだろう。もっと選べよと言いたくなるんです。
経済のスタンスにも同じ事が言えます。高度経済成長の時期、メディアは経済欄の扱いを、今よりももう少し隠す様にしていて、経済紙は業界内部のものだった。経済は社会を下支えするものに過ぎなかったのに、今は経済が表に出てきすぎているんです。
勿論、これは経済を否定するのではありません。実勢経済は廻ってくれないと困る。だけど、経済論、価値観先行のバーチャルな経済が表に出すぎているのではと思うのです。金融なんて仕事がなくなれば、どれだけ世界は健全な姿になるか。福島以後は、そういう会話が通じる社会になったとも言えるんですね。
ある一つの事を論理的に突き詰めた人の生き方(インテリ)と、リアリズムは違うという事を、我々は気を付けて、学習しなければいけない。そういうものをテーマにしたアニメを作りたいんですよ。
この歳になると、手垢が色々付いているから、作れるかどうか分からないけど、葛飾北斎富嶽三十六景を描き始めたのは70を過ぎてからで、それまでは春画を描いてたりもするんです。僕は北斎の生き方に勇気を得てます。こういう話が出来る様に、この数年努力しました。学生時代よりも余程本を読み、考える。それは今までのキャリアがあるからではなく、キャリアがあるからこそ、そのキャリアに落とし前をつけていく為のインテリジェンスを自分が身に付ける責任を感じるからなんです。
百万の見てくれる人がいると、百万の期待がある。そして、そこに応えられるものを作ろうとすれば、勉強するしかないんですね。来年死ぬかと思うと、余分な出費を止めたいけど、そんな気にならないから困っているんですよ。
更に困っているのは、英語が読めない事と、水泳が上達しない事(笑)。ここ数年は今更から、そんな事改善出来ない現実に直面すると、へこみます。プールで泳いでいて、若い奴に抜かれるのがどれくらい辛くて惨めか(笑)。
――私は逆にプールで富野さん世代の凄く鍛えている人に抜かれて、悔しい思いをしますよ。
富野 互いに切磋琢磨するしかないですね(笑)。

誤字修正してたりします。