NT 10年9月号 冲方×富野 第3回 リアリズムの喪失

リアリズムでものが考えられなくなってくる

冲方 かつてサブカルチャーと呼ばれていたアニメやマンガですが、今やメインカルチャーとなっています。富野さんはまさにその真っ只中でお仕事をなされてきたわけですが、アニメ的なもの、いわゆるビジュアル表現が社会を席巻したと実感された瞬間はあったんですか?
富野 この現象の現れ方として、一番衝撃的だったのは、先月お話した麻生首相の「犬夜叉」発言です。麻生さんひとりの問題ではなく、ここ2、3年、アニメ映画の試写会に政治家が行くことも珍しくないでしょう。サブカル、つまり卑下される媒体であったものが、そういう形で政治家にまで食い込んでいる。本当にものを考えられなくなった人たちが出現しているんだなと実感して、僕はとてもショックでした。アニメを見ているからものが考えられないということではありません。ものを考える深度の問題で、それが浅くなっていう大人たちが出現している。それが恐いなと思ったんです。
冲方 ものが考えられない……もう少し詳しく教えてください。
富野 麻生さんはアキバに集まってくる人たちに媚を売ったわけですが、彼らがアキバにいる時間というのはリアルな生活に対峙していない時間なんですよ。彼らだってアキバから離れればリアルな生活があるわけだけど、そこからの逃避でアキバに来るんだよね。その逃避行動の最中にいる人たちを票田にできると考えるのは、物事をリアルに考えているとは言えないでしょう。政治経済というのは、リアリズムそのものであるはずなのに、そのことがわからない人が一国の首相をやっている。麻生さんの時代に党で彼を支えていた人が、ここ最近離党して小さな政党をいくつもつくったけど、彼らもリアリズムで政治的発言をしているのかというとそうじゃない。リアリズムに対応することばを、みんなわすれちゃってるんですよ。せめてみんなの党の渡辺さんくらい自立した大人の顔、政治家の顔が見えてもいいはずなのに、舛添さんですら5年前とは顔が違っている。今回の選挙(対談は参院選前でした)は相当苦戦すると思いますよ。民主党の変遷も似たようなものです。リアリズムで政治を考えるのではなくて、選挙に勝つということがリアリズムだと勘違いをしている。もちろん、大学の教授レベルではきちんと政治を語れる人はいます。でも、象牙の塔で語ることなんて政治学ではあるけど、政治ではない。その架け橋となるインテリジェンスが日本にはないんですよ。
冲方 ビジュアルの発達が人間の思考を活気づかせているんじゃないかという幻想を、僕らは一瞬抱いたんですけど、それは間違っていた?
富野 僕は、ビジュアルというのはあくまで瞬間芸だと思う。瞬間の癒しであって、そのときだけの気持ちよさを提供する芸能なんですよ。芸能というのは生活は支えません。しかし、生活者の心性、心を支えてくれるものではある。ただ、決してそれ以上の機能はもっていないということを、今のビジュアル社会は忘れているんじゃないですかね。
冲方 安心感や癒しという心の生活のほうが肉体的な生活よりも優先されるという、今の社会的な風潮はおかしいということですね。
富野 リアルな生活がつらすぎるから心のほうに行っちゃうというのはわかるけど、その行く末にはとんでもないものが待っている。具体的な事例があるんです。
冲方 それはどういう未来ですか?
富野 全体主義。つまり、ナチス政権のようなものに行くんですよ。

ビジュアル社会の行く末にあるのは“全体主義

富野 それについて、僕は今まで政治学者のハンナ・アーレントを切り口にしか語れなかったんだけど、最近もっとわかりやすい論法を見つけました。ピーター・ドラッカーです。
冲方 あの、マネジメント論のドラッカーですか。
富野 そう。ドラッカー曰く、ナチス政権の一番の問題は経済無視なんです。第二次世界大戦が始まる2年前に書いた処女作「経済人の終わり」で、彼はなぜドイツ国民がナチス政権を支持したかを説明しているんですが、それが今の日本のビジュアル社会が置かれている現状と酷似しているんですね。要するに先が見えずに閉塞感が充満するなか、その先にある経済的な破綻から目をそらし、今食っていくために、ヒトラーはヤバいよねとわかっていても、国民社会主義運動に手を挙げざるをえなかった。年寄りを全部切って若者と入れ換えるという劇薬的な雇用対策で新しい雇用を生み出したナチス政権に乗っかっちゃったんです。
冲方 今の苦しみから逃れるために強い麻薬を打つようなものですね。確かに似てるかもしれませんね。当時のドイツが経済無視なら、今の日本のビジュアル社会は生活無視ですもんね。
富野 そう。とりあえず今気持ちのいいものを見て、1、2時間の気を済ませる。でも現実に戻れば、オレはバイト以上のことはできないって落ち込むのを、みんな承知でやっていくしかないというこの状況は、'30年代中ごろのドイツやイタリアと同じかもしれない。
冲方 小泉首相が痛みを我慢してくれと政策転換したけど、実際そういう自己責任型の社会になってみると本当に痛くて痛くて、その反動で今、みんなが痛みのないほうへないほうへと行こうとしてるんですね。
富野 一般大衆の心理として、個々に冷静に考えればヤバいってわかってるんだけど、自分たちの力でこの状況は変えられないから、目をつぶって乗るしかない。そして、それがどこまで耐えられるかに賭ける……。これを変えていくのが政治の仕事なのに、リアリズムでものを考えることをやめちゃった人たちがトップにいるんだから、現状を打破する方策なんか立てられるわけがない。これは僕がアニメ屋で、フィクションから物事を考えるという立場の人間だから見えるということで、リアリズムの仕事をやっているつもりの大人たちがビジュアルに侵食されると、自分がどこれだけ薄っぺらになっているかも自覚できないのかもしれない。これはものすごく恐いことだよね。
冲方 不思議ですよね。だって政治ってある種リアリズムの極致じゃないですか。それがリアリズムとは違う方向にシフトすることで、国民に迎合しようとしているわけですよね。これって、ナチスが映画をバンバンつくって、ヒトラーなんか見たことない人たちも、知ってる気分になって崇拝しはじめるのと同じ構造ですよね。
富野 同じです。ヒーローというのは、現実という足場がひどいからそれを忘れるために必要とされる存在です。独裁者というイメージが強いからヒトラーに力があったように思っちゃうけど、しょせん客寄せパンダだったんですよ。なぜドイツとイタリアでのみ全体主義が生まれたのかも、ドラッカーは説明しています。この2つの地域には共通点があって、確固としたひとつの国になりえていなかった。それを何とか統一国家にしたいという願望を持ちはじめたときに、その手段として全体主義に乗ってしまったんですね。
冲方 オレたちひとつになるんだっていう願望が先行しちゃったんですね。そう考えると今の日本も共通了解を持てるものがどんどん少なくなって、バラバラになっているじゃないですか。精神的な一体感を求めたいという欲求は相当強い。これはかなり危険だということですよね。
富野 日本の場合は、明治維新統一国家の輪郭を手に入れることができて、そこから150年近く経つ訳だから、ドイツ型ではない、21世紀の新しい全体主義に向かうでしょう。それが絵空事によってバラバラになったものを統一しようとする動きになるとしたら……と考えると恐いでしょ。ジーク・ジオンってオレが言ったら、乗ってくる風潮はあるかもしれない。
冲方 あははは。
富野 ジーク・ジオンだから笑っていられるけど、サムライ・ブルー! ってやれば乗ってくるような気がしません?
冲方 確かに(笑)。結局、選挙のコマーシャリズムがどんどん発達していって、露骨になっていけばいくほど、ワールドカップの熱狂と変わらない状態になっていきますよね。
富野 それはもうひとつのリアリズムである経済、金融でも同じだよね。
冲方 金融のバブルなんて、まさに行っちゃえという勢いだけで、破綻するのがわかっているのに行けるところまで行っちゃうわけですからね。
富野 で、それを何度繰り返しても懲りない。リーマンショックからまだ2年くらいなのに、もう金融のトップの奴らは10億単位の年収を得ている。日産の社長のゴーンさんの年収は8億でしょ。個人のサラリーマンが億単位の収入を得てどうするんだっていうのを不問に伏して、記号的に数字だけを報道する。本来、そんなに収入があるんだったら税金を増やせということを同時に書くのがマスコミの仕事じゃない。それを一切しないというのはリアリズムでものを考えるという部分が明らかに欠けているんですよ。

増殖し、混沌とした結果、何も見えなくなってくる

冲方 僕はビジュアル社会の特性の最たるものは“増殖”だと思うんですね。初音ミクについてあらためて調べたんですけど、派生キャラクターが十数体もある。途中で調べるのがイヤになるくらい検索すると出てくる。そういう圧倒的な増殖力があって、なおかつその増殖した状態が強固に保たれる。そうなると、本来あったはずの秩序が見えなくなり、混沌としてくる。今の国会にしても、どんどん新しい制度を導入していますけど、すればするほど誰が何のためにやっているのかがわからなくなってくる。
富野 700人以上の国会議員がいて彼らが何をやっているのかがわからないシステムだと、政治家もリアリズムでものを考える必要がなくなってくる。官僚は実務者だから大事にしなくちゃいけないとは思うけど、これだけ組織が大所帯になると組織を守ろうという間違った方向に目的意識が変化しちゃう。
冲方 アニメ、マンガという切り口で、今の日本の社会の問題点をこうも明確に語れるというのは、驚きました。強引にまとめるとこういうことですよね。ビジュアル社会は、私たちがリアリズムでものを考える能力を忘れさせる方向へと進んでいる。これはよても危険なことだと認識し、私たちはもっと自覚的にものを考えなきゃいけない、と。
富野 よくできました(笑)。

これで連載終わり? 
ピーター・ドラッカーについては中央公論でも触れている。時間が開きそうなので一部メモ。
追記:全文UPしました。

  • 「日本の一番長い夏」に出演した理由などはAERAの対談と同じ。
  • 演者の回顧談が焦点が定まらなく「とっ散らかっている」と一蹴。しかし観た若者たちに考える切り口を提供できるかもしれない点では、断らなくて良かったとも書いている。
  • 日本の映画界はイーストウッドの二部作に無反応すぎる。今回のチャレンジは意味はあるが、限界をもあぶりだした。
  • 旧日本軍軍部と今の官僚機構がダブる、という話もAERAと同じ。
  • 吉田俊雄「日本陸海軍の生涯」について。
  • ファースト構想中に会った「貴族が主導権を握っていた時代の戦争に比べ、市民が始めた戦争のほうが、より残虐で、死者もけた違いに多くなった」という言葉が今でも忘れられない。
  • 中世風の戦の規範と、それがない「市民の戦い」をファーストに投影させた話。
  • ザビ家にシンパシーを感じていて、「ヒットラーの尻尾」のセリフができた時には床を転げまわって喜んだ。意味は後からもっと勉強した人間がそれぞれに解釈し、埋めてくれればいい。そのための言葉のアンカーを打ち込むのが僕の仕事だと承知している。
  • 新兵器の導入と科学者、道具と人間のかかわりについて。例として鉄砲の発明、原爆、インターネットとエロについて。
  • 怖くて目次にしか目を通せない本として「グーグル秘録」を挙げる。最新の技術を使って世の中をどうしたいのかが分からないから怖い。その点ガンダムはあくまでも破壊と殺戮を目的とした兵器であることを盛り込んだ。単なるアニメのシンボルではない。
  • お台場については、あの場所が兵器を展示するのに相応しい場所なのか、という去年と同じ話のみ。
  • ここ一年ほどでアーレントの「全体主義の起源」を読破した。
  • ピーター・ドラッカーの「人は理想の社会ではなく現実の社会と政治を、自らの社会的行動、政治的行動の基盤としなければならない」はまさに真実だと感じている。彼の本は単なる経済書ではなく社会全体を機能させるためのマネジメント論。ガンダム世代には一読をおすすめする。
  • 大事なのは現実に不都合な部分があったら、たとえ高い壁に見えてもそれを乗り越える志を持つこと。
  • 座談会で語られていることは現代の問題そのものなのだということに気づいた。気づいた以上、アニメ作品としてそれを伝えたい。実写にくらべメッセージ化がしやすいようにも思える。しかしどう落とし込んでいくかという段になって基礎学力がないので頭を抱えるしかない。死ぬまで映像化ができないかもしれないし、別のだれかが気づいて作品化してくれるかもしれない。いずれにせよ現実に対処する志だけは捨てずにアンカーを打ち続けるしかない。

後日単独記事にします。