Think the Earth Paper vol.8 EARTHLING特別号 EARTHLING01 富野由悠季

そのうちWEBで読めるとは思いますが一応。
また、公式にも書かれていますが、震災以前のものです。

インタビューの冒頭、富野監督は同席した学生たちに向けて、地球環境に対する意識や生活の中でも実感など、いくつかの質問をし、対話し、こう締めくくった。
「みなさんの意見はおおむね正しいと思います。僕はこの先50年、今の30代半ばの年代がやってくれることを黙って見続け、時間を過ごしていけば、人類は少しくらい地球を長持ちさせるようなシステムをつくっていけるんじゃないかと思っています。だから、後はみなさんの世代で何とかしてね、と言うしかないのです」。
そのうえで、「ただ……」と一瞬の間を置き、富野監督は一気に話しはじめた。


富野 ひとつだけ、今の会話の中で、ものすごく腹が立っている言葉があります。「生活を豊かに」という言葉です。
みんなが生活の豊かさを目指したら、地球は早晩、潰れるんだよ。これからの時代、豊かな生活なんていうのは、あるわけがない。だけど「豊かに」と言わないと選挙の票がとれない。みんながこっちを向いてくれないから「豊かに」と言う。
でも、その言葉遣いこそ、徹底的に嘘。これから80億の人間がみんな自動車に乗って、中国とインド大陸の内陸部までコンビニがあったら地球はこの先100年もたないかもしれない。だけど、今の日本人の頭の中にある豊かさって、それでしょう。100億の人類が地球上で豊かに暮らせる未来なんかあるわけがない。
我々が身につけていかなくちゃいけない『ものを考えていくセンス』は、一体どういうところにあるのかを、言葉遣いの問題から考えていかなくちゃいけないんです。
大手企業なんかが見せる未来ビジョンで困るのは、ハイウェイがあって、高層ビルがあって、その足元と屋上にちょぼちょぼっとグリーンがあるイメージでしょ。ぼやぼやしていると、何かよくわからない空中を飛ぶ乗り物が平気でいて、ロボットが立っている。
大体、人型のロボットと生身の人間が共存して暮らせるなんていう別のレベルの話が、いまだに現有勢力の知見として残っているなんてアホなんですよ。
人型のロボットが動くとなったら、人工頭脳もあり得るんじゃないかと言うけれど、それは研究者の目標値でしかない。社会に押し広げるべきものではないんです。
そのような言説は、20世紀型の人々が持っている各論であって、自分の主義だけを通そうとしている「視界の問題」で、これが大きな問題なのだと思う。
各論から入るのは大学で授業をやっている間だけで、教室や研究室から出たら、社会や公共の中での「我」というのは、どういう関係性をもつのか、その「我」が追い求めようとしている技術が、社会や公共に対してどう押し広げられていくかを考えていかなければならない。それがわかる自分をつくっていくためには、もっと遊ばなくちゃいけないのかもしれないし、異なるジャンルとのコンタクトをもっと持っていかなければならないんじゃないのか。

物事を根本的、根源的に考える。

富野 根源的にものを考えるというところを若いうちにやっておかないと、ほんとの意味での21世紀に向けてのハウツーは手に入らないんじゃないのか、と思い始めています。
物事を根本的に考えていったときに、「EARTHLING」のようなテーマについても、僕はまず、政治家と経済が変わらない限りだめだと思っています。市民運動をやっているレベルでは、絶対に突破できないことなんですよ。
エネルギーの問題をきちんと押さえなければいけないと言いながら、我々は根本的にまだエネルギーの問題を解決する方法を持ってないんでしょ?
僕、本当に分からないんだけど、原発ひとつにしても、ウランはまだ2、300年とれるみたいな言い方を原子力関係の専門家はして、それを使い切ったらどうするという話は、一切ない。現在使われている原発より効率のいい原発もあるということを、2年ぐらい前に教えてもらいました。そのような形の原発を使えば、現在使われている原発より放射性廃棄物が少なくなるとも聞きました。ところが、放射性廃棄物というものが皆無にならなければ安全にはならないわけだけれども、その部分については口を閉ざすことになる。
放射性廃棄物の処理については、現在地中2、300mに埋めて廃棄をするという言い方をしているわけだけど、僕はそれで済むのかと思っています。そこで、大陸プレートの地殻が沈み込んでいるところの境目に放射性廃棄物を投棄し、100年たてば、10mぐらい、300年たてばもっと深いところに潜り込む。地上から2、300mの穴を掘って、コンクリートを打ち込んで埋めるよりは、確実だと考えました。が、大陸棚プレートが沈み込んでいるところは日本海溝なんで、そこには投棄できません、と指摘されたことがあります。理由は放射性廃棄物は海に捨ててはならないという法律があるからです。
ではエネルギーは、500年後には全部太陽電池パネルに切りかえなくちゃいけない、という話だけど、太陽光パネルに関しても日本には大問題があって、サハラ砂漠タクラマカン砂漠もないし、オーストラリアの真ん中にあるような高地もないから、太平洋上に太陽光パネルを張るぐらいしか方法がない。あるいは山の南向きの斜面に太陽光パネルを張るぐらいのことで500年後の電力が賄えるのか、という話に関しては、おそらく通産省も試算を出してないんじゃないのかと思う。試算を出していれば、「宇宙エレベーターのプロジェクトの研究をしましょう、2030年までに」みたいな、プランが出てくるわけがないでしょ?

リアリズムとフィクションの境界線。

――宇宙エレベーターについては、その可能性を富野監督も調べていて、ガンダムの中にも描いています。そこには、リアリズムとはまた別の視点、フィクションというものの役割について、感じていることがあるのでしょうか。
富野 あんまり感じてはいませんけど、あんまりということは、少しは感じているんですよね。
一番の理由は、ファーストガンダムから30年経った今でもタイトルが死んでないこと、ガンダムから延長された物語が作動していること。その意味は、巨大ロボットものというアニメの中でも最下等のジャンルのものでも、一番根本的なコアな部分を封じ込めておいたおかげだからです。この実感があって、宇宙エレベーターを調べる気になったんです。
僕は宇宙エレベーターを信じてはいないほうなんです。そうは思っていても、宇宙エレベーターをつくるぞ、と思うことは、とても正しいことだとも思っているのです。宇宙エレベーターを考えるようになって、リアリズムとフィクションの境界線がわかってきたんです。
つまり、夢とロマンというのは何なのかと分かるようになった。夢とロマンというのはフィクションみたいなものです。現れもしない王子様、ありもしないお姫様、ありもしない宇宙エレベーターなんです。

夢とロマンというイメージに向かって。

このありもしない白馬に乗った王子様とか、お姫様を目標にするということを、ひょっとしたら人類は1万年前からやっていたのではないかと考えるようになったら、宇宙エレベーターもフィクションの中では「あり」。理念としても「あり」であって、目標設定としてあっていい。その上で、リアリズムで考えていくということが大切なことだと分かった。
宇宙エレベーターという目標設定をしたときに、足場を研究する人が100人、500人、1万人と集まると、リアルに一歩前に進もうとする才能が出てくるわけです。現にカーボンナノチューブという物質を使って、もうここまで来たか、ということがある。そうなれば、結っちゃって糸にしろ、糸にしたのを1キロまで伸ばせ、ということが言えるわけです。1キロ伸びたぐらいで宇宙エレベーターなんかできるわけないけど、カーボンナノチューブの1キロの糸ができたときに何が起こるか、ということはまだわからない。そのことが未来にどういう可能性をもたらすのかは、わからないんです。軽さとか強度とか材質の性能が今までのものと根本的に違うので、あらゆるものに応用が利くらしいんですね。だから宇宙エレベーターのケーブルにするぞと思い続けて、やれ! 行ってみろ! という。ここに、白馬の王子様がいるんです。こういう夢とロマンがなければ、まだ用途不明の研究開発など誰がやる、ということなんです。
我々は、夢とロマンなんていうボヤーっとしたものがあるから、今こうやって生きてられるわけでしょう。若い学生たちは、将来いい人と結婚できると思っている。そう思えなかったら、この青春、むなしいもんね(笑)。
おそらく人って、当たり前すぎるからあまり自覚してないんだけれども、夢とロマンがなかったら、暮らすということはかなり過酷ですし、何よりも寂しいですよ。
人は情動があるから生きていける、暮らしていけるのです。殺したものを食ってでも生きていくというのは、単に欲望論ではなく、自分が生きている限り何かを思う、という夢とロマンを秘めているんです。数億年前の太古の時代も、数百年前の中世の時代もそれは同じですよ。生きるという命の、つまり生の衝動というのは、人が生まれ、ある自覚ができたときから、絶えずそのイメージに向かっていくことなので、現代では、宇宙エレベーターのようなものが象徴として立ち上がっていいのだろうと思います。

人の革新はこの先200年はない。

――地球人、アースリングという言葉自体、まさに、夢とロマンかもしれません。そういう言葉があるから、目標となって向かっていける。そうはいっても、一体いつになれば、その目標に近づけるのかと考えたとき、以前富野さんは「今後200年、人の革新はあり得ない」とおっしゃった。なぜですか?
富野 それはものすごく簡単なことです。だって、経済の右肩上がりの成長というのを全否定しなければならない、というのが基本にあるからです。不景気だと気持ちが悪いわけで、景気がいいと、世の中何となく明るくなるし、日本はいい国よね、という気分になっちゃう。ということを考えたときに、ほんとに困ることなんだけれども、これから1000年地球をもたせようとすれば、1000年の右肩上がりなんて、あるわけがないでしょう? 生活の我慢を覚えて、「でもまぁ、これが世の中よね」というふうに常識を切りかえるのに、50年、100年じゃ済まないでしょう。
そして、もう一つ重要なことなのは、これは観念だけの問題ではだめで、やってみせなくちゃいけない問題なんです。「日本国民は経済成長なしにずっとやってきたけど悪くはないですよ!」というふうに、実践をしていかない限り、常識と言うのは根づかないんですよ。それを企業体としても実践し、うん、これでいいんだよね、というのが少なくとも日本に関して、1億人全員に身につくのに、僕は最低200年かかると思っています。
人の革新っていっても、その程度のことなんだよ。超能力者になるとかじゃないんですよ。その程度のことを200年かけてやって、1000年も万年も地球を使っていく、日本列島を使っていく方法論を確立していかなければならない。それができたときに、人は革新したといえる。

距離はまだ遠い だけどやらなくちゃならない。

産業廃棄物とかごみ問題というものに直面し、リサイクルを徹底的にやらなくちゃいけない、というときに、今までの考え方や常識にとらわれていたら、絶対にやれない。だけど、やらなくちゃいけないといったときに、環境ジャーナリストの枝廣淳子さんは、ニュータイプという言葉を使ったんです。「環境問題を乗り越え、地球を永く使える人になったときに、人はニュータイプになる」、と。僕は、ガンダムニュータイプの概念を規定できなかったけど、枝廣さんの言葉が、ニュータイプのリアルな規定付けだと思いました。
小さな企業を含め、今行われているリサイクルへの取り組みや仕組みを見ていると、間違いなく何かができるかもしれないし、人間は捨てたもんじゃないと思っています。緻密さをはじめ日本の技術者が持っているものを集大成していけば、ひょっとしたら「資源の完全な再利用」はあり得るんじゃないか。それができる人がニュータイプであり、その過程に立ち会っているという意味では、とてもエキサイティングな時代に入っているんだ、というのが枝廣さんの論調です。
資源を再利用できるというだけでも、かなり過酷に観念を変えていく必要があります。ごみの分別ひとつにしても、3種類分別じゃだめで、6種類、12種類分別ができるぐらいの知恵を持たないと、再利用ってできないんでしょ? プラスチックはすべて同じではないし、乾電池みたいなものをどう振り分けるかと考えれば、まだ我々はその能力すら持っていないと思います。
各家庭が乾電池をばらして、きちんと分別できて、廃棄できるみたいなシステムまで社会に定着させなくちゃいけない。
そういうことは、経済基盤がなければできないわけだから、経済の右肩上がりはいけない、いけないと言いながら我々は経済社会を維持しなければならない。賃金をもらって、生活費も獲得しなければならない。矛盾する命題を解決しながら、完全に循環するシステムを構築しなくちゃいけないんです。

経済活動 ニュータイプ

現在、「経済活動」といったときに、我々は金融経済という構造を想起してしまうでしょう。リーマンショック以後といいながら、経済のスペシャリストは実業をみるのではなく、俗に言う「富を寡占している」状況を生み出しているわけです。余った金を国家の赤字に補填するところに還流できない、といったことは、20世紀までの人の持っている怠惰な部分とか、資本主義の問題といったものがある。だから、ニュータイプというのなら、単純に資源とか、環境問題のことを考えているだけではなく、そういった部分もきちんと押さえていくだけのセンスを持たなくちゃいけないわけです。
この話を経済人にしても、聞いてくれないのは、目の前の投資の問題だけで頭がいっぱいだからでしょ? でもその投資が見ている未来というのは、しょせん10年、長くて30年くらいです。
僕が言っている未来っていうのは、100年、1000年、10万年の単位だから、彼らの一時金のことは考えられないのです。だからと言って、余剰金を全部こっちにもらうよ、と言えるだけの強権発動もしていかなくちゃいけないのだけれど、強権発動という言葉の怖さを知ったうえで、それを正確に発動できる「我」というのがいるか、という大問題に突き当たります。ニュータイプ論は、そこまでいきます。