ガンダムA14年9月号 ガンダムを創った富野由悠季が今、『G-レコ』を送り出す意味

宇宙世紀の終焉から千年 再メッキされた世界 リギルドセンチュリー

――軌道エレベータを舞台にしているというのは、キャラホビトークショー(2011年)やニュータイプエースのインタビューですでにお話されていましたが、きっかけは宇宙エレベーター協会の方とお会いしたことですか。
違います。まったくの逆です。生きているうちにもう1本くらい何かを創りたいと思って企画を始めたわけだけど、3年間考えて、『ガンダム』の延長線上のものしか描けない自分に気づいてしまったんです。だいたい3年くらいです。考えてはみるものの、どうやら自分の想像力だけでは突破できそうにないと思った。それで仕方がないから僕が一番嫌いな宇宙エレベータを題材にして、企画を練り直すことにしたんです。ガンダムエースの企画(2010年6月号)では、日本宇宙エレベーター協会の青木義男先生(日本大学教授)ともお話をさせてもらいました。想像でできないのであれば、リアリズムで人と話をすればいい。青木先生や宇宙エレベーター協会のメンバーと接触して話を聞くうちに、現在の宇宙エレベーターを取り巻く状況も分かってきた。アイデアも膨らんできたところで企画を書き直し、1年を掛けて今回の原型になるものがようやく出来上がったわけです。
――それがキャラホビなどの、2年くらいのことなわけですね。
宇宙エレベータがあり、巨大ロボットがいて、なおかつ僕の場合はどうしても“G”という言葉を求められるから、それらを満たすSFワールドの設定には相当苦労しました。ここでそれを回顧しても意味がないのでしません。しませんが、『G-レコ』の世界であるリギルド・センチュリーという世紀が生まれたのは、それらに対する整合性のためとだけは言っておきます。
――『ガンダム Gのレコンギスタ』というタイトルには、どのような想いを込められているのでしょう?
レコンギスタ』の語源はスペイン語の「レコンキスタ」です。和訳では「国土回復」「国土復権」などという言葉が当てられますが、正確な翻訳は知りません。調べてはいますが、今回必要のあることではないので忘れました。知りたければ調べてください。基本的に“復権”ということで十分です。つまり『ガンダム Gのレコンギスタ』は、宇宙世紀の終焉で崩壊した地球圏を復権する。そういう意味を持ったタイトルです。もちろん、タイトルの意味はそれだけではありませんが。
――では、リギルド・センチュリーの意味は?
「リギルド」は再鍍金という意味を持つ言葉です。リギルド・センチュリー宇宙世紀から千年後の、メッキし直された世紀ということです。
――宇宙世紀からリギルド・センチュリーには、どのように切り替わっていったのですか。
宇宙世紀がいつ終わり、その最後に何が起こったのか。そんなことは僕は知りません。そういうことは、リギルド・センチュリー歴史学者に聞いてください。
――リギルド・センチュリーには、「宇宙世紀時代の技術体系を進歩させてはならない」というタブーが設定されています。宇宙世紀では核問題も描かれましたが……。
核エネルギーなどは徹底的に全否定です。核に頼らず、科学技術の進歩は消費の促進でもあり、そういう意味で、宇宙世紀は地球の資源を徹底的に消費し尽くした時代なんですよ。枯渇した地球で人類の大半は死に絶え、生き残ったわずかな人間たちが地上で復興果たすまでに、千年もの年月が費やされたんです。つまりリギルド・センチュリーは、宇宙世紀のなれの果てであるんです。
――物語が地球から始まるのはそういった理由からですか。宇宙世紀時代にあったスペースコロニーは……。
全部ゴミです。ただ、そのゴミを再生して新たなコロニーを作り、何とか生き残った人間たちがいたのです。それが月の裏側に建造されたコロニー、トワサンガと、金星のビーナス・グロゥブをこの千年で構築した。

宇宙エレベータが地球と宇宙をつなぐ意味を考える

――これが宇宙エレベータのカーゴですよね? なぜこんな串団子のような形状をしているのですか。
これが串団子に見えるのは、あなたが物の形を正確に見られていない証拠ですね。これは球体の連結です。球体というのは工学的に見て、外力に対してもっとも頑丈で効率がいい形。それが車両形式で連結し、“クラウン”と呼ばれるカーゴを形成しているんです。『G-レコ』では宇宙エレベータのことをキャピタル・タワーと呼称していますが、これは宇宙に行くための手段ではなく、地球と宇宙を結ぶ交通機関です。交通機関として使われているものだから、必然的にカーゴも効率の良い車輌形式となるわけです。さらに交通機関として千年間利用されているということは、宇宙と地球を行き来する意味があるということです。
――資源の獲得ですか?
そう言われ、宇宙開発が盛んに叫ばれていますが、今の実情として利用価値があるフィードバックは気象衛星からの画像くらいのものです。あとは研究サンプルでしかなく、火星に旗を立てるなど、政治家の思惑や研究者の夢でしかない。よしんば月からのレアメタルの採取に成功したとしても、現在の科学技術ではそれを安定ラインに乗せ、地球に運搬するには途方もないコストがかかり、成果に対してとてもではないがコストパフォーマンスが釣り合わない。つまり、宇宙開発などする意味がないということです。なので、『G-レコ』では宇宙に行く意味と、それを可能にするエネルギー源を設定しました。
――それがフォトン・バッテリー
そうです。これ(手帳)くらいのサイズで、ガンダムレベルのモビルスーツを一週間は稼働させることができるエネルギー源です。これは宇宙空間でしか生成できないもので、その技術を持っているのが、生き残った宇宙移民者たちです。彼らは自分たちが生き延びるために、地球にフォトン・バッテリーを送り、エネルギーを必要とする地球の人類はフォトン・バッテリーのエネルギーを使ってキャピタル・タワーを稼働させ、物資を送り込む。もちろん、こんなエネルギー源は現実に存在しませんが、それでいいんです。『G-レコ』はファンタジーなんです。僕は『G-レコ』をリアルだとか、リアルロボットだなんて言ったことは一度もありません。『ハリー・ポッター』を観て、空を飛んでいるのがおかしいなんて言いますか? ファンタジーなんだから、おもしろければいい。それがすべてです。
――『G-レコ』の公式サイトには、「元気のGだ! ベルリとアイーダの冒険はすごいぞ!!」というキャッチコピーがありました。この“冒険”というコピーからはワクワクさせる、今までの『ガンダム』とは違うものを感じました。
だから言ってるじゃないですか。僕は『ガンダム』を創りたいわけじゃないんだから。『ガンダム』を継承していたら、“冒険”なんてできません。35年の歴史の重みというのは確かにあって、それに縛られている人がいるのは当然のことです。僕自身だってそうなんです。脱ガンダムを図るのがどれだけ大変なことか、一番実感している当人です。事実、この『G-レコ』だって、“ガンダム”をタイトルに課せられているんだから。今でなくてもいいんです。『G-レコ』を観た子供たちが大人になったとき、『ガンダム』に疑問を持ってくれればいい。『G-レコ』はそのための、脱ガンダムにつなげるための布石となる作品なんですよ。

ベルリ少年とアイーダお姉さん『G-レコ』は女性主導の物語?

――過去、ニュータイプエースのインタビューにて、『G-レコ』では女性の強さも描くと仰っていました。そこの部分も変わらず、という感じでしょうか。
今まさに制作の真っ最中ですが、アイーダというキャラクターは間違いなく女性主導に見えるでしょう。と同時に、周りに配置したキャラクターの配分からも、女性主導の匂いが伝わると思っています。基本的に人の世というのは、女性が子を産んでくれることで継承されていくもので、男性はその支え――言ってしまえば付属物でしかない。だけど、知的な動物であるこの付属物は、自分が“雄”であることを認識し、“雌”をどう守るか、“子”をどう守るかという考えから、衣食住の確保において体を張った行動を示すようになっていった。だから、ベルリも成長していく過程で“雄”としての自分を自覚して、本能で女たちを守っていく男として育てていきたいと思っています。ただし、“雄”の感覚で作られた男社会が宇宙世紀時代に人類を破滅させたのは事実です。そこのところをアイーダやほかのキャラクターたちでバランスを取っていく必要があると考えています。
――現在においても女性の社会進出が謳われていますが。
そんなものはニセモノです。女性主導ではなく、男が“雄”でなくなっているだけです。草食系男子ですか? そんな洒落臭い表現は本当にイヤなんですよ。ちゃらちゃら使っているだけで、“雄”“雌”の認識が薄すぎます。だからこそ『G-レコ』の中ではそれを描きたいと思うし、描いていくべきだと思ってます。まあ、70を過ぎた年寄りの言うことだから、古臭いと言う人もいるでしょう。逆に言えば、その古臭い目線で物語を創っていきたいし、多少うぬぼれていいなら、それができると思っています。そういう意味では、アイーダとベルリの二人はかなり好きになりました。
――監督は物語を創るとき、そういう人物像は最初に固められるのですか。
……聞かないでください。僕は、いわゆるキャラクターシートの作成は本当に苦手なんですよ。ベルリはまだ少年であり、少年から見たときのお姉さん(アイーダ)はこういう人、という以上のことは考えていないんです。というより、考えられないです。
――ほかの作品でも?
昔から考えられない。頭の中で、本当にその図式が作れないんです。おそらくなんだけど、“少年”とかの言葉先行で鋳型に収めた瞬間に、ほかの作品に紛れても違和感のないキャラクターになってしまうだろうと、そういう意識が僕の中にあるんじゃないのかと思ってます。だから、初対面の人とぶつかり合ったときの反応ですべてが決まる。そんなふうにしているから、名前もなかったバイプレイヤーがどんどん台詞を持って動き出すようになる。そのせいで吉田さんの仕事が増えていって大変なことになっちゃってるんだけどね。脚本の通り便利に人が出入りする空間などつまらないと思うから、どうしてもいろんなキャラクターが動く劇空間を作ってしまうんです。だから、実際に描いて、動かしてみないと分からない。先が読めないほとほと困った人間だと自覚しています。
――そういう手法だと、収拾をつけるのが大変になりませんか。
いいんです。どうやら僕にはきれいに収拾するつもりはないようです。今までの作品だって、本当に終わっているのかどうかよく分からないんだから。ただ、そんな中で幸せなことは、キャラクターが僕の手を離れて自立していくんですよね。それがアムロやシャアたちがアニメの絵空事の外に出て、実在感のある人物として35年経った今なお愛されている理由でもあるんでしょう。
――キャラクターの実在感には、声の力も大切ではないでしょうか。
そうですね。そういう意味で、今回非常におもしろい声の人に出会っています。実際にその方の出演が叶うかどうか、現時点ではまだ分からないんだけど、この人の声を当てたいという役があるんです。この35年間で聴いたことがないような声の持ち主で、もし出演してもらえたら、傑出したバイプレイヤーが誕生するだろうという期待を持ってます。この感覚を分かりやすく言うと、池田秀一の声でシャアをやったとき、古谷徹の声でアムロをやったとき、その感覚ですね。叶うといいな、と思ってます。

対象を見る目線 新しいものを創る意味

――モビルスーツのデザインがまた独特ですが、これはどのように決められていったのですか。
これはものすごく明快です。カトキさん以降のガンダム世代後発組から、ようやく形部さんのような新しいメカデザイナーが出てきたということです。これだけで新しい方向性が作れたとはいませんが、20年間抱えていた問題を少しは解消できたと思うし、少なくともこれからの道筋は示せたと思います。今回のモビルスーツのデザインは、フォトン・バッテリーの採用から発展した部分もあります。形部さんがフォトン・バッテリーを非常におもしろがってくれて、本当に自由にデザインしてくれた。中には画面レイアウトに収まらないようなものまであって、逆にこっちがひどい目に遭っているという有様です。ベテランの山根さんも吹っ切れて、コンセプトワークの安田さんも同様です。ガンダム以降のバリエーションを広げるという作業を、本当に楽しみながら考えてくれている。オモチャとしてのルックスになってきていて、まさに子供がワクワクするロボットを生み出せていると感じています。
もちろんそれによって理屈ではおかしな部分も出てきてはいるんだけど、そこは笑って知らん顔するしかない。何しろ必殺武器があるようなロボットアニメなんだから、「いいよ、やっちまえ!」って。芸能者として最低のところに落ちるわけだけど、僕はそれでいいと思っています。そうしないと、どんどん堅苦しい作品になっていくしかないんだから。実を言うと、メカだけでなく、舞台においてもすでに整合性のほころびは生まれています。だけどね、「うるせぇ!! これはロボットアニメなんだから、黙れ!!」ってことです。僕はそういう覚悟を決めているし、不都合が許せなかったら、この35年間やられてきたように、あとの人たちがきれいにバランスを取っていけばいい。
――確かに『機動戦士ガンダム』から35年、いろんな人たちが宇宙世紀の歴史を整理してきました。
僕はそれで新しいものが創れるとは思っていませんが、やりたい人はやればいい。ひとつだけ言っておくと、その時大事にすべきことは、相手となる世代の目線をしっかり知ることです。この間、たまたま深夜のテレビ放送で子供向けのSF映画を観たんです。タイトルは覚えていませんが、それを創った大人の目線というものはひどいものだった。ここまで子供を舐めているのか、と。大人の目線で子供の目線を決めているからそうなるんです。『G-レコ』は子供に観てもらいたい作品ですが、子供アニメにしているつもりはありません。アニメを創るなら、“最低、これくらいのことは考えてから創れ”ということを並べています。そうでなければ新しいものを創る意味はない。そういうことを考えながら創っている自分は、つくづくクリエイティブな仕事が好きなんだな、と実感しました(笑、笑、笑)。富野がまた何か言ってると思う方もいるんでしょうが、嫌がらず、観てもらえればと思います。

17話の描写を見るに、「リギルド・センチュリー歴史学者」は、ノレドの後の姿を想定していたのだろうか。