月刊スピリッツ 11年1月号 富野インタビュー これからの神話を創るために

ガンダムを創ること 創り続けること

分相応にやる、僕はそうだったんです。32〜33歳のときは絶望的だった。これから転職しても、ファーストフード店で8時間立ちっぱなしの店員はやれないと思ったし、もうテレビアニメの仕事でしか生きていけないしで、その先がないとわかったときに、テレビアニメをどんなに我慢してでも、死ぬまでやり続けるしかないと考えました。自分にはその程度の能力しかないというのは30歳くらいのときに自覚して、それに徹するしかない、と。
そんな中で、ロボットアニメは利用できるかもしれないと思ったんだけども、本当にそう思ったのは僕しかいなかったわけよ。だから身のほどを知ったときにあきらめるんじゃなくって、その自分の手の届くとこで何が出来て何が出来ないか。そう考えていけば、世の中には必ず自分に引っかかる職業は絶対にあるんでしょうね。それに気がつかないのは、やる気がないだけで、周りのことを見ていないだけなんですよ。
僕は37歳でガンダムを手に入れて、映画が終わったときには42歳。これから20年ぐらい生きなくちゃいけないというときに、これで60歳までもつのかな、と不安だったけど、31周年を迎えられたのは、世の中が多少変わってきたからでしょう。
アニメとかコミックに対しての価値観が変わったし、ガンダムというタイトルでビジネスシーンが展開できるようになった。受け手があってマーケットがあっていかされていて、これは自分一人の力で稼いでるわけではなく、これが世の中の仕組みなんだということです。
これをどういうふうに仕掛けるかと考えたとき、自分の好きなテーマやキャラで作品を創って、ましてそれがヒットして、それなりの人気を続けてきたものってのは、実を言うと今だけのことで、これが10年後30年後に通用するかといえば、もっといろんなことを考えないといけないでしょう。
作品を発表できる媒体があるっていうことは、読者や視聴者がいるわけで、受け手がペイをしてくれる価値がなければ、媒体にのせることが出来ません。マーケットの支持が得られないような企画は、絶対通らない。自分勝手な企画なんてのはあり得ないでしょう。だから、自分の独創をもって作品を創ればいいんだというのは嘘です。
小〜中学校で「あなたには個性があるから伸ばしましょう」、と言われてきた20世紀型の“オールドタイプ”の子は、言われてしまったそのときから、視界がバンと狭くなります。自分が興味あることだけやればいいと思っちゃう。これじゃ飼葉桶の中に首突っ込んでるのと同じです。
10〜12歳でその子特有の能力が見えている子は、恐らく千人に一人レベル。才能を伸ばすように頑張りましょうと言うようになったのは、民主主義の悪い拡大解釈なんですよね。みんな平等というのは、人の存在や権利論としての平等でしかなくて、能力まで平等だなんてどこにも言ってないはずなのに、全部仕込まれてしまったということなんです。まずそういう考え方を改めることからしか始まらない。
現在、世代的に大問題になっているんだけれども、定年を迎えて海外で働いている人がたくさんいますが、彼らが日本の技術を現地でタダで教えて、強くなった海外企業が日本企業を抜いているわけです。それで国内の経済や雇用の問題を話しているのっておかしいでしょう? こういうことをメディアや媒体がきちんと言っていない。実はそういった側面を作品化していくべきなんだろうと思っています。
そんなことを40歳くらいまで考え続ければ、45歳くらいで漫画の短編のデビュー作ぐらいは描ける。これは僕の勘です。
今の日本って何だかんだ言うけど、まだパラダイスなんですよ。戸籍上の高齢者で死んでるってのはいっぱい出てきましたけど、餓死者がほとんどいないんですよ。
その代わり、すごく大人の成長が遅れています。40年前の20代が今の何歳に相当するかと言えば、30か35歳ぐらいでしょう。ということは、今なら45歳でデビューして、短編2〜3本受け入れられるようなのをやって、中編をやって、それで一年後くらいに連載したって遅くはありません。
重要なのは、常にアンテナを立てておくこと。若いうちはジャンルを決めずに何でも吸収していってほしいですね。

Ζガンダム∀ガンダム

(ZGIII終盤のカミーユがメットを開くシーンの違いについて)あのシーンは、アニメやフィクションの創り方として、一人の作家の思い込みで勝手に創るなよという証明のために作ったんです。ファーストは当初から劇場版を作る想定で進めていましたが、Ζに関してはまったくなかった。テレビ版の「Ζガンダム」は、当時の経営者やビジネスだけが出来ればいいと思ってる大人たちへのあてつけの作品なんです。
それでも次もガンダムで何としてもやってくれないと困ると言われて、僕にすれば、ガンダムしか創らせないのねっていう思いもあって、「その代わり恨みつらみぶつけるよ」って言ったら、関係者はそれでもいいと言うんですよね。子供向け玩具を作ってマーケットを広げましょうなんて条件、一切なかった。つまり、アニメをなめていたので、アニメでここまで出来るという物語、フィクションをここまで創れるんだよというのを、お前らにとって正義の味方かもしれないキャラを狂わせてみせるって、そういう創り方をしたんです。とはいえ、3話目ぐらいまではそれを匂わせるわけにもいかないから、すごく生真面目に巨大ロボット物を創りましたね。
(劇場版について)10年以上スパンが空いちゃったときに、やっぱり時代性の問題も含めて、そのまんまやるバカはいません。オマエ無能力だって言われるから。そういうのがあったんで、映画版にするにあたっては、純粋にエンターテインメントにしようと決めました。とはいえ、そのとき、ラストシーンのロジックを、180度ひっくり返すことはできるわけないよねと思ったけど、できるかもしれないという感触も同時にわかっていました。
アニメは、表現媒体としてはかなりルーズで、同じ絵柄を使っても、違うセリフをのっけることが出来る。後半でカミーユが狂わないっていうセリフを組み立てることができるのかという問題も、かなり難しいけれどもアニメだったらできるはずだっていう確信はありました。
コンテを起こして実際にフィルムでつないでいく作業の中で、一番ビックリすることは、アニメっていう絵の持ってる記号論っていうのは、やはり所詮記号でしかなくって、やっぱ実写に敵うわけないんだよね。そう思いながら、このカットは絶対使いたいっていうワンカットが、カミーユが気がふれたという象徴のカットで、これは映画には絶対に入れられない、そう思っていたそのワンカットが、逆に使えるという構成が出来たときに、神が降りてきたの(拍手を一つうつ)! これは、僕のロジックの能力じゃないんだよね。テレビ版が終わった2〜3年後にまとめていたとしたら、こういった発想の転換はできませんでしたね。
つまり、エンターテインメントものをどう撮るかとか、アニメという媒体の性能をどう理解するかという問題であって、僕の好きなアニメを創って、100万人の人に見てもらおうなんて思ってません。ロボット物でこんなものも創れますよっていうのを見せることは面白いですよ、という作業に終始してるんです。
逆に言うと、自分が何かを創るときには、今言った通り、えっ、このジャンルでそんなことやってるのっていうことをやってみれば、いろんなことができるんです。それで、学習論として教材にもなると思っています。
(∀について)これは僕の心境の問題じゃなく、時代をどう見るかということで、ガンダム20周年だからやってくれないかっていう言い方もあったんだけど、それまでのガンダム・シリーズを見直したときに、メディアの中での見え方の角度が狭くなっているので、変えたかったんですよ。
ジリ貧のガンダムを全部包括しちゃうガンダムを創るということが、ガンダムを生み出した人間の使命と思ったんですね。もちろん、テーマを考えていったときに、数学の世界のすべてを包括するという∀という言葉を思いついたことがフックになっています。
(シド・ミードのデザインについて)全部が国内で済んでたら、自閉症に陥るぞっていうアピールでしたね。ものすごく悪評も受けたんだけれども、ああいう骨みたいなものがないと、これまでのすべてのフィギュアを並べてみても、全然識別がつかないでしょう? それは個性があるとはやっぱり言えない。つまり完成されたキャラクターになっていないんです。∀は目立つし、完成度も高い。やっぱり“あや”になってるなって気がしてます。
(キャラクターの描き方について)「鉄腕アトム」のキャラクターの描き方に関しては、手塚先生にハッキリ教えてもらっています。3年連載して、4年目からアトムの身長サイズを、また元の6頭身に戻しました。描いてるうちに、どうしても手が慣れてきて格好良くなる、身長が高くなる。だもんで、4年目にまた子供に戻すということです。好き勝手になんかやってない。マーケット、読者、相手の子供が頭の中にいるのよ。

身体を持った女性を創る

それはそんなに面倒なことじゃないんですよ。動物が雄と雌に分けさせられたのは何なのか。その理由を考えたときに、雌雄を分化させたほうが生き残りやすいという方法論を編み出した。我々はそういう種として生きているんだから、その意味性なんて考える必要は一切ないと思う。プラスとマイナスだから、反発もし合うと同時に、「釣りバカ」で言うところの“合体”をすることで、次の世代が生まれてくるという性能を持っている。だからこの性能自体は種が生き延びてきた最低限の性能でしかないわけ。最低限の性能だから、お互いがお互いを意識するのが当たり前なんですよっていうことが大前提になります。
実を言うと、異性を好きになるという感情より、性機能の発達のほうがずっと後だよね。この距離って何なんだろうかってことを中2ぐらいからかなり意識してて。
初恋が一番良い例なんですが、相手は必ずしも美人でなくてもいい。全員美人がいいかといえば、必ずしもそうじゃないわけ。いわゆる美女と野獣という言い方があるけど、野獣的な人が好きな女性もいるのよ。
これは何なんだろうかって考えたとき、インターネット上には、ポルノは煩わしいくらいの情報があるでしょ。でも、自分のセックスの欲求を充足するためにそういうものだけ見てるかっていうと、そうじゃない種類の男女もいる。
現に僕の妻が一番わかりやすく言っているのが、「私は妾になりたかった」と。ほんとに結婚して1年目に教えてくれたの。どういうことかって言うと、お母さんになりたくなかった。子育てはすごく煩わしいものだった、と。「お妾さんなら、相手が適当に来て、帰ってくれる。これはすごく楽だ。そういう欲求って間違いかな?」と。これは女性を考える上でね、男は結構見過ごしてるところ。でもこれを認めて欲しい、ってところまで女性を考える要素としては入ってるんです。
つまり、我々が「お前のおまた開けて見せてくれ」って言える相手っていうのは、風俗の姉ちゃんじゃない。そんなもの見せられても気持ち悪いだけ。よほど催してるときはそれでいいけど、普通のときに、そういうことで馴れ合うことが出来るかっていうと、やっぱりそうではない。
相手と隠しごとがない関係であるとき、我々は何を一番喜んでいるかというと、この人には殺されないという条件の下での、皮膚感の気持ち良さというところにある。
この人には裏切られない。こっちも、この女をだます気はないと。一番幸せなことじゃない。そういう人を一人でも手に入れられたら、人生って、それで完結してもいいと思える。ましてそれで自分の子を産んでくれる女性であったり、逆に女側で言うと、この男の子供だったら産んでいい、と。妾のままでもいいって女でさえいるのよ。
こういう人間関係を、アニメのキャラクターの中でも造形出来ないかっていうことを本当に意識した時期があります。
78年の「ダイターン3」くらいからそういう準備は始めていって、ビューティ・タチバナと三条レイカがそういう肉付きを持った女性になって欲しいなと考えました。ものすごく手間がかかったのよね。1年かかったけどやっぱりちょっと出来ない。
ゲスな好みだったら、いい男やいい女にならない。そうではなくて、あんたにだったら股開いてもいいわっていうように思う女とか思わせる男とかっていうものを創ることをやっぱりやりたいなと思った。
それがかすかに出来たかもしれないっていうのは、敵役ドン・ザウサーのそばに立っていた女性キャラクターを創ったとき。コロスっていうギリシャ悲劇にもある名前をつけたんだけど、一人の女性キャラクターであっても、伝統とか、業を背負ってなくちゃいけない。素っ裸のまんまではキャラクターは出来ないってことがわかったんです。
やっぱり何かを背負ってなくちゃいけないっていう人格を創ろう、と。で、ガンダムになったときに、まずフラウ・ボゥから入って、ミライさんにいって、セイラさんを意識して創るってことをやってみて、僕も予定外だったのはマチルダさんが出てきたときに、おっと思って。でも、ガンダムのときの僕にとって一番いい女は、キシリア・ザビじゃないんです。クラウレ・ハモンなんです。これはキターッって、俺はようやく女を創れるかもしれないと思いましたね(笑)。

新しい神話へ

特に今のコミックの媒体っていうのは、あらゆるジャンルのものが出ています。気まじめな環境漫画家なんてのもいてエコ推進を訴えたりしていますけど、やっぱりもっと論調みたいなものを広めていく必要があるだろうと思いますし、そういう視点を持つところまでいって欲しいですね。
まだそこまでいってないのはコミックの歴史を見てもわかる通りで、この2〜3年、サブカルって言葉がなくなったよね。つまり、ようやくコミックが媒体として認知されてきた過渡期だからです。
認知されてきたってのは、世の中にいろんな見方が出てきたから。たとえば、大新聞が政治の内輪モメに1面や2面を使っているのを見て、むしろエコを考えてページを減らすことのほうが、よっぽど良いことなんじゃないかって
いうような。これまで常識だと考えられていた論調を変えていかなくちゃいけないっていうことを本当に考えるようになってきたからでもある。
コミック誌は週刊ペースでこれだけのものが出ていますけど、これはもう何も読むなとかいう話ではすまなくて、コミックの“性能”があるということなんです。
確かにコミックやアニメは、文芸的なクオリティは低いかもしれない。全部が全部というわけではありませんが、本音から言えば低いかもしれない。それにも関わらず、なぜこれだけ大量にタイトルが出ているかと言えば、嫌な言い方をしますけど、やはり低俗な媒体だからでしょう。
これだけ低俗なもので紙を消費しなくても、ネット上にiPadで読めるタイプのものはおそらく雑誌以上に出てるでしょう。なのにポルノサイトで代用できるようなコミックまで、こんなにも低俗なものが大量に、規制なんか関係なくバサバサ出ている。その理由がわかっちゃったの、1週間前に。
どうも伝承文学、伝承物語というようなものにかわって、コミックやアニメというジャンルが、新しい神話を創る時代に入ってきたからではないかと思う。今は淘汰される前の物量を生み出しているんだと。そして、なぜそういうことが起こっているかという理由も、もう分かってます。
20世紀までは、経済学にしても国家論にしても、右肩上がりの経済をベースにして、いっとき大量消費をすることを前提に、人類は文化文明を謳歌してきたんですよ。それが出来たのは、今までは自然というものが圧倒的な脅威としてあり、我々は自然を畏れ、屈服しているのを何とかしのぐというタイプの神話、伝承、そういうものの精神史にのっとって、20世紀まで生きてきたから。かつての我々が知っている神話や伝承に根ざした上で、弱肉強食と経済拡大と消費拡大ということで今日までやってきたんです。
ところが、現代では環境問題やエコが叫ばれているようになった。つまり地球というのはすでにもう無限じゃなくって、有限のものになってるから、有限のものの中でこれから人類が永遠に暮らしていくためのハウ・ツーを考えた場合、20世紀までの方法論では地球を使いきるところにしかいかないわけだから、もう駄目なんですよということが分かってきたわけです。
現に今の国際情勢上の問題やエネルギー問題で言われていることは、所詮新しいエネルギーをどう活用するかということだし、その貿易の問題を何とかしたいというだけなので、人間の知的活動は20世紀までのものでしかない。古い神話にのっとった弱肉強食、拡大路線の中でのものしかないんです。
これを完全に切り替えなくちゃいけないんだけれども、いきなりそれを知的な部分でスイッチするような能力は人類にはありません。
だから、コミックとアニメがこれだけ急速に拡大してきている。ここ10年ぐらいの日本の状況だけで見ていると、こんな狭い国でコミックのタイトルの創出量って尋常じゃないじゃないですか。その尋常でなさといったら何なんだろうかというと、そういう次の知恵を生み出すために、一度神話の時代に返らないといけないということなんじゃないのか、と思い至ったのです。
今、新しい神話を創り始めてるというのがコミックとアニメ。だから、じゃあもしそういうふうな論調がわかったら、君たちはどうすべきなのか、と。
ひとこと言いたいのは、だからと言って好き勝手していいわけじゃなくって、その新しい神話のコアになるようなものを創ってみせるというところまで行かなくちゃいけないんですよ。お前の好きなもの創ってるヒマないんだよと。そして、そういう神話を我々が獲得していくために、読者諸君もそういう心構えを持って、コミックとかアニメを見ていくと、なぜこれだけひどいものが氾濫してるのかっていうことを含めて容認できるようになってきます。
で、その中の何なんだろうこれはっていう、まさに、センス・オブ・ワンダーをしっかり受け止めていって、これを考えていけば、有限な地球で、あと3千年くらいは生きられるっていうハウ・ツーぐらいは発見できるだろうと思うようになったのです。
あとひとつには今言ったふうに思わないと、今実際にコミックで仕事をしている人たちが、漠然とした気分になっていきすぎてるんじゃないかとも懸念するからです。だから新しい神話を創るくらいの気持ちになれと目標値を高く持ったほうがいいんじゃないんでしょうか。そういうモチベーションがなければ、フィクションの仕事ってやる気にはなりません。