GUNDAMぴあ 富野由悠季インタビュー「ガンダムと俺」

時間が無いので発言部分のみ抜粋。

(1/1ビームサーベル光」の演出について)演出のコンセプトは、ものすごく単純でした。ビームサーベルをエンタテインメントにするということです。円筒形のスクリーンに光を投影するわけですから、上映の条件としては最悪です。その条件でエンタテインメントを考えるわけですね。様々な光が順に明滅していくという演出をやったのですが、かなりの変化をつけました。何はともあれ、こうやってガンダムの立像をもう一度見ることができたのは嬉しいことです。
ガンダム BIG EXPOで功績を称えられた事について)評価を得るということは、自分の勲章にもなるわけですから素直にうれしいです。いちアニメ屋に過ぎなかった人間が30年過ぎても、経済的に暮らすことができるわけですから、本当にありがたいと思っています。ただ残念なことがあるんです。それは、僕に追随してくれる人がいなかったことですね。
あのね、小富野がいっぱい出てきて欲しかったの。「機動戦士ガンダム」のコピーをしている人はいっぱいいる。安彦良和君のコピーをしている人もいる。だけど、小富野、小安彦はいなかったということです。もちろん、オリジナルをつくること、新しい切り口を発明することは難しいことだと思う。この世界は厳しいですから、ひとつのジャンルでぞろぞろと成功者が出てくるわけじゃないことはわかっています。でも「機動戦士ガンダム」以後、何もないんだから。あえてあげるなら「ドラゴンボール」や「ONE PIECE」しかなかったのは残念です。
「富野が『ガンダム』シリーズでやったことは、システムをつくったことだ」と、本広克行監督に指摘されたことがあるんです。オリジナルから新しいシステムをつくる人が今あげた作品以外、なかったということです。
当時の“ロボットもの”だったら、玩具メーカーをスポンサーとして、、オリジナルストーリーの作品をつくることができたんです。僕はフリーランスの演出家ですから、早いうちに目星をつけておきたかった。わかりやすく言うと自分の名を売りたかった。テレビ漫画のスタッフをやっていたら、自分の固有名詞なんて一般に広く知られるわけがないです。そこで僕は“ロボットもの”を利用したんです。そのためにはスポンサーに嘘をつかなくちゃいけなかった。「機動戦士ガンダム」はスポンサーの言うとおりには、つくっていません。相手も大人だから「あ、こいつ嘘をついているんだな」というのを承知で仕事をさせてくれました。一番申し訳ないのは、スポンサーと僕らの間に立っている人ですよ。間に立っている人は、そのウソの間に立たされてしまったから。それは「ダイターン3」でも、「機動戦士ガンダム」でも感じていたことです。「ザンボット3」のときは、創映社の社長に怒鳴られましたもの(笑)。「子供向けにつくるといったのに、あれはなんだ!」って。
“ロボットもの”は嫌いではありませんでしたが、当時、僕がすきなのは“劇”つまり“ドラマもの”、あとは“ゆるいギャグもの”でした。得意かどうかは別として、いつか“ゆるいギャグもの”はやってみたいと思っていました。だけどテレビシリーズとしてつくると、ギャグものは4倍から5倍の労力が必要なんです。子供向けだから楽ということは金輪際ありません。
仕事というものは条件があることで成立するものです。どんな仕事でも制作予算があり、スタッフの枠があり、制作スケジュールがあって、作品にもスポンサーがいるわけですよ。そのスポンサーの要求という枷ぐらい乗り越えないと、おもしろいものにならない。僕はそう思っています。無条件でつくられる作品は、よほどのことがないかぎり、良いものができないですね。とくに映画はどんなに文芸的にすばらしかったとしても、よっぽどコマーシャリズム精通している監督が撮らないと良いものになりません。小説のような文芸だったら、ワープロ一台あればいいから、多少はコマーシャリズムを無視したものをつくっていいかもしれない。でも、テレビシリーズや映画は一千万以上、場合によっては一億、三億というお金をかけているわけで、それを回収できない制作者は、ただの遊び人ですよ。学生映画ならまだしも、今の資本主義体制の中で映像をつくる以上、現金回収ができないといけない思っています。これを「商業主義」なんて言って馬鹿にする人がいますけど、そもそもなんで「商業主義」が悪いのか僕にはよくわからない。「『商業主義』を否定して、おもしろいものができるのかよ。同人誌や学生映画がおもしろいと思うなら、それをずっとやってみせろよ」と思います。僕はもっとマイナーなところではなくて、社会人として認められるところで仕事をしたい。もっと社会に流通するものとして作品をつくりたいんです。制作費の回収なんていうのは「商業主義」以前の最低条件であって、当たり前のことです。「せめて回収できる企画制作をしろよ」という基本的な理念です。特にフリーランスはそれをやらないと次の仕事が来ない。
ガンダムがそれをクリアしたかどうかについて)いや、その点でいったら「機動戦士ガンダム」も「伝説巨神イデオン」も失敗作です。ビジネスの問題を真面目に考えたら制作費を回収するのに時間がかかり過ぎています。やっぱりビジネスは半期決算なんですよ。だから、テレビはやはり半期決算に対応するフォーマットでないといけないと思っています。でも「機動戦士ガンダム」は半年じゃ回収できない。エンタテインメントの世界で現金回収しようと思ったら、3年はかかる。またスポンサーに嘘をつかなくちゃいけないことになるわけです。
現金が会社やメーカーに戻ってくるのは3年以上かかるものです。興行は緩いことを許されるものじゃない。“アニメ監督にもなりきれなかった富野”という自己評価を見つめなくちゃいけないとも思っています。
これが人間のやっかいなところです。一面的な評価論では納得できない。30年経ってから評価されたらダメだよね、という評価を自分の中に確定しておかないと、だらしのない人間になる。死ぬまで一人前でいたいんです。30年前の作品で気持ち良くなってる富野は、おめでたすぎるのではないかと言うことです。
たとえば「Vガンダム」は端的で、スポンサーの要求に対して、僕が全面降伏してしまったんです。「Vガンダム」の物語がなぜ、あれほどまでに面倒な話になったかというと、スポンサーと刺し違えてみせようとしたからです。あるいは「∀ガンダム」のときは、逆の状態。僕が無条件に好きなことをやってしまったのです。シド・ミードさんにお願いし、こっちで展開してしまった。どちらも極端な例でしたが、結果として「ガンダム」シリーズというシステムの限界を見せることになりました。つまり、僕が泥をかぶることで、後進の「ガンダム」シリーズを手がける監督やスタッフたちにとってはつくりやすくなったはずです。バンダイサイドやプロダクションサイドがきちんと協議をして、コラボレーションしながら「ガンダム」シリーズをつくるようになったんですから。
機動戦士ガンダムUC」なども含めて、最近の「ガンダム」シリーズはビジネスとしてものすごく良くやっていると思えます。ただ、これから先の10年を考えたときに、この路線から何が生まれるかというと、多少疑問に思っているところがあります。「Vガンダム」や「∀ガンダム」でやったことと同じ実験をもう一度やらないといけないのではないかと思っています。しんどいけれども、まだ死にたくはないから、もうちょっとなにかさせて欲しいということですね。
それは僕に限らず、人というものは絶えずそういうものなんじゃないでしょうか。この年になると、自分の死に方というものを意識します。すっぱりと死にたい。痴呆症になって自分が気づかないで生きて、死んでいくというのは嫌です。すっぱり死ぬためには、無為でありたくない。体が利いている間、頭が働いている間は仕事をやり続けていきたい。元気に死にたいんです。
作品を作るときに、己の身体性や社会性を度外視している人の多いことをかんじます。特にアニメやコミックという媒体は若い媒体ゆえに“好きだから”で済まされているような気がします。それが作品かというと、かなり怪しい気がする。アニメやコミックをもうちょっと「表現媒体」として確定させたいんだよね。面倒くさいなと思いつつも、そこについては、もうちょっとやらせてもらいたい。
(フリーの制作者の不安定さを変えることが使命であるということについて)ははは。その言い方はわかりにくいんだけど、まさしくそのとおりでしょう。40年以上前、僕が虫プロで仕事をはじめたときに、社会の中におけるテレビ漫画の位置づけにいきなり直面してしまったんです。なんとかこのテレビ漫画を一人前のものにしたい。これは、やっぱり僕のミッションです。
(例え肉体が衰えたとしても、あと15年現役でいてほしいということについて)嫌です(笑)! 元気のまま死にたいって言ったじゃない!

徳間のムックを見てないのでアレですが、最後のページに1/1ビームサーベルのコンテ6ページを縮小掲載。3ページ分が未掲載。