小説現代 02年10月号 富野由悠季×福井晴敏徹底対談「今、戦争を物語るということ」

歴史をニュートラルに捉える

富野 今、『徴兵制と近代日本」(吉川弘文館)という本を読んでいます。加藤陽子さんという方が書かれてるんですが、この方の近著『戦争の日本近現代史』(講談社現代新書)を最近たまたま買って読んで、非常に面白かったんです。政治、外交、軍事、全般的に見て、明治以後の軍制はどのようにしかれていったかという内容なんですが、本当に勉強になった。史料のつまみ方も全く新しい。視点が極めてニュートラルなんです。
福井 どんな方なんでしょうか。
富野 読売新聞の書評では「若き学徒」っていう書き方をされていた。歴史学では、これからはこの人の時代ではないかと。東大の助教授の、女性なんですよ。
福井 (略歴を見て)お若い方ですね。
富野 福井君みたいなタイプの物書きは急いで読んでおかないとまずい。軍事に対して何の偏りもないし、批判も何もしてない。歴史をひもとく時の目線はこうあるべきだろうという視点がある。『徴兵制と近代日本』で、僕が目からウロコだったのは、例えば、徴兵制がしかれて以降、日本人の健康な男子の何パーセントが軍に取られたか。知っている?
福井 当時で、4割とかそれぐらいでしょうか。
富野 ああ、いいところいってる。3割ちょっとだったらしい。徴兵逃れの法の抜け道が僕らが考える以上にあったらしくて、僕は驚かされた。
明治時代の徴兵制採用についても、史料を的確に並べていって、江戸時代の武士階級は志願制の究極の形だったと論証するのね。で、志願制で軍事力を養っていくというやり方を続けていった時に、彼らを国家が終生面倒を見ていたら国家財政が破綻するというのを、薩長だけじゃなくてみんなが気づき始めたために、結局、志願制を排除して徴兵制に移行していったんだという。
福井 志願制の形態は将校を養成する士官学校に留めて、主力となる兵卒はテンポラリーで揃えようとしたわけですね。
富野 そう。徴兵制だったら頭数だけ揃えば、5、6年で新規入れ替えができて、給料を累積的に支払わなくてすむでしょ。
こんな明晰な文章を読んだのって久しぶりだったし、史料を並べていくというのはこういうことなんだなと知った。初めに偏見ありきじゃなくて、歴史を相当冷静に見てるのがいいですね。
福井 この1年、太平洋戦争を背景とした小説の執筆に専念しておりまして、ようやく年末に刊行のめどが立ったんですが、当時の史料を集めるのは本当に大変でした。数はあるんです。ただ、その中からニュートラルな視点で書かれた史料を探すのは難しい。どうしても本人が見たいと思う見え方になってしまうし、場合によっては怨念がこもる場合もある。
富野 だから僕は、本当のこと言うと、福井君の書く小説をいきなり青少年が読んでもらっちゃ困るっていうのがあるんだよね(笑)。もっとフラットな視点から見たら、ずっと簡単に入れるんだよっていう感触はある。
福井 アハハ。でも、それはきっと難しいんですよ。いっぺん愚直に泥にまみれた方が、最終的にそういう視点に気がつける。史料に個人の視点が入りすぎるのは問題ですが、戯作は逆に作り手の視点というか、思い込みがなければ匂い立つものにはなりませんから。いろいろなものや意見を見聞きして、これは信じられる、こいつは納得いかんという繰り返しを経てからでないと、フラットな視点のありがたみというものも理解できないのではないかと思いますけど?
富野 うーん、それはそうかもね。

戦争論を語る言葉がない

福井 今回は、「戦争」というテーマで監督に対談企画を受けていただいたわけですが、正直言って監督は、もうこういうテーマに関しての考えは、『戦争と平和』(徳間書店)という監督と評論家たちのインタビュー集も出ているし、吐き出し切っているのではないかと思っていたんです。
富野 あの本を読まれた方はひょっとしたら薄々感じているかもしれませんが、僕のほうからあれに積極的に手を入れて、こちら側から構成するようなことはしていませんから、吐き出してません。
初めは、<アニメと戦争>という切り口で、「アニメージュ」のただの小冊子で出すぐらいのつもりでいたんです。それが、みんなで10時間近く話し合ったので、だったら単行本にしよう、<戦争と平和>みたいなタイトルでやろうと言い出したんだけれど、話の途中から、戦争の話を何もしてないよねって感じもしたし、僕のほうも聞かれないものは喋れないでしょ。だから一方でフラストレーションが溜まったという気分があります。これで気がすんでしまうアニメ世代の感覚のようなものが、どうにも見えすぎる作りになってしまったという反省があります。
福井 ああ、そうでしたか。読者層を絞りすぎている感じがして、それはもったいないなと思っていたんですが。
富野 今、加藤陽子さんのようにニュートラルな視点を持った戦争論というのを我々がほとんどしてないために、結局みんな言葉が足りなくなって、何を喋っていいのかもわからなくなっていると感じます。逆に言うと、戦争論と言った瞬間に、何を聞いたらいいのかわからないというのが、戦後我々が身につけてしまった振る舞い方なのかなって思いましたね。
民主主義の時代と言われながら、戦後教育で我々は、ワガママでいいってことを教わったらしい。自分の理解できる価値観や主義主張を、中高・大学生で掴まえた途端、結局それだけに縋って走っちゃう部分があるんじゃないかということです。そしてそれを、戦後教育を受けた人間は、「偏向」とは言わないわけです。
福井 「個性」という言い方をする。
富野 そう。個性、アイデンティティ、その次に繋がるのは、エゴイズムなんですよね。エゴをニュートラルに置くのか、個性として置くのかっていうことを、我々は本当に自分自身で意識しているのか、律しているのかと思います。まして自分より若い世代に、個性、エゴイズムの問題をきちっとコントロールしなさいよという教育なり言葉を持っていたのかというところまで来ちゃってて、その上で、「戦争」がテーマになってくると……。
福井 極端で安易な国粋論、現実には応用不可能で、ひょっとしたら自堕落を続けるための言い訳ではないかと思えるリベラル論まで出る。右も左も「個性」とパッケージングされて、きちんと検証もされずにマスコミが垂れ流すという事態になってくる。特に今は、戦後半世紀の揺り戻しで、「やっぱり徴兵とかやったほうがいいんだよね」なんていう発言がけっこう耳につきやすくなってます。これをファッションのように受け入れてしまう風潮は問題ですし、けしからんと目くじらを立てたり黙殺したりして、実のある反証ができない軟弱なリベラルというのもタチが悪いですよね。
そういった時に、戦後半世紀のあり方を全否定したり全肯定したりするのではなく、それを基に新しい認識を獲得しよう再構築しようというスタンスで話のできる人は本当に少ないように思います。
富野 うん。少ないと思いますよ。
福井 で、現状に対する呪詛と懐古論ばかりが横溢して、こういう歴史を経てきた日本ならではの戦争論の統合は未だできていない、と。監督は、作品を通してその辺りのことを描かれてきた稀有な方ですから、今日はこうして会いに来たわけなんです。

9.11以降の認識論

富野 だけど難しいんだよね。アニメに寄り添って話をしたほうがきっと楽かもしれないんだけど、そんなナンセンスな話を「小説現代」でしても仕方がないわけだし(笑)。ただ、僕は、ロボットアニメを20何年ずっとやっていたおかげで、嫌でも戦争のことを考えていたんで、どの辺りに問題点があるかは本能的にかなりわかっているつもりです。
今の戦争というのは、かつての戦争とは、性質が根本的に違ってきています。現在の世界経済の状態も、僕は、広い意味では戦争だと思っているんですが、日本語で戦争と言えば、国家対国家の、武力行使をするフィールドがあった上での戦闘のことを指すでしょ。そうなると、9.11以降明晰になってきたのは、もはや国家間の戦争という概念はあり得ないんだというふうに、なぜ我々はスイッチングできないんだろうか、という問題なんです。
∀ガンダム』の企画を始めたときに僕が一番意識したのはそこで、国家間戦争が成立しない中でいったいどんな戦闘状況があり得るのかと問うた時に、まず浮かんだのは、テロリズム。オウム的な集団が生成してきた時に起こり得る内紛や内乱とか、クーデターだろうと思いました。それ以外のバトル・フィールドは想像できない。だけど僕は、この状況は今後100年、200年は続くと見ているんです。旧来の戦争という概念をもうしばらく曖昧に引きずりながらね。
福井 自分の感覚だと、9.11以降の戦争のテロ化というのは、例えて言えば、今までは殴り合いのケンカで物事が片付づいていたのが、陰湿なイジメに移行してしまった、というふうに見えるんです。
学校の教室にアメリカというガキ大将がいたとします。根はそんなに悪い奴じゃないんだけど、とにかくおれがみんなをまとめていかなきゃって意識が強すぎて、言うこと聞かない奴がいると「秩序を乱すな」ってすぐにぶん殴る。でも最近では国際世論っていう先生がうるさいし、あんまり血を見るのは自分も嫌なんで、聞かない奴に対しては弁当隠したり、靴に画鋲入れたり(笑)、テロっていうイジメでじわじわ真綿で首を絞める方法を開発した。コロンビアの麻薬カルテルに仕掛けた不正規戦闘とか仮想敵国内の不満分子を焚きつけるってやり方です。
ところがそのやり方を見てて、「なんだ、あれならおれもできるよ」と気がついた奴がいた。腕っぷしでは敵わないけど、こっそり嫌がらせならおれもできるぞって。で、実行してみた。こうなるとアメリカも大慌てで、誰がやったかわからないけど、ここで黙っていたらなめられる。今までさんざん殴ってきたから、いっぺん黙認すると、こういうイジメはこれから延々と続くだろう、袋叩きにされるかもしれないってパニックになった。となったら、誰だかわかんないけど、怪しい奴を片っ端から殴っておくしかない。今後、同じことをしたらどういう目に遭うかってことを教室中に知らしめるために、内心では「おまえは違うんだよね」ってちょっと思いながらも、アフガンを思いきりぶん殴らざるを得なかったのではないか、と例えますね。
日本のマスコミの論調は、ブッシュがタカ派だからとか、ナショナリズムがどうこうとか言っているんですが、アメリカという国の成り立ち、先住民の虐殺から始まって、独立戦争南北戦争があってって、とにかく勝ち続けなければ立っていられないというアイデンティティを考えれば、恐らくアフガンへの侵攻は唯一無二の選択であったろうと思うんです。おれたちにはこうするしかないんだよ、と。それは善悪の二元論で迂闊に断罪していい問題ではないように思います。まして戦後の日本は、そのアメリカ的なものを存分に享受して、それになりかわる政治的、軍事的なテーゼを何ひとつ確立できなかったわけですから。
むしろ断罪すべきは、今回の飛行機テロで犯行声明をあえて出さなかったテロリストたちの方で、ここでアメリカが何か軍事行動を起こしたら、下手すりゃ宗教戦争になるぞ、第三次大戦だぞおまえら、手ぇ出せねえだろう、っていう論法がやった瞬間から見えている。しかも、アメリカが「そんなこと知るか!」って非難を承知でアフガンに侵攻した後も、まだだんまりを決め込んでいるという。アフガンがぼこぼこに殴られているのを横目に、じっと知らんぷりで隠れていられる神経というのは卑劣だと思いますし、まさに聖戦とやらが語るに落ちてるのではないかとも思います。
富野 初動までは、僕もあって然るべきことだと思った。ただ、3ヶ月以後のことではちょっと怪しい臭いを感じますけどね。
福井 そうですね。アフガン以後のアメリカの動きは調子に乗りすぎて、というかタガが外れてしまっていて、これは別に批判されるべきだと思います。
富野 テロに対する初動を、基本的に体罰論をもって臨むのがやむを得ないのは、初動をかけないと被害が拡大してしまうからです。どんなに少数の人間の手によるものであっても、今の技術でテロを仕掛けられたら、簡単に危険なところまでいってしまうし、それはオウムのサリンでも実効が証明されている。だから早急に叩くしかないんですよね。
テロの技術に関連して、「道具」ということについて言えば、9.11で使われたジャンボジェット機という、本来は民間用の移送道具でしかないものと、第二次大戦の1トン爆弾だ」2トン爆弾だっていう兵器とを比べて、さあ、どっちが破壊力があるのと言ったら、これは明白な話で、要は使いようなんだよね。
福井 そうですね。
富野 さっきの「戦争」という言葉一つとっても、今ものすごく我々は曖昧に使い過ぎてるけれど、「道具」に対してもやっぱり安易に使ってる。便利ならそれでいいって。我々は、「道具」や「知」「欲望」「喜び」など、ありとあらゆるテーゼをきちっと仕分けしてコントロールするだけの認識論を持っているのか? そして、仕分けだけじゃなくて、それらを統合もしなくてはならない。グローバルな経済活動をするようになったってことは、認識論から統合論までを瞬時に獲得できる知的レベルを持っていないと、すでにコミュニティそのものを破壊するところまで我々は来ているんですよ、ってことなんです。急いで言っちゃうと、きちんと物事を考えるなら、戦争論から隣接してパッと環境問題にまで対象を落とさなきゃならない。それだけのスピードを持ったインテリジェンスが必要なんだということです。だから僕は、実は今はテロなんかやってるヒマはねえんだってぐらいに思い始めてるんだけど、何でその辺りにみんなの話がいかないのか、とっても不思議なんですよね。

二人の予見者

福井 ただ、そこまで辿り着くには、まだまだ我々は多くの段階を経ていかないといけないんじゃないかと思います。
でも、まさに監督が今言った、発達した道具や技術によって今回のような戦争の形が引き起こされることを予見したのは、研究者レベルの話は知らないんですが、物語作家で言えば、自分が知る限り監督とトム・クランシーという小説家。この二人が、それこそ10年前から今回の事態をすでに予見していたんです。
トム・クランシーは、『日米開戦』(新潮文庫)で航空機テロという手法を描いていて、それ以前の『今そこにある危機』(文春文庫)では、アメリカが南米の麻薬カルテルに対してテロ戦争を仕掛けた経緯を綿密に描いています。これからは特化された少数のスペシャリスト集団が、テクノロジーを武器にして敵の中枢のみを叩く「薄明の戦場」が到来する。もう旧来のように戦車や軍艦を並べて陣取り合戦を行う「工業規模の戦争」はない、と言い切っているんです。ただクランシーの場合、それをいかにアメリカ的な倫理観の中で収めていくかということに終始するから、対処論にはなっても、抑止論には踏み込んでいないんです。
一方で監督は、意図してかどうかはともかくとして、『機動戦士ガンダム』で描いたモビルスーツという兵器、あれは何がすごいかというと、戦車や戦闘機という以上に「歩兵」、つまり個人が運用できるかなり自由度の高い兵器なんですね。つまりモビルスーツという道具によって歩兵一人一人のパワーが10倍、20倍になるから、人口の少ない小国でも大国家に匹敵する戦力が持ててしまう。『ガンダム』は、宇宙に浮かぶ人工島のひとつがその新しい技術を獲得して独立戦争を仕掛けてきたがために、新しい戦争の形に誰も対応できないまま、気がついたら一週間で人類の人口の半分が死に絶えてしまったという、そういう地獄から始まる物語でした。
富野 モビルスーツに関しては、もうひとつ重要な側面があります。もともとあれば民生用の機械から始まっている。ジャンボジェットと同じなのね。
福井 そうでした。宇宙の人工島、スペースコロニーを建設するために必要な作業機械で、だから地球連邦政府もチェックしきれずに、独立を目論むコロニーがモビルスーツを増産するのを看過してしまったという問題ですね。
富野 もとが兵器ではなかった。それが恐いんだよっていうのはずっと塗り込めていた話ではあったんです。
だから、僕の中での道具論と人の認識論の問題は絶対に切り離せない。ある高性能な道具を手に入れることに対して、現代人はあまりにも無定見であり過ぎるんじゃないかと思います。早い話が、ジャンボジェットでこんな簡単に旅行へ行けていいのかというテーゼがあるわけです。行っちゃっていいんです。わかる人間は、この便利さの中で地球の裏と表のことを同時に考えられる感性とか認識を手に入れられる。ところが、10何時間で地球の裏側まで行けるということは、よほどの想像力を備えていないと、この距離の中に実はものすごい数のコミュニティがあるということをスポンと忘れてしまって、こっちとあっちの全く異なる問題を同列に考えてしまうという迂闊さも生み出してしまう。我々はそれを一瞬にして掴むだけの認識論を本当に持っているのか、という点にはこだわりたいですね。
パレスチナイスラエルの問題にしても、我々や西洋文明人が論理の点と点を結んで、わかったつもりの議論を繰り返しているだけで、実は何にも近づいていないという現実がある。そうなると、まさに不幸なのは現代の人の悟性のあり方。これをどういうふううに感性と認識を拡大させて咀嚼、敷衍して、その上でなお、我はかくありという異見なり異論を出せるかということが21世紀人には求められているはずなんだけど、こういう論点もあんまり聞かないよね。
福井 ええ。今おっしゃられた問題点に気づくだけでも、多くの経験の積み重ねが必要なんだと思います。
富野 話してて、つくづくそう思った(笑)、僕、60になったからやっとこんな話ができるんで、40代の時はこんな話やっぱりしてなかった……よね。

日本という場所ならではのやり甲斐

福井 ああいうような事件があると、これからは戦争の話は作りにくくなるんじゃないかということが言われますが、自分は全然そうは思わないんです。むしろこれからやり甲斐がある時代が来るのではないかと。
日本という、風土的にも政治的にもわりと特殊な位置づけの、こういう場所ならではの戦争ドラマや、そこから戦争抑止論にまで繋がっていけるような、自分にとってもやり甲斐のあるお話を、これから日本が一番作りやすい時代になるんじゃないかという予感があるんです。
富野 僕もそう思っています。それこそ傍目八目でそれができるんじゃないのかな。問題のは、日本人がそれをプラスに考えなさすぎるということですね。うまくすると、インテリジェンスを伴った、汎世界的な新しい世界観が提示できるんじゃないかって思っています。
福井 この間、『日本人とユダヤ人』(角川文庫)という、イザヤ・ベンダサンという方が書かれた本を読んだんですけれど、彼は、日本には戦国時代と言われる時代があったらしいが、おれたちユダヤ人から見たらあんなもの小競り合いに過ぎないと言うんです。
確かに中国やヨーロッパで何百年もやってきた戦争を、我々日本人が見ると信じられないという部分がありますよね。どうしてそんなに延々とやれるのさ? っていう単純な驚きが。
富野 ありますね。全くそうです。
福井 前に監督から『亡国のイージス』を読まれて、人の死に敏感すぎるのではないかという感想をいただきました。それも、もしかしたら日本人の特性なのかもしれないなと思うところがあるんです。
富野 いや、それは日本人の特性じゃないと思う。最近の、戦後の特性ではないでしょうか。
福井 それ以前から、人が死んだということを長く引きずるような特性があったような気がするんですが。
富野 いや違うよ。敏感ではあるの。だけど、自刃をする、腹を切るということを言った時に、死に対しての美学はあっても、嫌悪感はなかったんですよ。死ぬことをかなり正確に見るという慣れがあったんだと思う。これだけは現代人が想像できないことかもしれないけど。
福井 では、人の死を尊ぶという感性が、日本はわりと強固なのかなという言い方をすればいいんでしょうか。
日本人とユダヤ人』で、日本人が一億玉砕を言い出したのはなぜかというと、徹底的にお坊ちゃんで真面目だったからだと言うんです。要するに思いつ詰めちゃう。自分たちの体面を何とかしなきゃと思い詰められるのは、今まで戦乱と無縁のお坊ちゃんだったからだ、とあって、なるほどなと思ったんです。
富野 それについては、鎖国があった日本にとっては、全くその通りです。
福井 この10年ぐらいの右翼的と言いますか、懐古趣味的なところでの再軍備の論調は、まさにそのお坊ちゃん的感性の発露によって、おれたちって脆弱だなあ、もうちょっと強くならなきゃダメだなあって自己嫌悪に陥っていられたから出てきたもので、やはりそれは「お幸せよね」ってことでしかないのかもしれません。
無論、あらゆる事態を想定した上で、対処する方策は取っていくべきだと思います。自衛隊というなら、読んで字のごとしの組織にするためには、まず在日米軍の一部というあり方そのものから変革していく必要がある。それを抜きにしたところで、新しい戦争に対応してどうのという議論は、素人目にも100年早いという気がします。古い戦争にさえ対応してなかったわけですから。
ただそれと同時に、お坊ちゃんならでは強みというものもあって、百年戦争独立戦争でスレていない、それこそ江戸の太平を何百年単位で続けてこられた感性が、ひょっとしたら、今のこのグチャグチャな状態の中にあっても、すっと立ちあがる思想的なリーダーモデルを作り出せるのかもしれない。少なくともその素養はあるのではないかと思うようになったんです。

エンターテインメントの必要性

富野 それについて僕が付け加えるなら、お坊ちゃんは世俗にまみれるために世間へ出ていかなくちゃいけないんだと自覚することが、まず重要になってくると思います。その場合の「世間」は日本人的に生真面目に捉えると、しっかり働けってことになってくるんだけど、それと同じ重さで取り組むべきことは、信じられないだろうけど、エンターテインメント、芸能なんだよね。つまり、お楽しみ。人生っていうのは楽しいんだっていう心をもう少し我々の中で醸成することが大事なんじゃないかという観点です。
福井 ええ、そうだと思います。
富野 どういうところからこの話が出てくるか、ちょっと説明しづらいんですが、簡単に言えば、ヨーロッパ人のこなれた娯楽の接し方みたいなものを見てみると、戦争をやってるすぐ側で、ショーをやってる、コメディをやってる、日本人のように肩肘張っていない、小劇団とか小さな芝居小屋というのがあって、それがコンスタントに各地で行われている。それに対する国家助成もかなりあって、しばしば一般紙にも大きく報道されているのを見たりする。
要するに、芸能の土壌がまるで違うんですね。日本人が思っている娯楽、観劇というほど、お金がかかったり、特別な日に観に行くものではなくて、もっと自然で気楽に接して観るものなんです。
日本人は、現在それは全部イベント、まさに大興行になっちゃうでしょう。最近、小劇団とか芝居小屋ものぞくようにしてみたんだけど、やっぱり構えてて、格好つけて、その中からゼニ取ってる。儲かるか儲からないかという経営論が先にくる。で、日本人の身にはなかなか備わらないなあって感じます。
日常の中にある芸能とか、エンターテインメントを、もっとこなせるような感覚を養っていかなければいけないんです。そうやって、人の感性や情操がこなれてきて初めて、福井君の言った新しい展望を開いていけるコミュニティというものが日本に成立するんでしょう。
その部分を抜きにして単に文化論として考えていくだけだと、生真面目だけで突き抜けちゃって、他の違う文化を持ってる人から見てると、それだけじゃキツいわ、勘弁してよ、ってことになります。
福井 たぶんそうなりますね(笑)。
富野 ヨーロッパというのは他民族人種地域であったために、特に第二次世界大戦以後、そういうものをかなり意識的に醸成していくような環境が文化としてあった。国家の施策の中にもそれが意識されていた。日本の国家にはそれがないから、文化に対しての助成も少ない。だから、まずそのこなれ作業をやっていくのがこれからの100年なんじゃないのかな。
でもこれについては僕は悲観はしていません。今、ヨーロッパ人の持つあるいい部分を褒めましたが、それと同じものを日本人は潜在的に持っていることを僕は確信しています。その辺りのヒントは近世、江戸時代の日本人の感覚、特にセクシュアリティのあり方に対する極めてフランクな感覚にありそうな気がしています。今みたいに壁と壁できっちり区分けしてない、それこそ衆目の中で若い女が水浴びをしていられるというような寛容さ。そんなふうにのんびりしてれば、ストーカーなんて生まれやしねえんだよって(笑)。そういう部分んを日本人は本質的に持っていて、これは西洋文明がガタビシ言い出した今、思い出してゆくべき感性のあり方だと思います。

映像における身体性

福井 監督の新作『オーバーマン キングゲイナー』は、その意味では、世界の様々なコミュニティに対して発信し得るものになってるような気がします。これまでの監督の作品、例えば『ガンダム』にしても、日本の土着的な感性が底流にはあるんですけれども、見え方としては西洋的な文化、物の捉え方が中心にあるという印象がありました。それが、最近の『ブレンパワード』や『∀ガンダム』の助走を経て、ついて汎世界的な感性で走り出したかなという感じがしたんです。
富野 まだまだ柔らかくないなという感触は持っています。ただ、テレビだから、子供向けだから、ロボットものだからこそ、ベーシックな部分で認識論を絶対にぶれたところには置かない、曖昧に作ってはいませんよということは言えます。表現をするというのは、多少そういう責任がつきまとうものなんじゃないのかな。
福井 『キングゲイナー』のすごさは、みんなが躍動的で、アクションを描くには不可欠な新体制を見事に獲得しているところだと思います。喋る、走る、殴るという行動一つひとつにためらいがない。失礼ですけど、あれだけ動き回るものをよくそのお歳で作れたなと……。
富野 動かないものを作るほうが多少は楽ですよ。でも、映像表現の基本はロジック・ワーク。つまり頭の中の考えだけで基本はすませられます。映像で身体性を表現するにしても、絵を構築していくという部分で言えば、極めてロジカルで知的な操作が必要なんです。映画でもアニメでも、一見しただけではそれは見えないんですけどね。そこへ、さらに演劇的、音楽的な要素が入ってくるので、これが面白い。僕の場合には、あれぐらいに動かすのは、基本的に首から上の問題だから、それほど苦ではないんです。
福井 なるほど。しかし首から上に栄養を巡らせるのも身体性あってのことですから、やはりすごいと思います。
富野 大雑把な言い方をすれば、動物でもロボットでも人間でも、そのキャラクターの持っている躍動感を最大限に発揮させて物語を描いた時に、伸体制がワッと露出して物語そのものが走り出すんです。キャラにただ喋らせれば伝わるだろうというのは大間違い。
キングゲイナー』では、今までと少し違う目線で、物語とキャラクターと映像の三角点を、うまく一致させることができるようになったのかもしれませんけどね。

ヒーローたちのいるコミュニティへ

福井 今回の監督との対談にあたって考えてみたんです。自分が描いてきた話が戦争物と呼べるかどうかの議論は置くとして、とにかくそれらしいものをずっと書いてきて、なぜ自分がそこに惹かれるのかと考えた時に、監督が以前お書きになっていた言葉がぽんと浮かんだんです。それは劇場版『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』のBGM集のライナーノートにあった言葉で、たぶん同時期に上映された東宝映画の『連合艦隊』のことだと思うんですが、「国を守るために男たちは愛を捨てて死んでいった」みたいなその映画のコピーに監督がめちゃめちゃ怒ってて(笑)、「かつて愛を捨てたから敗北した国家があったんだろうってことに何でおまえらは気がつかないんだ」と。あの一文を見たのが、たぶん中学の時だったと思うんですけど、未だに覚えてるんです。
富野 よく覚えてるよなあ(笑)。
福井 もう一つ、『機動戦士ガンダムF91』という、『ガンダム』の続編で監督自身がノベライゼーションをしてるんですが、これにも非常に忘れがたい一文がありました。これからいよいよ戦争が始まるというくだりで、「そして、人は、これから始まる狂騒のなかで、また人本来の美徳をも発揮するのである」と。美徳というのは、よい意味での助け合い、団結精神であったり、利他精神の発露であると。これを平時に発揮すれば、そもそも戦争など起こらないだろうし、世界ももう少し住みやすくなりそうなものなのに、人はどうしても平和の中では怠惰になる。「人は、まだ永遠の平和のなかで、高潔でありつづける精神をもちうるほど、強靭な生物ではないのだ」という次の文に繋がっていくわけです。
平時ではずっとダメだったものが、その時にはビシッと引き締まる。ひょっとしたらその繰り返しというものが、心臓の鼓動みたいなもので、ガス抜きというと語弊があるかもしれないけれど、そういう視点での戦争というものが存在するのではないかと。自分の世代のように、この国は戦争はやらないと決めた、戦争は悪いものだから見ないでよし、考えないでよし、という教育を受けた者にとって、これはものすごく新鮮だったんです。
それをして戦争待望論に結びつけるのではなくて、戦時という極限状態だからこそ見出される美徳のありようを、平和の中でどう発揮させていくかということを考えるために、戦争ドラマの形態はまだこれからも利用できるし、語っていく価値のあることだと思ってるんです。
富野 ある意味残念ではあるけど、それは利用できると思います。一生活者としてそれを考えた時に、わかりやすく言うと、自分がヒーローになったと実感できる局面というものをもっと手に入れられなければ、カタルシスが得られない、ということでもあります。
となると問題は、何を指してヒーローと思えるか。そういうものを日常的に体感できるような行為、場面を手に入れなくちゃいけないんだという認識を持ち得なければいけない。実は、我々の周りにはそういう意味でのヒーローはいっぱいいるんですよね。イチローがそうでしょ。
福井 そうですね。
富野 環境問題で言えば、この砂漠全部に木を植えてみせたぜということをヒーローだと思える心性を持つことだと思うし、自分の足を使って日本地図を作った伊能忠敬みちあな人物を、我々はもっとヒーロー像として尊ぶメンタルな部分を訓練しなくてはならない。それには認識論というものをもう少し広く持ち、高めていく学習が必要なんじゃないのか、ということです。
戦争というテーマに卑近なところで例を求めれば、今の自衛隊にしても、彼らは国を守るためのヒーロー、テロに対して市民を守るためのヒーローかもしれないということも社会通念といsて高めるべきではないかと思っています。
これは実はかなり急務なんですよね。道路公団民営化云々ってやってるのと同じくらいの政治的アクションにしてでも、自衛隊員たちにプライドを与えるということを社会的に認めないといけないと思うんです。これは教職員とか官僚にも言えることで、ヒーロー論、プライド論がないから、我々は飽食の時代にみんなでイコール、みんなで民主主義、みんなでバカになってしまったのではないのかと思っています。これは国家論として僕は一番大きな問題だと思う。
福井 ヒーロー待望論みたいなものが、下手をすると、独裁者を作るというようなことに短絡して考える日教組的風潮はありますね。
富野 そう。小さなヒーローたちがそれぞれのコミュニティにいたら、独裁者を作ることなんか許さないんですよ。
福井 現在はヒーロー不在論というか、一種の排斥論ですね。そこまできてしまって、「愛国」なんていう言葉を口にしたら、それこそ右って話になっちゃう。
これは言葉の認識の違いの問題で、天皇を中心に置いての皇国、皇国のための愛国っていうのなら、これは今さら言っても始まらないと思います。ただ「愛を捨てたから敗北した国家があった」、この言葉は今こそ自覚していくべきでしょう。「愛」という言葉はどうしても「エゴ」という言葉と結びつけて考えやすいんですが、それほど狭隘な言葉ではないと思っています。
自分が好きな人と一緒に暮らそうという時に、何がまず必要かと言ったら、共に生活する住居であり、着るものや食べるものを売り買いできる市場であり、働いて金を稼げる職場でしょう。それらが成り立つために必要なシステムが社会であり、国であるのなら、自分たちが愛を育む場所としての国、コミュニティは絶対的に必要だとわかりますし、いとおしむ心根も自然に育つと思います。そういう意味での愛国という意識はあって然るべきだと思うのですが。
富野 必要ですね。今みたいな話を我々が、ニュートラルに歴史を見つめながら考えていけば、新しい日本人のメンタリティのありようが生まれてくるんじゃないんでしょうか。
(了)

旧ブログ時代にちょっとだけ触れていましたが、その際に掲載号数を間違えていました。申し訳ありません(ググると出てくる業界板のスレはそのコピペ)。
02年は富野:福井がセットの記事が多いですが、これはその中でも最長の対談。
福井氏が言及していた次作はご存知のローレライですね。また、個人的には今回の対談はローズダストにも繋がる様な発言でもあると感じました。
先日の早稲田祭で言及していたジャンボジェット機の使用是非は10年前のこの時点でも言及していた。これは思い出せなかった。
福井氏が特定の作家の名前を挙げるのは珍しい。
スピードを持ったインテリジェンスが必要、という言葉もすでに出ている。これは去年頻繁に聞かれた言葉。
10年前も言ってる事が変わらねぇな、という再確認が出来た記事。
「戦争の日本近現代史」は「面倒な十冊」の中の一冊でもあります。最近新装版? が並んでいた印象。結構面白いのでオススメ。