オーバーマン キングゲイナー DVD9巻ブックレット 富野インタビュー

キングゲイナー』のストーリーラインに関しては、河口PDとそのもとに集まった、言ってみれば“烏合の衆”のライターの個性にお任せしましたから、決して僕の好みではありませんでした。でも、悪口に聞こえるかもしれない“烏合の衆”という言葉が、とても大事だったと思います。たかがロボットものなのに“今の時代に向かいあう”ということを目指して、シナリオ・ミーティングで雑多なことを話し合いました。そのとき誰一人として、“こうしなければいけない”と知った風な規範を言い出さなかったことが、とても勉強になったのです。新しい時代に応じた価値観を見つけていく作業として、かなり有益であったと思っています。
若いみんなが生み出したおバカなストーリーラインに僕のような年寄りの演出的スキルが入れば、話の帳尻合わせができて、雑然としたまま出さなくてすむという打算がありました。今回、そのスキルを発動することに終始したので、好きなものをつくったとは言えませんし、演出的な実験も何ひとつできませんでした。ですが、その方が幅が広がるもの、次につながる面白いものを結果として手に入れることができたと思っています。
それは、ガヤガヤした雑多な声みたいなものが、『キングゲイナー』の画面から聞こえてくるような作品に仕上がったことからもわかります。昨今でいうファンタジーもの、美少女もの、名作もの、幼児向けなどなど、知ったような分類にいっさい収まらない、もはやロボットものとすら呼べないかもしれない作品だと言えるでしょう。多様なものを取り込み、過去に例のないものにしていくことが作品づくりですから、ものをつくっていく上で一番大事なものに触れたと思います。あとは参加していただいたスタッフ個々人が、自分たちがものをつくる舞台の第一歩に乗ったということを理解して、“烏合の衆”から脱却してくれたらいいな、と願っています。
映画づくりでは監督の名前を取って「○○組」という呼び方があります。しかし、それは何か決まった実体が先にあって始めることではないのです。作品をつくるために、とりあえずの小さな組織ができて、それが広がっていった結果のことなのです。その繰り返しが映像をつくる仕事だと思っています。これからデジタル化が進んでいく中で、仕事をする拠点としてのスタジオワークを考えると、人の集合離散があるわけですから、そのとき集まった個々人が何をやるか、よりきちんと考えなければいけないと思います。
作品を御輿にたとえれば、乗る人、かつぐ人、団扇を振り回す人、それぞれ役割があるわけですが、全体としてひとつの御輿です。こういったことを意識しながら動くのは、きわめてアナログ的な仕事になります。このとき誤解してはいけないのは、御輿はみんなでかつぐもの、つまり「総意」があるということです。監督は絶対君主にたとえられることが多いのですが、監督の個性、才能だけが最優先されてしまうのは間違いです。作品のすべてが監督のものではないのに、監督主導になりがちなのは、日本人の欠点だと言えるでしょう。
とはいえ、いちスタッフが与えられた仕事だけをやればすむというように、無責任な存在になりがちな事情もわかります。千人の人間が登場するモブ(群衆)シーンがあれば、カメラにきちんと写らない人は、どうしても適当にやってしまいます。そういう場合、責任感を希薄に感じたり、むしろ感じられないくらい点のような存在として構成されてしまうことがありますから、どうしてもヘッドに責任を転嫁してしまうという習性はつきまといます。それは自分自身も各社で絵コンテを切っていたときに似た経験があります。
ですが、千人目のエキストラであったとしても、その千人目なりの任務は必ずあるのです。これはアメリカの例を見ればわかります。ハリウッドの映画で、ほとんどピントの合っていないバックダンサーの動きがすごく良かったり、過剰に熱の入った仕事を見せつけられて、羨ましく感じることがあります。「カメラにはっきり写らないことも承知していますが、私がやったらこうなるんです」という芸を出しているのです。アメリカは異人種の集まった国ですから、そうやって自己主張の入った仕事をしないと、自分が干されるかもしれないことを承知しているからです。
キングゲイナー』の世界も、多彩な登場人物ありきで構成されていますから、全部が異人種の集まりと言えます。それでも話の流れは一本調子にしなければと、ひとつの場に圧縮していったとき、わかったことがあります。ここまで圧縮されれば、キッズ・ムントだってキレるだろうし、シンシアだってキレるということです。その気分は、ゲイナーにも感じます。そして、それぞれフラストレーションを感じながら、各人が良い意味での自我を確立していく。周りにとっては異人種かもしれないが、“自分はここにいるんだ”という主義主張が出てくるわけです。あのラストシーンの持っている意味も、こういった話に重なってきます。シンシアがいてサラもいて、ゲイナーがいる……とても変な組み合わせですが、「すべて了解した上で、いまここに三人がいる」という認識の力が見えることがすごいことだと思っています。それもなんとなくではありません。好きだ嫌いだ、という話でもありません。あのバックには五賢人と呼ばれる変な連中がいて、いろんなことをやったから三人で立っていられるわけですし、そういった部分もきわめて理知的に了解して、お互いの存在を了解しあっている姿はすばらしいと思います。まさに現代の理性が生んだ「寛容」があそこにはあるのです。そういうキャラクターを手に入れられたこのアニメは、改めてすごいと思います。
人というものはまさに百人百様、人種も含めてひとりひとり違うと僕は想定していました。オーバーデビルという摩訶不思議な存在も出しましたが、それは作劇上の手法でしかありません。オーバーデビルの象徴するものとは、フラットに言えば「自然」になります。理解を超えてわれわれを脅かしてきた自然に対して、人間は文明を築いて今日まで生きてきました。それは、まさに百人百様の違った人同士の軋轢を乗り越えられるだけの認識力を持ったからだと思います。ヤーパンへのエクソダスから始まった『キングゲイナー』の物語も、行きつくべきはこういう形になっているのです。つまり『キングゲイナー』は有史以前の話、これから文明をつくっていく「神話」だということです。
僕自身、60歳を過ぎてこのような作品がつくれたことで、大人として恥ずかしくないと思っています。次に何をやるべきかも必然的に見えてきましたから、また新しい仕事に反映していきたいと思っています。

制作日誌の打ち上げコメント

キングゲイナーで僕は大きな自信を貰いました。これで百歳まで仕事できます。