週刊ポスト 10年9月24日号 言わずに死ねるか! 第7回 富野由悠季

僕はアニメーション制作という“絵空事”の世界で生きてきたから、実業の世界には詳しくない。とはいえ、だからこそ見える日本の問題点があるとも思っている。
日本人に圧倒的に足りないのは、物事の判断能力だ。特に福田康夫首相が辞任したあたりから、政権交代した現在まで、指導者である首相たちのビジョンが見えてこないと感じる。
彼らからは国家論どころか、人物としての覇気が見えない。鳩山由紀夫氏や菅直人氏の表情をテレビを越しに見て、首相になったとたんに生気を失い、うつろな表情になっていくのには参るし、代表選レベルの各論になると、空論を声を大にして喋れるというのはどういうわけか。「貴兄たちには国家指導の理念がない」と断ぜざるを得ない。
現代の人間が過去の人々を指弾するのはルール違反だと承知しているが、第二次世界大戦の開戦に溯ると、当時は「皇軍は絶対に負けない」などと、精神論だけでものをいうような指導者がはびこっていた。普通に考えれば、国土が小さく資源に乏しい日本が、アメリカに勝てるはずがないことは自明の理だ。
その太平洋戦争から半世紀以上経ったが、すでに日本は同じ間違いを繰り返している。いまだにバブル経済時代の享楽を忘れることができず、低成長の時代に入った現実を認めようとしない。20年以上にわたる不況にあえぎ続ける日本は「第二の敗戦」とも呼べる国難に直面しているのに、だ。
明治の日本には一流国への仲間入りを目指す後進国としての謙虚さがあった。日露戦争では政治家や軍人、民間人が一体となり、どうしたら勝てるのかを必死で考えた。日露戦争に懐疑的な声も多かったが、指導者の冷静な判断が手に入れた勝利だった。
ところが、勝った瞬間に新聞メディアが手放しで礼賛したことで日本は謙虚さを失い、「神国」だとか、「皇国」だとかのフレーズで冷静な判断を放棄し、太平洋戦争に突入してしまった。1945年の敗戦は、失われた謙虚さを取り戻す最大のチャンスだった。ところが、20年も経たないうちに高度経済成長期を迎え、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともて囃され、また舞い上がった。あの広大なアメリカより多くの自動車をなぜ日本が作る必要があるのか。真珠湾攻撃の決断をしたときと同じ、冷静さを欠いた判断といわざるを得ない。要するに、はしゃいでいると物事の判断を間違うという教訓をまったく生かすことができなかったのだ。
40代以上の大人はバブル時代の記憶が新しく、これ以上学習することは難しい。だからこそ、30代以下の子や孫たちの若い世代に何としても身につけてほしいのは、冷静に物事を判断する能力だ。きちんとした歴史教育の確立はそのひとつの方法のはずなのだ。
教育に力が注がれず、本当の意味での政治、経済、社会のありようを学べるような教育がいまだに確立できていない。挙句の果てに行き着いたのがゆとり教育というのでは、あまりにもお粗末だと知るべきなのだ。
多くの学校では、歴史の授業のうち近代史をパスしてしまうと聞く。歴史をきちんと立体的に学ぶということは、物事を判断するのに最低限必要なことだ。
一生懸命勉強して官僚になった優秀な人材が、自らの天下り先を確保すること(霞が関の隠語では専務理事政策と呼ぶそうだ)に多大な労力と時間を費やすことは国家的な損失だろう。
日本は食料もエネルギーも輸入に頼っている。そのような国を独立国といえるのだろうか。地球環境、食料問題、資源問題など新たな課題は山積みだ。新しい価値観を目指さなくてはならないにもかかわらず、地に足のついた議論が二の次になっている現状を、僕は憂慮するのだが、憂慮するしかない己に唾棄もする。