週刊大衆 12年1月9・16日号 人間力 第83回 富野由悠季

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上井草に引っ越してきたのは、8年ぐらい前です。引っ越した翌年に、駅前にガンダム像を作るって話になった。僕にとって日常である駅前に、ガンダムはやめてくれ、って言ったんですけどね。でも「もう決まっちゃって、補助金も出ますから」って言われて、結局建った。怒り狂ったんですけど、日常の中で仕事のものは見たくなかったのにね。
30年以上前のロボットものというジャンルは、アニメの中でも最下層でした。世界名作ものがあって、その次が『魔法使いサリー』の様な女児もの、その次が雑誌連載発のもの。ロボットもの専従者は馬鹿じゃないの? っていう目線が、間違いなくあった。おもちゃを売るための旗振り役ってわけですから。
本当はその言葉遣いをするな、って周りから言われているんだけれども、僕にしてみれば、この程度の事しかできなかった人間がたまたま『ガンダム』っていうタイトルを手に入れることができて、それは全部が全部実力じゃない。アニメってのはまったく映画と同じわけで、ひとりの才能で作るわけではない。所詮、一スタッフなんです。
僕自身にとっては、テレビアニメの仕事は、言ってしまえば最下層の仕事だったわけです。それでも、コツコツまめにやっていれば、なんとかなった。
僕は、世間って、どんな職種であってもコツコツとやる人を見殺しにはしないと思う。つまり世間はそれほど狭くない。世間がキツいとか、冷たいとかっていうのは、初めに自分の我があるからじゃないのかな。
僕は夢みたいなことで暮らせるとは思えない。だから、そんなつまんない仕事受けてもしょうがないじゃないか、っていう仕事も、『ガンダム』以降も山ほど受けましたもん。『ガンダム』だけじゃ食っていけませんから。
時代とともに改善される部分もあるけれど、時代は悪い方向に行ってる部分もあると思いますね。
やっぱり、暮らし良くなっちゃったことですね。飽食の時代ってレトリックじゃなくて、餓死者がいなくなったときに緊張感がなくなった。民主党政権に代表されるあの世代は、団塊の世代の申し子で、競争が激しかったとか辛かったとか言うけど「嘘つけ、餓死者がいたかよ?」って話なんです。戦争みたいに、理不尽に肉親が殺されたかい? って。
そんなの何も体験しなくて40歳まできて、リアリズムで物を考える能力がまったく欠落している。要するに、ジャパンイズナンバーワンみたいなことで浮かれてきた大人が、そこまで馬鹿になってるんです。
僕が今、こういう言い方ができるのは、当事者じゃないから。アニメ屋だからです。本当にこの10年、本業の仕事ができなくて、年もとってきて。でも、年をとったってことは、おそらく今の30代よりは昔を知ってる。つまり比較ができる。そうすると、一般論的な意味で理解できることがあるんです。やっぱり世代の言葉とか、風潮があって、どうしても“いま”という視界になる。だから「自分の視界が広いなんて思うな」ということなんです。
その気をつけ方をすれば、少しは違ってくるだろう。それをみんなで持っていこうよ、っていうのが、申し訳ないけど年の功で、アニメ屋ごときですが、言わせてもらいます。
まさに外野からきちっと、一番コアになるものを投げていくぐらいのことはしていかなくちゃいけないんじゃないのかって。それで「え、本当にそうかな」って思う奴が出てきてくれたら良い、そんな意識をこの半年で持つようになりました。

週刊大衆へ日登が取材許可を出した事におどろいた。
餓死者のくだりは、一昨年後半に二度言及。その際も緊張感の無さを現していたが、今回は多少ことなる切り口。
アニメ屋という言葉を用いての外野表現は秋の静岡イベントでのスカイツリー批判同様。


今年の更新はこれで最後になると思います。よいお年を。

追記:週刊大衆公式Twitterアカウントによる取材時発言