オトナファミ 11年5月号 歴史を動かした創造者が今語る「イデオン」

ガンダム」の成功体験が「イデオン」を生んだ

――「イデオン」が制作されてから30年が経ちました。同作は、当時どのような背景で作られたのでしょうか?
富野 まず、「イデオン」は「ガンダム」を超えなくちゃいけないという意識のもとに作りました。とくに「イデオン」の劇場版に関して言えば、その直前に公開した「ガンダム」の劇場版3部作での成功体験が、僕に自信を持たせてくれたのと同時にプレッシャーを与えたんです。なぜなら、あれは映画としてイチから作ったものではなく、ベースが既放送のテレビ番組のダイジェストだったから。それでも、「劇場版」と銘打って、3部作として公開できるものを作りヒットさせてしまった。しかも日本で、いや世界で初めての例として。つまり、僕自身がこの成功で得た経験を持って次の映画を作ろう思ったとき、単なる焼き直しやスケール感だけでは「ガンダム」3部作を乗り越えることはできないと考えて、「イデオン」の真の結末となる「発動篇」の世界観へと繋がっていったんです。
――「イデオン」は戦争から輪廻転生まで、作品全体で非常に大きなテーマを扱った作品です。もはやロボットに注目しなくても成り立ちそうですが?
富野 それは誤解。イデオンという巨大ロボットがなければあの物語は絶対に作れなかった。僕は「ガンダム」の時点で、巨大ロボなんて物語を作る上で邪魔な大道具だと思っていたんです。でも「ガンダム」でロボットを兵器として扱うことで、使う側の人々の間でドラマが生まれた。あかげで面倒臭い大道具でも使いこむ自身がついたので、今度は全長105mというイデオンの設定を正面切って使ってみようと思ったんです。そしたら今度は、世界観全体も大きくする必要がでてきた。それまでのアニメが無視してきたことだけど、あのサイズのロボットは物理的に考えれば立てません。それを成立させるために、人智を超えたエネルギー、無限力のイデを持ち出した。で、「意志の総体」が物理的な無限力になるという設定まで繋げたときに、イデオンは立っていられるんだって理由ができたんです。これだけの大道具や設定、つまり物語の世界をシンボルするようなものがあったら、周りの人間も影響されていきますよね。そこからあの物語が生まれていったというわけです。
――生と死を観念的に扱った物語をロボットアニメで成立させた、ということが大きいですよね。
富野 「ガンダム」のように地球圏や太陽系だけの話で、人間が無限力を持つイデと出会うのは都合が良すぎる。もしも「イデオン」が太陽系圏内の物語だったら。バカでかいロボだけが突出し過ぎて「やっぱ子供向けのアニメだよね」と言われて終わったでしょう。「イデ」が太陽系のひとつも壊しかねない巨大なエネルギーで、舞台となる空間を遥か遠くまで飛ばしたからこそ、全部を観念として捉えることができたんです。だから、当時観た子供たちが大人になった今、あらためて考えられる作品になっている。僕は当初から評価がすぐに出ないことはわかっていました。

概念とか妄想とか希望とか「イデ」は世俗的な物語

――「発動篇」を作る際に、カール・オルフの声楽曲「カルミナ・ブラーナ」という曲を参考にしたと伺いましたが。
富野 そうなんです。今もお話した巨大ロボットもの、無限力論、そして輪廻転生を含めての物語世界が、すべてその楽曲にあったんです。人は元来、概念や妄想や希望や憧れを持っていたんだと。それがすぎやま先生が作ってくれた「発動篇」のエンディング曲「カンタータ・オルビス」に反映されているんです。
――登場人物全員が魂となって飛んでいく、ラストシーンにかかる印象的な曲ですね。
富野 「カルミナ〜」って耳で聴いた印象だとすごく荘厳な宗教曲なんですけど、歌詞の翻訳を読むとくだらない内容なんです。言ってしまえば「腹減った飯食わせろ」みたいな。でも、実は一番世俗的に見える行為、日々の刻苦の積み重ねが、ひょっとしたら一番目指すべき高みなのかも知れないと歌っているんですよ。
――「生」そのものですか?
富野 そう。だから僕が「イデオン」以降も心がけているのは、崇高なものとか宗教的高みというのを絶対に上に置かないこと。例えば悟りを啓くためにはどうしたらいいのか? それは自分たちの身の丈の高さにしかなく、上に求めてもしょうがないというお話を「イデオン」でもやっている、ってことなんです。

あのラストは「禁じ手」本来使ってはいけない

――今こそ「イデオン」をリメイクしてみようとは?
富野 それはできるかもしれない。でも手を出さない方がいいかもしれない両方が正直な気持ちです。それは、僕自身が「ガンダム」よりも「イデオン」のほうが優れた物語だとも思っているからなんです。いざ作り替えようと思っても、なかなか付け入る隙がないんですよ、物語としても完璧だから。やる意味があるとしたら「イデオン」を知らない世代の人たちに、「イデオン」みたいなお話をアニメでも出来るんだよと伝えられることでしょう。であれば、映画での復活ならありかもしれませんね。
――先ほどお話に出ましたが、「発動篇」のラストについて、全滅させてしまった理由とは?
富野 あれは本来、作劇をする上でやってはいけない禁じ手なんです。全滅させると嫌でも悲劇になり、簡単に映画の印象を残せてしまう。だからそんな汚い手は使っちゃいけない。だけど、テレビの1クールが終わる頃には、そのラストしないともはや終われない物語になっていた。ところが打ち切りが決まってしまい、3クールまでで全滅に落としこむのはどう考えても無理だった。実際に最終話で全滅させてしまいましたけど、すごく曖昧に。というのは、ファーストガンダムと同じように、ひとつの戦闘局面が終わったところで打ち止めにすれば、とりあえず終わったようには見えるから、という判断だったんです。だからこそ大団円としてちゃんと落ち着かせたかったから、映画にしたんです。あれをやらなかったら「イデオン」は、ロボットアニメ以下のアニメとして忘れられていくとわかっていましたから。

リメイクの方法をたったいま閃きました

――「発動篇」では戦闘シーンでの残酷描写も話題になりました。
富野 劇の構成上、必要な画を入れただけだと、本当にそう考えています。例えばおチビちゃんの首がなくなる映像、わざとではありません。全裸の幽霊のオンパレードになるラストに持っていくためには、あの戦闘局面で生身の人間がどういう風に死んでいくかを具体的に描かないといけなかった。だけどいまオール新作で「イデオン」を作るなら、あのカットは問題ですよね。今の大人たちの反応もあるから、そこをそうしたらいいか? 思えばこんな話をしたのは初めてですね。初めてっていうのはどういうことかというと、もう具体的に「イデオン」新作の演出プランを考えているってことです。そして今、その方法が閃きましたよ。
――ええっ!? どんな方法ですか?
富野 それは上手に作画できなければしょうがないから、今は喋りません(笑)。ただもしやるとしたら、全体を再構成して2時間くらいの尺、つまり1回の上映で「イデオン」のお話をポンとわかるように作りたいんです。2部作を作った僕が言うのもへんだけど、お客さんのことを一番に考えて作品を作るのが僕のポリシーですから。

本来はBD発売に合わせての記事だったのでしょうが、現在一週間延期イデオンナイトは土日でまとめたい…)。
一本化リメイクの話の初出はサンライズフェスティバル冬銀河のトークショー(まだまとめてませんすいません。)。その間にプランを考えていたか。